13
異様な喉の渇きに目が覚めた。
闇が撹拌されるように、ぐるぐる回っていた。布団から出るのも難儀で、何かに寄り掛からなければ立ち上がれなかった。
壁伝いに台所へ向かう。随分遠く感じられた。長い時間を掛けて辿り着くと、水切り籠から手探りでコップを抜き出し、水道の水を飲んだ。一杯では足らず、二杯、三杯と立て続けに呷った。焼けるようだった喉は潤い、目眩も落ち着いた。
ダイニングテーブルの椅子に座ると、佐藤医師の顔が浮かんだ。そろそろ本当に、入院を考える時期だった。
テーブルに置いたコップで、黄緑色の光が明滅していた。振り向くと、ユイの座る充電椅子があった。光は、アンドロの充電中を示すものだった。闇の中でユイは、静かに目を閉じている。死んでいるようにも見える。
老人は腰を上げ、ユイの方へ近付いた。真正面から、妻と瓜二つのアンドロを見据えた。一秒ずつ時を刻む時計の音が、誇張されて聞こえた。
ユイの、左耳の後ろへ手を伸ばす。彼女が目を覚ます気配はない。老人の枯れ枝のような指が、黒く冷たい髪に潜り込む。彼女の耳に触れる。きっと耳の形も、妻のそれとそっくりなのだろうと老人は想像する。
だが、電源スイッチを押す前に老人は手を捩じ上げられた。凄まじい力である。ユイではない。いつの間にか傍らに、もう一つの人影が立っていた。
「何やってんだよ、あんた」次男の声が言った。
老人は答えない。
「何やってんだって聞いてるんだよ」
「離せ」
「彼女の電源を落としてどうするつもりだ」
「明日、業者が回収に来る」
「回収?」
老人は、次男の手を払った。
父と子は対峙する。
「こいつは左手が使い物にならないし、プログラムにもバグがある」
「壊れたから処分するって言うのか」
「当たり前だろう、道具なんだから。使えん物を置いておいても意味がない」
「母さんにそっくりな彼女をよくそんな風に言えるな」
「あれは人の形をした機械だ。本質を見誤るな」老人は硬質な声で言った。
「血も泪もない冷徹野郎がっ」
次男の影が躍り掛かってきた。老人はよろめくように身をかわした。
「人を殺して飯を食っている奴が何を言う!」
「人殺しじゃないって言っただろ! 俺たちは国のために戦ってるんだ!」
「誰かを自分のしていることの理由にするんじゃない。お前のしていることは、全てお前の責任だ」
「だったらあんたはどうなんだ!」
老人は胸倉を掴まれる。煙草と酒の臭いが鼻を突く。
「『家族のため』とか言って仕事にかまけてたあんたに、そんなことを言う資格はあるのか?」
「戦争屋と一緒にするな!」
老人の拳が、次男の顔を捉える。掴まれた手が離れ、老人はダイニングテーブルにぶつかった。
「誰が俺たちに戦争させてると思ってるんだ」
顔を抑えているらしく、次男の声はくぐもっていた。
「あんたたちが、そういう世の中にしたんだろうが!」
避けたと思ったが、身体がついてこなかった。頬に固い衝撃がめり込んでくる。老人は床に倒れた。
「……今いる場所を嘆くな」身を起こしながら、彼は言った。「そこでどう動くのか、考えられない奴は無能だ」
血の味がした。唾を吐いたが、上手くいかず自分の手に掛かった。
次男が大声を上げながら、テーブルの上のものを薙ぎ払った。椅子を引き倒した。地団駄を踏んだ。それから、呻くように言った。
「見てろよ、ジジイ……」
次男は出て行った。階段を上がり、しばらくして下りてきた。玄関の閉まる音が、居間まで届いた。
枕の感触ではなかった。といって、全く知らないわけでもない。遥か昔に覚えのある、懐かしい感触を頭の下に敷いていた。
肌寒い冷気が心地良い。木根塚老人は、縁側に横たわっていた。ユイの膝に頭を載せて。
「気分はいかがですか」ユイが問う。
「悪い」老人は答える。「何がアシモフ・プロトコルだ。倅に殴られたぞ。兵隊の割には軟弱なパンチだったが」
「止めに入るべきでしたか?」
老人は鼻を鳴らした。
「やはりお前は壊れている」
「そのようです」
頭を動かし、庭の方を向く。完膚なきまでに除草され、乾いた土ばかりが広がるささやかな庭に、朝が来ようとしていた。黒い影が、少しずつ陽光の白に塗り替えられていく。
「おい」老人は呼び掛ける。
「何でしょう」妻の声が問う。
「……悪かったな」
返事はない。明るくなった庭の真ん中に、老人は緑色の、双葉の芽を見つけた。
「お父さんが謝るようなことは何もありません」ユイが言った。彼女は包帯の巻かれた左手を、老人の頭に載せた。
木根塚老人は、また鼻を鳴らした。
「小賢しい。やはり機械は機械だな」そう言った口元が幾分か綻んでいたが、本人は気付いていない。「眠い。少し寝る」
「どうぞ」
妻の声を聞きながら、木根塚老人はゆっくりと目を閉じた。
〈了〉
≒ 佐藤ムニエル @ts0821
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