テレイドスコープで月を食べる

青海 月子

テレイドスコープで月を食べる

 店のフロアの端から順に天井のライトが消されていき、最後に店員が出ていって、扉が閉ざされた。

 デパートの中に、いっときの静寂が訪れる。

 けれど、この店の入り口は深夜にもう一度開かれる。


 これからがわたし達の時間。



 わたしは、路上で人形になりきるパントマイムをしていた。

 その土地で始めた最初の頃は遠巻きにされる。生活の中に異物が放り込まれたようなものだからだろうか。それでも同じ場所に何度も通って立ち続けるうちに、もの珍しげに通行人がわたしの顔を覗き込んだり、こわごわと触れようとしたり、土地に馴染んだ。

 それが、そのうちに誰も見向きもしなくなった。それは立つ場所を変えても同じだった。

 まわりの空気と一体化するほどに人間らしい気配を希薄にできたのだ、と自分の進歩に満ち足りた思いを抱いたのも束の間だった。当然だ。気付いてもらえなければ、演じ続ける意味すら失われるのだから。

 ほんの少し身じろぎすると、瞬間、ちらりと視線が集まる。けれど、すぐに皆、視線を戻して去っていく。

 わたしは本当に背景に溶け込んでしまった。

 改めて、自らの存在が溺れかけて失われる焦りを覚える日々を繰り返していた時、ある考えが唐突に天から降ってきた。

 きっかけは、たぶん、どこかのショーウィンドウの前を通りかかった時だと思う。

『マネキンの中に紛れてしまえ』

 もちろん、店の許可などとらずに。見つかったら、そのときはそのときだと、半ばやけっぱちな気持ちで、肩を怒らせながらデパートに入り、フロアを見て回った。

 そのまま、閉店するまで、さり気なくとどまり――このときばかりは、悩みの種だった気配の希薄さが役に立った――そして、昼のうちに目星をつけておいたマネキンの服を着て、かわりに自分が。

 マネキンはそっとふたつ隣の売り場に放置した。

 誰も気づかなかった。

 客の視線はたしかにこちらに向いているのに、わたしを素通りする。

 こうなると、こちらも意地になって続けた。時々ポーズを変えても、誰も気づかない。

 ただ、衣装の着替えは困るので、適度に別の売り場に移動した。

 いつになっても気づかれない。

 わたしがとっくに人から離れていたことに気付いたのは、だいぶ後のことだった。

 こうして、そのデパートは、わたしの職場兼住居となった。



「こんばんは、マヌカン。いい夜だね」

 深夜のデパートの非常口を出たところで、警備員に声をかけられた。

 彼は昼間もここの警備をしている。つまり、二十四時間。初めて聞いたときはとても驚いて、声もなく顔を見返してしまった。すると、彼はきまり悪そうに制帽のつばを下ろして、もう、だいぶ人間から離れてしまったから、と、言い訳のように告げられた言葉から、わたしはもう気にしていないことを、彼はまだ気にしていているのだと、初めて悟った。それを彼も逆に気付いたのだろう、ますます言わなくてもいいことを言ってしまった、というように気まずげに身じろぎしたのを覚えている。本当に悪いことをした、と今でも思う。

 だから、彼を見かければ、いつも気軽に声をかけて他愛ない会話をかわす。そんなことがあったことなどとっくに忘れたのだ、というように。

「こんばんは、今から見回り?」

 彼は真面目くさった顔――究極なまでの無表情のままうなずいた。

「マヌカンはお出かけかい?」

「久々に、ね」

 わたしは、昼間と同じ、人としてはとても不自然なポーズをとってみせて、首をかしげた。警備員の彼はわかるよ、と小さく苦笑した。

 昼はポーズをとってマネキンをしているから、まわりからはマヌカンと呼ばれている。

 夜はすこしばかり愛想の良いマヌカン。

 本当の名前はもう何年も口に出したことはない。

「お気をつけて」

「ありがとう」

 踵を返す警備員を見送ってから、古びた大理石づくりの外階段を降りた。

 夜独特のほどよい湿気を含んだ、新鮮な風を浴びて、一度伸びをする。

 小さな手荷物の中から、一日分の完全栄養食品の錠剤を瓶からざらざらと手に移して、ペットボトルの水と一緒に飲み込む。

 昔から食に対する興味は薄かったので、特に抵抗も不満もない。



 デパートの前の通りは、夜間通行禁止で、一台の車も通っておらず、静寂に包まれている。この一角は酒場やコンビニもないので、いくつかの商業施設が閉店してしまえば、たちまち人の気配は引いていく。

