駅で待つ者

一色姫凛

第1話

 夕暮れ時。いつもの帰り道、いつもと同じ時間。


 学校が終わり友達と別れて駅のホームに向かい、無人駅のホームにぽつりと備え付けられた古びた木製の長いすに腰かける。


 一時間に一本しか走らない電車が到着するまでには、まだしばらく時間がある。周囲に時間をつぶせるような娯楽施設は何もない。


 手さげのしなびた学生カバンを開いて、彼女は一冊の本を取り出すと、ゆっくりとめくり始めた。


 どれほど古い物なのか、角はまるまり全体的に黄ばんだその本はぼろぼろで、背表紙に書かれたタイトルはかすれて読み取ることはできない。


 決して大きくはない手のひらサイズのその本に彼女の視線は落ちる。長いまつ毛が閉ざされる程にその眼は細められ、静かな時がその場を支配し始めた。


 真横から差し込んでいた紅い夕日が、地平線に飲み込まれるように消えた後、線路の奥から小さな光がちかちかと点滅を繰り返しながら姿を現し始める。


 次第に大きくなって駅のホームに近づくその光。


 今にも消えそうに不規則に点滅を繰り返す白熱灯が、じりっと最後の声を上げて己の役目を果たしたのとほぼ同時に、一台の列車が悲鳴のような金切り音を立ててホームに流れ込んで来た。


 だが、彼女は目の前に停車した電車に反応を示さない。手元の古びた本に静かに視線を落としたままだ。


 しばらくして列車は再びエンジンを回し始め、ゆっくりと進み始めた。それからおおよそ一時間後。より深い闇が周囲を満たしはじめ、仕事を終えた会社員や部活を終えた帰りの遅い学生が、ちらほらとホームに姿を並べた。


