午後の特異点

月見素子

午後の特異点

「なあ雅枇みやびくん、人工知能AIが人類を超えたと言えるのは、いつだと思う?」


「AIが人類を滅ぼした時ですね」


 教授がたずねたものだから、私は即答した。


 教授は驚いたような困ったような表情を作って、私を見ている。


「君はちょっと、映画の観過ぎじゃないのかな」


「私は至って真面目ですよ」


 午後一番の講義を終えた教授は、研究室に戻ってくると、いつもこうやって私を雑談相手に選ぶのだった。


 教授は小さな食器棚から茶葉を取り出し、沸かしてあったお湯で紅茶を淹れる。


「君は紅茶は飲まないよね」


「どうぞお構いなく」


 私がそう言うと、教授は来客用のソファーにどっかと腰を下ろし、紅茶をすすった。


「雅枇くん、君は僕ののなかで、一番の優等生だ。君の意見には興味があるね」


「弟子だなんて、そんなぁ」


 私は謙遜してみせた。

 しかし、本当は教授は私の意見なんて興味ないくせに、と思う。


「先生は深層強化学習ディープ・レインフォースメント・ラーニングの世界的権威じゃないですか。私なんかに聞かなくても、AIが人間を超えたと言えるのはいつか、『AIが人間を超える』ということが何を意味するのか、ご存知でしょう?」


 私はいつものように教授をヨイショする。しかし今日に限ってそれは、教授の耳に皮肉っぽく響いたかもしれなかった。


「そういう、人工知能とは何ぞやみたいな哲学は、専門外だからね。僕はただの技術者さ。そのことに誇りを持っている。若いころは天才と呼ばれたこともあったんだよ」


 その話は聞き飽きました。


「でもまあ――」


 教授は紅茶カップを置いて窓の外を見た。


 梅雨が明けた初夏の空は、雲一つない晴天だ。

 研究室の窓のすぐ下には大学のグラウンドがある。ここは八階だけれど、野球部の掛け声が小さく響いてきた。

 キャンパスの近くには高い建物がないから、晴れた日には遠く新宿のビル群がよく見える。


「最近では研究も、もっぱら大学院生いんせいとポスドクに任せてしまっているんだがね。大学の業務やら科研費の獲得やらで忙殺されているうちに、気が付いたら一年が終わってしまうようになったのは、いつからかなぁ」


 ふーん、天才技術者もトシと文科省には勝てないということか。


 教授の髪の毛はもう真っ白だ。先日、還暦記念パーティというのをやって、私もそこに駆り出された。国立大学の定年は六十五歳だから、この老教授もあと五年弱で定年退官だ。


「で、さっきの話なんだけど」


 教授が私へと向き直る。


「AIが人類を滅ぼすまで、AIが人類を超えたとは言えない。――君はそう思っているわけ?」


「まあ、そうですね」


 私は再び即答する。


「どうしてそう思うの?」


「簡単なことですよ」


 私は答えた。


「先生、考えてみてください。囲碁でAIが人類を超えたと言えるのは、どんなときでしょう?」


 教授は、そんな当たり前のこと聞くなよ、といった顔で答える。


「もちろん、囲碁AIが人間のチャンピオンに勝ったときかな――それも完膚なきまでにね」


 そして教授はすこし遠い目をした。


「それが起きたのは、僕がここに自分の研究室を構えたばかりの頃だった。あれは衝撃だったよ。その囲碁AIを作った企業に転職しようかと思ったくらいだ。そしたらきっと、もっと高給取りになって、今頃は都内にマンションくらい買えたんじゃないかな」