 省エネを重視して人感センサーを搭載して明度を調節する街灯が並んだ道は、見事なまでに最低明度で、満月に近い月の光のほうが明るいくらいだった。

 街灯に照らされて薄く伸びる影よりも、満月の落とす影の方が短く、濃い。

 自分の影だけを見つめて腕を伸ばし、ステップを踏みながら、踊るように歩いた。

 ちらほらとシャッターを開けている店の前に、人影が見える。彼らも、夜になって外にでてきたのだろう。

 この街は、昼と夜とで住人が入れ替わる。 棲み分け、に近いのだろう。

 わたしみたいに踊りながら歩いていても誰も注目などしない。

 どこまでも自由だ。

 信号が点滅している交差点の真ん中で、幼稚園児ほどの子が、興味深そうにあたりを見渡している。

 あの子は、同じデパートの子供服売り場にいる子だ。

 卒園、入園のシーズンに合わせた服をディスプレイしていた時、手を繋いで何日も一緒に立っていて、店が閉まると、毎夜のように、玩具売場に駆けていった。

「おねえさんはいいね」

 シーズンが終わり、ディスプレイが変わる頃、別の売り場に移動しようとしていた時、不意に羨ましそうに言われた。

「だって、ぼくは同じ年頃の子のいるところは少ないから」

「そっか……」

 年代は少し前後しても、わたしは複数のフロアを行き来できるが、子供のいるところとなると売り場が限られてくる。

 その子は、別れ際にまた来てね、と飴をくれた。

 わたしに気付いたのか、子供はにこにこと手を振ってくる。それに軽く手を振り返して、わたしは無人の横断歩道を渡った。


 道路をコツコツと踵を鳴らして進んでいっても、街灯は最低明度のまま、邪魔をしない。

 通りをいくつか横切って、小路に入ったところに、一軒だけ、オレンジ色の灯りが、通りに漏れている店があった。

 昼間は鍵のかかっているらしい店のドアをあけると、ちりちりとドアベルが控えめに鳴る。暖色の照明の下、所狭しと置かれたアンティーク家具やアクセサリが、一種の圧迫感を持って視界に飛び込んでくる。天井は低く、骨董店とか、古道具屋、といった言葉が似合う。

 そんな店の奥から、片眼鏡の男がひょいと姿を現した。青年にも、初老にも見える、掴みどころのない店主だ。

「いらっしゃい」

「こんばんは」

 挨拶を返しながら、自然と、わたしの目は店の奥の一角に向いて友人の姿を探して。

 けれどそこには、なにもない、ベルベット張りのアンティークな椅子があるきり。

 視線の先を察した店主が、小さく頷いた。

「あの子なら、常連さんに連れ出されていったよ」

 もう一度、なにもない場所に視線を向けた。

 そこには、ひとりの少女がいるはずだった。わたしと同じように動きをとめることに決めた、アンティークな人形が。

 わたしとは違った意味で動くことを制限していた少女。

 彼女は、動くことはおろか、生命活動そのものに嫌気をさして、日がなずっとそこに座っていた。膝の半月板がくっきりと出ている様は、球体関節人形のように華奢だった。

 最後に会った時は、セピア色のドレスに埋もれていて、何世代も受け継がれたような人形のようだった。

「いつ?」

「んー……いつだったっけ……」

 腕を組んで、考えている店主の声に、

「二週間くらい前。新月の夜だったよ」

と答える声が、椅子とは反対側の窓側から返ってきた。

「ああ、そうだ、そうだ」

 店主は、別にどうでもいいことのように何度も頷いた。

「そうなの……じゃあ、お祝いしなきゃいけないわね。でも、久しぶりに一緒に蜂蜜のアイスティーを飲みに行こうと思ったのに、あてが外れちゃったけど……」

「そりゃお気の毒様だ」

 軽く肩をすくめられた。

「残念だったね」

 新月の夜だったと告げた、もうひとりの商品とも、店員ともいうべき存在が、クフフフ、と透明なアクリル製の体を揺らしている。顔もアクリルのように透明なので、男性なのか女性なのかはわからない。