 停車した電車に飲み込まれるように姿を消した彼らにも、彼女の視線が動くことはない。


 一台、また一台と眩い光を伴った電車は何度も彼女を駅に置き去りにしていった。


 厚い雲に覆われた夜空は月や星の光を呑み込んで、静寂な夜のとばりを駅に落とす。


 そんな中、流れるような動きで文字の羅列を追いかけていた彼女の視線が、ふいにぴたりと停止した。


 ゆっくりと視線が本から離れ、長いまつ毛が上を向く。彼女の視線の先には向かいのホームに一人で佇む少年の姿があった。


 半袖の白いワイシャツに学生ズボン。とりたてなんの変哲もない一般的な男子高校生だ。ただ、死んだように生気を映さないその瞳をのぞいて、だが。


 闇にとけそうな長めの前髪が少年の目を覆い隠している。時折吹く生暖かい風が、もてあそぶように何度も少年の前髪を舞い上がらせた。


 まだ電車も来ていないというのに、線路ぎりぎりの位置まで歩み出た少年はそこで足を止めた。


 静かに視線を線路に落とし、佇む少年。


 ――涙だ。


 少年の目の端から一筋の涙が零れ落ちた。


 涙を流してホームに佇む少年の後ろから、一つの影が浮かび上がる。


 いつの間に現れたのか、闇から生まれたようなその老人は、腰を曲げてこつりこつりと杖の音を鳴り響かせ、少年の隣に肩を並べた。


 だが互いに一言も言葉を交わさず、その老人もまた、静かに視線を線路に落とすばかり。


 その奥から一人、また一人……


 彼女が本を読んで過ごしたこの数時間。


 その全ての時間の中で目にした人数よりも、遥かに多い人影が次々と姿を現す。


 その姿かたちは千差万別。老若男女問わず、向かいのホームにずらりと並び立つ者たち。


 電車を待つ彼らの表情はすべて影を帯びていた。会話もなく静かに増え続ける彼らの目には、涙を浮かべている者も多い。


 しばらくすると、小さな向かいのホームは人て埋め尽くされた。


 無人駅を通過する電車は、一両か多くて二両目編成のものばかりだ。


 その乗り込み口の数は数えるほどしかなく、たいがいは一列に縦並びになって待つものである。


 だが、向かいのホームの彼らは横一列に並び立っていた。


 乗り込み口の表記など関係なく、線路沿いにずらりと横一列に肩を並べて立ち並ぶ、彼らの様子は異常なものである。


 ホームの端から端までずらりと並び立つと、後続の人影は二列目を成して並び始めた。そして二列目が埋まると三列目に。


 向かいのホームがぎっしりと人影でうめつくされたころ、一台の電車が向かいのホームに目がけて闇の中から姿を現した。


 田舎を走る電車とは思えぬほど、何両も車両を繋げた長い電車。それは、大きな煙突が突き出た蒸気機関車だった。


 今までの電車と同じように、闇の中からちかちかと光を点滅させながら現れ、近づくほどにその光を増していく。


 だがよもや、駅のホームに差し掛かかろうとしているのにも関わらず、その電車がブレーキ音を発することはなかった。


 時速百キロ近くは出ているはずのスピードを落とさず、ホームに突っ込んでくる。


 そして――


 ホームの端から一人の人影が、線路へと身を投げた。それを皮切りに、まるでドミノ倒しのように端から順に線路に身を投じていく人々。


 少女の向かいに佇んでいた少年が地を蹴り、眩い光に身を包みながら線路に飛び込んだ瞬間、一瞬彼女と少年の目が合う。


 直後、彼の姿は機関車にかき消された。


 次々と身を投じる人々を嘆くように、悲しい汽笛が駅に鳴り響く。蒸気機関車は多くの命を一瞬で狩り尽くしホームをかけ抜けた。


 その先に現れた深い霧が待ち構えたように機関車を呑み込むと、亡者を嘆く汽笛の音は遠のき始め、風に流れる霧と共にその姿も消え失せた。


 それを見届けた彼女の頬には一筋の涙が零れ落ちる。本をカバンにしまって立ち上がり、彼女は線路へと向かってゆっくりと歩みを進める。


 闇の中から再び光が浮き上がる。


 それは彼女の待つホームへと目がけて走ってくる電車の光。今度こそ彼女はその電車を待ちわびた。カバンを片手に徐々に大きくなる光を見つめ、目を細める。


 闇の中から現れたその電車は、先ほど多くの命を一瞬で刈り取った機関車と同じ姿形をしていた。


 だが先ほどと違うのは――キキィ……という金属をこするブレーキ音が鳴り響いたことだ。


 こどんごとんとゆっくり車輪を回して速度を落とした機関車は、彼女の待つホームへ静かにその身を委ねた。


 彼女の目の前でプシューという音共に重い金属の扉が開き始める。


 機関車には多くの人間の姿があった。座ることもままならず、ひしめくように佇む人間達の姿が。


 その中から開かれた扉をくぐり、一人の少年がホームへ降り立った。白いワイシャツに学生ズボン。とりたてなんの変哲もない普通の少年。


 それは先ほど目の前で命を断ったあの少年だった。彼女はその少年に手を差し伸ばす。


「馬鹿なことを」

「仕方なかったんだよ」


 困ったように眉を寄せて、少年は彼女の手を握り返した。


 少年に続いて、ぞろぞろと人々がホームへ降り立つ。少年の隣に肩を並べていた腰の曲がった老人も、杖をつきながらホームに降り立った。


 地面から顔を上げた老人の目に映ったのは、気品に溢れるたたずまいの初老の女性の姿だった。


 目に涙を浮かべたその女性はゆっくりと老人に近付くと、柔らかな笑みを浮かべて手を差し伸べた。


「おかえりなさい、あなた」

「ああ、ただいま。待たせたね」


 今や、彼女のいるホームは次々と機関車から降り立つ人間を待ち構える人々で溢れ返っていた。


 手に手を取り迎える人々。誰もがこの時を待ちわびていたのだ。年に一度、互いが出会えるこの時を。


「おまえが自殺なんか図るから、このようにしか会えぬのだぞ」

「分かってるよ、ひいお婆ちゃん」


 少女をひいお婆ちゃんと呼ぶ少年は、バツが悪そうに項垂れた。少年は少女から見れば、ひ孫にあたる。


 少年は数年前、この駅で自殺を図り自ら命を断った。一方、少女は戦時中に戦火の渦に巻き込まれ命を散らした、少年の先祖にあたる人物だ。


 決して現世ではまみえぬ二人が、こうして顔を合わせることが許されるのはこの日だけ。


「今年もちゃんとお墓参りしてくれたみたいで良かったよね」

「わたしの子孫だぞ、当然だろうが」

「今年の供物はなんだろうね」

「わたしの好物の饅頭があればよいがな」

「ひい婆ちゃんは本当に饅頭が好きだね」


 二人は手を取り合い、ホームに背を向けて歩み出す。行先は現在の子孫の家だ。まずは子孫の元気な顔を拝み、一泊させてもらうのが毎年の習わしだ。


「赤ちゃんがいるよ」

「ほう。それは楽しみだな。わたしに似て美人になるだろうよ」


 この日は、数多の霊魂が地に降り立つ日。『お盆』と呼ばれる日だ。


 自ら命の幕切れを引いた者も、命を奪い取られてしまった者も、ひとえに手を取り安寧の祈りを捧げる者の元へ、おもむくことが許される。


 本来、片側にしかホームを持たないこの無人駅は、黄泉と現世を繋ぐ駅。『黄扉よど駅』と名の付けられた駅である。

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駅で待つ者 一色姫凛 @daimann08080628

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