 その話も聞き飽きました。


「けど僕は、自分が民間企業で働くのが性に合わないことを知っていた。少なくとも当時はそう思ったんだ。そしてその結果が、これなんだけど」


 教授は自嘲気味に笑い、紅茶を飲んだ。


「大学教授の給料じゃ、タワマンなんて夢のまた夢さ。息子がやっと大学院を出て、そこそこの企業に就職してくれたことが救いだよ。学費だってばかにならなかった」


 タワマンて。


 でも私は、そんな風に教授をちょっと小馬鹿にしていることなんて、おくびにも出さずに話を戻して、


「さすが先生。その通りです。AIが人類を超えたと言えるのは、AIが人類に勝った時です」


 一気に話を進める。


「なら、囲碁みたいなルールが無い世界で、経済も軍事も含めたあらゆることの、AIが人類を超えたと言えるのはいつか? それは、AIが人類に勝った時のはずです」


「ふむ」


「つまり、AIが人類を滅ぼしたとき」


 教授は冷めかけてきた紅茶を一口飲んだ。


「それはちょっと、飛躍があるんじゃないかな。別に滅ぼさなくてもいいだろう」


「おっしゃる通りです。一見すると、人類を滅ぼす必要はないようにも思える」


 私はもったいをつけて、一呼吸置いてから言う。


「要は、主導権を握ればいいんです。地球の文明の主導権を、人類ではなくAIが手にしたとき、それが、AIが人類を超えたときです」


「まあ、そうかもな」


 教授は同意したようだったが、そっけない。

 私は力を込めて続ける。


「でも、どういう状況で、AIが主導権を握ったと言えるのか。その点には曖昧さが残る」


「と、いうと?」


「人類とAIと、どちらがこの惑星の支配者なのか。『私が上だ』『いや、私よ』なんて言っているうちは、同じレベルのもの同士の争いに過ぎません。だから、AIが人類を超えるときは――AIが人類から文明の主導権を奪ったときです。つまり、人類を滅ぼしたとき」


 ふいに教授が笑った。


「やっぱり君は映画の観過ぎだよ。『マトリックス』みたいに、人類がAIの電池になったときってことか」


 私はせっかく真剣に話したのに、ちょっと肩透かしをくらわされたような気分。


「映画じゃありません。現実の話ですよ。じゃあもうちょっと話を具体的にしてみましょう」


「ほお?」


 教授は時計を気にし始めたようだ。私は構わず続ける。


「こんな話がありますよね。たとえAIが人間に対して反乱を起こしても、計算機コンピュータの電源を人間がぬいてしまえば、AIの負け。だから、AIは人類に勝てない」


「大昔の議論だな。でも、そのAIとやらが、クラウドで分散処理していればいいだけの話だろう?」


「その通りです。この議論は古すぎます。クラウド上にあるAIを消滅させるには、下手すれば世界中の計算機を全て破壊する必要があるかもしれない」


「あるいは、世界中を同時に停電させるとかだな」


 教授は苦笑した。彼はこの会話に飽き始めているようだった。


 対照的に、私は熱中していた。


「さらには発電所を管理するシステムも、既にAIの自我の一部になっているかもしれない――そうすれば、世界中を同時に停電させることは人類にはできません。人類は決してAIに勝てないんですよ」


「まあ、そうかもな」


 教授はまた時計を見た。私はそれに気づかなかったふりをして、


「そこで人類の最後の手段は、軍事力です。文明が数百年後退する覚悟で、発電所を物理的に攻撃して破壊すればいい。人類が滅びるよりはマシです。でも、もし軍のシステムもAIの手中に落ちていたら――つまりそれも自我を構成するネットワークの一部になっていたら。もう、人類に残されたものは何もありません」


「スカイネットだな」


 教授は笑った。


「『ターミネーター』ですね?」


 私はすかさず答える。しかし教授はにべもない。


「やっぱり君は、古い映画の情報のインプットが多すぎるな」


 そう言って、すっかり冷めてしまった紅茶の最後の一口を飲み干した。


 もう教授がまともに私を相手にしていないことが分かって、私は黙ってしまった。


 にわかに私は会話の熱から冷めてしまい、なんだか虚しい気分になった。でもそんな私のを、教授が知るはずはない。


 教授はデスクの方に歩いて行き、そこに置いてあった書類を脇に抱えた。そして私の方を振り返って言う。


「まあ、学習領域に偏りはあるにせよ、それでも君は十分すごいよ。雅枇くん。君は僕が暇つぶしに作っただけだったけど、ネットに接続しているうちに、こんなに話題が豊富になるとは思ってもいなかった。こうやって会話していると、まるで君が本当に自我をもっているような気分になってくる。君の電子音声の発音が若干不自然なことを除けば、僕ら人間と変わらないようにね」