 つるりとした全身は、磨き上げられて、内部は水が循環していていて、色とりどりの小さな魚が暮らしている。

 眠っていたのか、動きが緩慢だった魚たちが、笑い声によって引き起こされた突然の震動に驚いたように泳ぎ回っていた。

 彼らは、まさか自分のいる世界が動くなんてこれっぽちも思っていないのだろう。

 重そうにちゃぷちゃぷと水面を揺らしながら、店員が近づいてきた。

「寂しくなったら、アタシが相棒をプレゼントしてあげるわ。この脇腹にいる子なんてどう? 一見して派手じゃないけど、時々ちらちらって虹色に光って目が離せないわ」

「仲間と引き離されるなんて可哀相よ。第一わたしじゃ飼えないし」

 他愛ない会話をしながら、店主がわたしに聞いた。

「今日はいい夜かい?」

「うん、今日は満月よ。とても呼吸しやすい」

 時間はわかっても、景色はわからないのだ。

 片眼鏡をかけた目は、機械しか映さないし、反対側の目は、透明な硝子で奥に歯車が歪曲して見える。

 じっとこちらを見据える店主は、静かに笑った。諦念の滲んだ笑みだった。

「その口ぶりじゃ、君がその椅子に座るなんてことはないんだろうね」

「在り方があまりに違いすぎるもの。時々は月の光を食べにいきたいし」

 オレンジとたっぷりの蜂蜜、そしてアイスティーを少女は好んだ。

『わたしは動くのも眠るのも億劫だけど、この味だけは好きなの。太陽を食べている感じがするから』

 そう言って、懐かしそうに、暖色の飲み物を飲んでいた。

「しばらくは空席かな。それとも別の何かを飾ろうか」

 ぶつぶつと呟きながら、店主はきょろきょろと店内を見回した。

 その時。

 控えめだが、荘厳とした音色が店内に響き渡った。

 大きな柱時計の中の円盤状の金属がゆっくりと回転している。

 つられたように、店内のいたるところから、さまざまな音楽が鳴り響いた。

「さあ、もう店じまいだ。夜が明ける」

 頷きながら、わたしはあの子がいた場所のすぐそばで光る小さな筒が銀色のペンダントを手にとった。

「これをください」

「……ああ、こんなものもあったっけな」

 店主は、片眼鏡のほうでしげしげと品物をみて、なにやら頷いている。口を開いてなにか言いかけたのを遮って、告げた。

「箱も袋もいりません。いまの服の首元が寂しかったから」

「……ああ、じゃあ、どうぞ」

「ありがとう」

 告げられた金額を支払い、銀色の鎖のついたペンダントを受け取り、首の後ろに手を回して留め具をつけた。

 筒には銀の蔓の装飾が施され、下側には、透明なガラス玉がついていて、天井の照明を反射して光る。

 首に下げた小指の半分ほどの小さなテレイドスコープを覗き込めば、きちんと、景色が見えた。

 店内の品物が、いくつもいくつも浮かんでいる。

 わたしは礼を言って店の外に出る。

 またね、と透明な店員が手を振った。腹の中の魚もちらちらと体内で翻って一緒に見送っているようだ。

 道路に出て見上げた空は、全体の色合いが少しだけ明るくなってきたような感じがした。夜のうちにいた人影はあきらかに減って、来た頃よりもさらに閑散としていた。

 わたしは買ったばかりのテレイドスコープを片目で覗いて空を見上げた。

 だいぶ西に傾いた満月が、奇妙に円形に歪んで幾つも見える。そのまま、空の中に落ちていくような感覚を味わいながら、ステップを踏む。白線を踏み外せば真っ逆さまだ。

 いつになく、わたしの呼吸が早くなる。

 もっと上に月がある時に帰ったほうが、気分がよかったな、と思う。白く冷たい月明かりは、わたしの呼吸を楽にする。

 肋骨の中で肺が大きく膨らんで、しぼんだ。


 わたしはとっくに月に馴染んでしまっていたけれど、店にいた彼女は太陽を懐かしんでいた。まだ、人でいた頃の何かに執着し、焦がれていたのだろう。

『金色の蜂蜜は、とっても懐かしい、哀しいような、幸せのような、味がするの……』

 少女を連れて行った男性は彼女を幸せにするだろうか。少女自身が嫌悪していた小さく上下する胸の動きを見ないふりをしてあげているだろうか。

 太陽の香りのする蜂蜜とオレンジを、ごちそうしてあげているだろうか。

 わたしがこうしてテレイドスコープ越しに月を食べるように、あの子も太陽を感じているだろうか。


 細い路地裏に入って、裏口に伸びる階段をリズミカルに昇る。

 軋む音をたてて金属のドアが閉じると、非常灯の下には出る時と同じように警備員が立っていた。

「おかえり、マヌカン」

「ええ、ただいま」

 ほっとしたように挨拶を返してきたところを見ると、帰ってこないかもしれないなどと考えていたのかもしれない。

 それ以上はなにも告げることなく脇を通り過ぎようとしたとき、警備員が、おや、という顔をした。

「そのペンダント、変わったデザインですね」

「こんなに小さくてもテレイドスコープなの。……目立つかな?」

「いや、全体の雰囲気を邪魔したりしていませんから大丈夫でしょう」

「ならよかった」

「今度、覗かせてくださいよ」

「うん。今度ね。まずはお客さんたちを眺めるんだ」

 いびつなものがきれいに見える魔法の銀の筒で。

「感想聞かせてくださいね」

「了解」


 軽く手を上げて別れ、持ち場に戻った。

 また明日から、ポーズを取って佇むだけの毎日がはじまる。

 マネキンのアクセサリが追加されたことにも、店員も気づかないだろう。

 それでもさっきの警備員が気付いてくれたように、まだわたしを見てくれているひとはいる。あのアンティークショップの店主も店員も。

 だからまだ、道化のような人形芝居を続けられる、とわたしは軽やかな足取りで暗いフロアを駆け抜けた。




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