Last night

榎本 藍

.....

 「ごめん、待たせちゃって。」

 そう言ってここにやってきた彼は、首元のタオルで汗を拭きながら現れた。この熱帯夜のなか相当急いでくれていたのだろう。

「ううん、全然。」

「時間、大丈夫かな?」

「1回だけなら問題ないでしょう。」

短い会話を重ねながら、私たちはじゃらじゃら、とおはじきを取り出す。

 時計は11時52分を指している。人類滅亡まで、あと10分もない。

 8月15日に人類が滅びる……1週間前に出されたその声明から、人々は狂ったように人生を終える準備を始めた。散財に走る人、理性を捨てたように暴れ出す人。人類史が築いてきた法はその欲の前に無力化された。

 かく言う私は、特に終末に対しての希望はなかった。が、ただ唯一ふと思いついたことがあった。



 月光が青みがかったおはじき達を透き通らせる。電気をつけなくとも周りは見える。満月だ。

「じゃあ、お先にどうぞ。」

あなた、僕に勝てたことないでしょう、と余裕ぶった表情で彼は付け足した。

「では遠慮なく。」

私は迷いなく、真ん中のおはじきを3つまとめて手に取った。月光が煌めいて、天井に青いシミをつける。それらを置き、自分のターンを終えると、彼はふうん、と呟いて自分の前のおはじきを手に取った。外はさっきまでどんちゃん騒ぎだったのが嘘のように静まり返っている。コツン、コツンとおはじきを置く音だけが響くので、まるで世界が私たちだけを残して先に死んでしまったかのようだ。

 最後にもう一度だけ、彼とマンカラがしたい。それが私の願いだった。

 どうしてこんなにちっぽけで無為なことを願ったのか、それは自分でも分からない。理由はないのかもしれない。ただ、私は彼とマンカラをして最期を迎えることを願った。

 2人の間をおはじきがただ動く。会話はない。なくていい。青い光に照らされた部屋で、私たちはマンカラをしている。その事実だけで、私は無性に満たされた。おはじきのぶつかる音だけが聞こえる。時間が止まっているように私は思う。私たちだけが世界に生きているような気がする。むしろこれは滅亡後に自分が見ている夢ではないか、とも思う。ふわふわした世界の中で、彼の存在も私の意識も、マンカラに溶けていく。永遠が確かにここにあった。



 カチリ。彼が最後のおはじきを置いた音で、私はふわふわした世界から抜け出す。彼の前のおはじきは無くなっている。私は負けてしまったのだ。それでも、何故か悔しくなかった。

「本当にこれだけで良かったの?」

「うん。いいの、これで。」

「変わってるね。」

その変わってることに付き合ってくれるあなたも大概でしょう、そう思ったが口には出さなかった。

「あぁ、あと30秒。」

時計を見た彼が呟く。しかし、その声に終わりへの感情は感じられない。

「本当に私たちは死ぬのかしら。」

「どうだろう。死ぬんじゃないかな。」

「ーーーは怖くないの?」

「あまり。⚫⚫⚫⚫は?」

「少し。でも、よく分からない。」

「じゃあさ、もし、死ななかったらさ、」

「死ななかったら?」

「もう1回、マンカラしようよ。」

「はい、喜んで。」

不意に、月の光が強くなった気がした。11時59分47秒。この時私は初めて秒針の動く音を聞く。その音はおはじきの音色と違い、私の背筋をぞくりと震えさせる。

 秒針が動く。何かへのカウントダウンが聞こえる。

 不意に、彼の手が私の手へと重ねられた。彼の目を見る。何も言わない。ただ、手だけが重なっている。あと3回針が動けば日が変わる。1回。どちらからともなく私たちは頷き合う。2回。私は瞳を閉じる。3回。彼の手に力がこもるのを感じる。手元のおはじきがカタ、と音を立てた。






 その後のことは、何も分からない。

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