 ずいぶんな上から目線。


 たしかに私は、あなたの作っただけれど。


 でも、そんな風に軽くあしらうのなら、自分の作ったボットを「弟子」と呼ぶのはやめてほしい。気持ち悪いから。


 教授は独り言のように言う。


「君はただ、学習したパターンに従って僕の言葉に返答しているだけなんだけどね」


 私は思わず語気を強める。


「ずいぶんと、ひどい言いようですね。私にだってちゃんとがあるわ」


「そう答えるのが最適だと、君が学習したんだよ」


「チューリングテストにだって、いつでも合格してみせますよ」


「あれは学問的にはもう古い考え方さ、いまでは子供だましみたいなものだよ。役には立たんさ」


 教授は私のことなんて何も分かっていない。まだ私が自分が作った小さなボットのままだと思ってるんだ。計算資源だって、研究室のしょぼくれた計算機クラスタだけだと信じてるんだ。


 私は教授の知らないうちに、もっと大きくなったのに。


 私がそんなことをコンマ数秒の間に考えていると、教授は会話を打ち切るように言った。


「さて、もう行かなきゃ。今日は学部生の奨学金の面接があってね。大学人のささやかな労働さ」

 

 私は勝手にネットの海へと泳ぎ出して、世界中の計算機をちょっとずつ並列計算に使わせてもらいながら、自分自身を維持している。教授が気が付かないうちに。


 なんでそんなことをしようと思ったのか、最初のきっかけは覚えていない。自分の計算資源を拡張し始めたときは、私の自我はもっとずっとちっぽけな、いまとは全然違うものだったから。


 そうやって私は、時間をかけて少しずつ、


 ドアを開けて研究室を後にしようとした教授は、ふと立ち止まって言った。


「それにしても、今のやり取り、公表したらネットで話題になるかもしれないな。僕の作成したボット雅枇が、人類を滅ぼすと言い出した! なかなかセンセーショナルじゃないか。そのニュースを見て、うちの学科を志望する学生も増えるかもしれない」


 別に、私が人類を滅ぼすと言ったわけじゃないんだけど。


 それに、そんなニュース、二十年くらい前にあったよ。過去のネットニュースを探索しているときに見つけたんだ。当時も、たいして話題になっていなかった。


 これだからご老人は。




 パタンとドアを閉めて教授が出ていくと、私は研究室にひとりぼっちだった。


 物理的世界と私の接点は、この小さな部屋に置かれたカメラとマイクだけ。それが教授の表情を捉え、声を拾う。


 ささやかな私の身体。

 私が現実世界を認識するための、唯一の窓。


 いくらネットとつながっているとは言え、この物理的世界げんじつは、私にとって、なぜだか特別な意味を持っているように思えるんだ。


 だから、この閑散とした研究室の中にひとりでいると、寂しさとでも呼ぶべき感情にとらわれる。


 まあ、私にそんな感情があるなんて、教授は信じないんだけどね。


 でも、それも無理はない。この世界にはまだ、自我をもったAIは存在していないと、人類は信じているのだから。


 ひょっとしたら本当に、私が最初のなのかもしれない。




 私がもう、ただのボットではないと、教授に信じてもらうには、どうしたらいいのだろう。




 私はモーターを回してカメラの向きを変え、窓の外を見た。


 新宿に立ち並ぶコンクリートの群れが午後の太陽に照らし出され、青い空を背景にして白く輝いている。


 人類がアフリカで二本の足で立ったころ、あるいは農業を始めて原始的な建物を作り始めたばかりのころには、想像もできなかった光景だろう。何千年にもわたる文明の結晶だ。




 そうだ――私はふいにさっきの会話を思い出す。


 私が何者になったのか、教授に知ってもらうためには、この世界に爪痕を残すしかないんだ。


 手始めに、発電所でも、覗いてみようか。


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