12
木根塚老人は、己の部屋へユイを呼んだ。アンドロを立ち入らせたのは初めてだった。
座卓を自ら用意し、それを挟んで対座する。彼女を部屋に連れ込んだと次男に知れたら、何を言われるかわからない。だが、居間で聞かれるのも困る話を、彼はこれからしようとしていた。
「さっき、お前の管理業者から電話があった」老人は、前置きもせずに言った。「しばらくOSのアップデートを受けていないようだな。『データの受信を拒否されている』と業者は言っていた。これは一体どういうことだ?」
ユイは正座したまま動かない。唇も結んだままである。
「ワシはアンドロのことは詳しく知らん。だが、お前が正常でないことはわかる」
「たしかに、わたしは正常ではないのかもしれません」
ユイが目を上げた。その眼差しは、老人の中にある妻のそれと合致した。老人の心臓は、鷲掴みされたように大きく跳ねた。
彼女は居住まいを正す。
「お願いがあります」
「お願い……?」
「どうか、御子息のお話を聞いてあげてください。彼の苦しみに、寄り添ってあげてください」
「何のことだ」老人は目を逸らす。
「お父さんはもう御存知のはずです。わたしには、あの方の話を聞くことしか出来ません。アルゴリズムに従って導き出した返事をするのが限界です。でも、お父さんなら違います」
「あいつはもう一人前の男だ。自分のしたことの責任は、自分で取るべきだ」
「それはあの方もご承知です。ですが、わかっていても、堪えきれないことはあります」
ユイはいつの間にか立ち上がり、老人の傍まで来ていた。老人は逃げる間もなく、膝に置いた握り拳を取られた。彼女の右手と、包帯を巻いたままの左手が、老人の拳から力を奪う。
「お願いです、お父さん」妻の声が言った。
目の前には妻の顔があった。
老人は、ありったけの力を使ってユイの手を振り解いた。彼女を突き飛ばした。立ち上がった時には既に、肩で息をしていた。視界が暗くなり、揺れた。
「機械風情が人間に指図するんじゃない」
「指図ではなくお願いです」
「どのみち生意気だ。出て行け」
ユイは言われるまま、部屋を出て行った。老人は崩れ落ちるように、元の位置に腰を下ろした。
庭の方へ目を向ける。殺風景な庭は、夕暮れに染まっている。明日、この風景を見る頃には、彼女はもういないのだ、と木根塚老人はふと考える。業者は明朝、彼女を回収に来ると電話口で言っていた。
若き日の木根塚老人は風呂に入っている。
すると、磨り硝子の向こうで影が動いた。出入口のドアが開いた。入って来たのは、幼き日の次男だった。
「何だ」子供たちを風呂に入れるのは、妻の役目だった。少なくとも自分の仕事ではないと、老人は思っていた。
幼い次男は何も答えなかった。彼は片手桶を掴むと、湯船の湯をすくい、頭から被った。それを三度繰り返す。老人は、それを湯気越しに見つめた。自分が入浴時に必ず行う所作と全く同じだった。高校の修学旅行で同級生だった佐藤医師に嗤われて以来、人前で見せたことはなかった。もちろん、次男の前でも。そもそも初めて一緒に風呂に入るのだから、見せようがない。
次男は身体を洗い、湯船に入って来た。親子は向かい合って、湯に浸かる形となった。
若い老人は喋らない。何を喋ったら良いかわからない。仕方なく、湯気の滞留する天井付近を眺める他なかった。
「お父さん」初めは空耳かと思うほど唐突に、次男の声が聞こえた。「背中、流すよ」
「いい」
咄嗟に出たのは、その短い一言だった。言った後で取り消そうとしたが、既に手遅れだった。次男は一旦、口元まで沈んだ後、立ち上がった。
「頭、洗ってやるぞ」シャンプーハットを被る息子に、若い老人は言った。
「いい」幼い次男は短く言って、シャワーを捻った。
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