第四章
目の前は一面の銀世界だった。すすきの穂が、秋風になびいて揺れている。すすき野原を風が通ってゆくたびに、大地そのものがゆっくりとうねっているようにザナには感じられた。この広い世界が全て自分のものになったような気がした。
「すごい!ハキール、綺麗だねえ!銀色の猫のお腹の上にいるみたい!」
ザナはバイクのハンドルを握りしめて、ほとんど有頂天になって叫んだ。ザナの肩や頭の上を、すい、すいと無数の蜻蛉が飛んでいる。
ザナとハキールが出会って、もうすぐ一年が経とうとしていた。研究施設から脱走してすぐ、ザナはハキールの勧めで運び屋をするようになった。といっても子供の使いなので、せいぜい一日分の食費代程度しか稼げなかったが、それでも自分で自分を養っているという事実は、ザナにとって大きな自信となった。ザナは少々日に灼けて旅姿も堂に入り、一年前施設にいた頃とは見違えるくらいに表情も体つきも逞しく成長していた。
ザナは目の前のすすきを指さしながらハキールに聞いた。
「ねえハキール、この一杯生えてる銀色の草はなんて言うの?」
「そりゃ多分すすきだろうな。俺には見えないんで、はっきりとは言えんが」
「あ……そか」
ザナは少し済まなそうな顔をしてうつむく。ハキールは笑って、慰めるように言った。
「気にするな、ザナ。大丈夫だよ、お前さんが見たものを色々と説明してくれるおかげで、俺には何の不自由もないから。俺に代わって、お前さんが色々な景色を見てくれるといい」
「じゃあ、じゃあこれからは、あたしがハキールの目になってあげる!ずーっとハキールのそばにいて、あたしが見たものをハキールに伝えてあげるね!」
ザナは勢い込んで言った。
「ああ、頼むよ」
ハキールは穏やかに笑っている。とその時、どこからか風に乗って、嫋嫋と鐘の音が聞こえてきた。
「ハキール、この音なに……?」
どこか憂いを含んだ鐘の音に、ザナはふと寂しい心地になった。
「弔いの鐘だ。葬列があると皆に告げているんだよ。誰か死んだんだな」
「……ねえ、ハキールもいつか死んじゃうの?」
急に不安になってザナは聞いた。ハキールはさばさばと答える。
「死ぬも何も、俺の肉体は四百年も昔に、とっくに死んでいるんだよ。バイクになった今の俺は、生きているとは到底言えない。ま、幽霊みたいなものかな」
「でも……でもハキールは今、こうやってあたしと喋ってるじゃないか、普通の人間みたいに……。ハキールは生きてるよ、死んでなんかいない」
「ザナ、お前が乗っているこの馬鹿でかいバイクはな、所詮ただの機械にすぎないんだ。本当の俺の体は、とっくに死んで土に還っちまったんだ」
だがそう言われても、まだ幼いザナにはよくわからなかった。彼女は小さな哲学者のように難しい表情をしてしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「じゃあ、ハキールの命って、いまは一体どこにあるの?」
ハキールはぐっと答えに詰まった。ザナはさらに突っ込んで聞いてくる。
「命は一体どこに宿るの?研究所の男の人達は、体が死んでも脳みそは生きている場合があるって言ってた。そういう人達はまだ生きてるんだって。じゃあ命は脳みそに宿るの?ハキールの脳みそは動いてるんだから、ハキールはまだ生きてるんでしょう?」
「ザナ、それは人類にとって永遠の謎だよ」
ハキールはザナの洞察力に内心感歎しながら言った。
「命は肉体に宿るのか、脳に宿るのか、心に宿るのか……それは俺にも分からん。お前が大人になって、いつか答えが分かったら俺にも教えてくれ」
そう言うハキールの声はとても優しく、限りない哀切を含んでいた。
小石に乗り上げた軽い衝撃で、ザナははっと我に返った。
(いかん……ぼうっとしてた)
ザナは胴震いして、あらためてバイクのハンドルを握り直す。バイクは猛スピードでつっ走っているのだ、横転でもしようものなら大怪我しかねない。
以前はハキールとあれこれ喋りながら走っていたのでよい眠気覚ましになったが、今はそんなこともなくなったので、ザナはついぼうっとして自分の考えに入り込んでしまうのだ。
見上げれば蜻蛉がすいすい飛んでいる。銀色の薄野原でハキールと言葉を交わした幼い日が、つい昨日のようにも感じられた。
(あの会話をしたのは、ちょうどいま時分の季節だったなあ……)
ザナはうら寂しい思いで、真っ黒な電光板にふと視線を落とした。
「二十五掛ける十六は四百。二十五掛ける十七は四百二十五。二十五掛ける十八は四百五十……」
学問堂の生徒達は元気に声を揃えて、二桁の掛け算の暗唱をしている。アシュラフは教科書を片手に頷きながら、生徒達の文机の間をゆっくりと歩いて回った。
アシュラフの家の居間は、毎日午後の数時間だけ村の子供達で一杯になり、学問堂の教室に様変わりする。生徒達の文机の上に伏せてあるのは、アシュラフの手作りの教科書である。丈夫な糸で丁寧に綴じてあり、しっかりとした造りだが、年長の子から年下の子へと使い回しにしているので、どれも表紙はすり切れて傷んでいた。
と、バイクのエンジン音が遠くから聞こえてきた。三日ぶりに村に響く音である。
「あっ、ザナだ!ザナが帰ってきた!」
年少の生徒達は、途端にそわそわして庭に目をやる。ザナがバイクに跨ったまま庭先に入ってくると、子供達は板戸を開け払った縁側にどたどたと一斉に集まった。
「ザナ、お帰りい!」
「ああ、ただいま」
ザナは庭にバイクを止めて、軽やかに降り立った。石屋の倅のリクとセリム、そして薬草師の娘のタマラが競い合うようにしてザナに話しかける。
「ザナ、父ちゃんの仕事道具、買ってきてくれた?」
「
「ほらよ。こいつでいいんだろ?」
ザナはバイクの後ろに備え付けてある物入れから麻袋を取り出すと、それぞれの親から頼まれていた品物を渡してやった。
そのとき、まだ四つのユーリが縁側にてちてちと歩み寄ってきた。生徒達の中には、子守りがてら幼い弟妹を学問堂に伴ってやって来る者もいる。幼い子供たちは授業が終わるまで教室の後ろで静かに遊びながら待っているのだ。このユーリも、兄に連れられてよく学問堂にやって来る子であった。
ユーリは人差し指をくわえながら、可愛らしい声で催促する。
「ザナ、あたちの飴は?」
「これでいいかい、お嬢ちゃん」
ザナが菓子の入った大袋を最後に取り出すと、子供達からわあっと歓声が上がった。村の子供全員で分け合えるほどの量だ。
はしゃいでいる子供達の後ろからアシュラフが顔を出して、微笑みながらザナに声をかけた。
「お帰り。台所に羊肉と豆の煮込みを作っておいたから、温めなおして食べな」
「そいつはありがたい」
ザナは庭を回って玄関に入っていった。アシュラフは生真面目な顔に戻って、手を叩きながら生徒に呼びかける。
「さあ、みんなは勉強勉強!お菓子を分けるのは、勉強が終わったあと!」
「はーい!」
子供達は素直に返事をして、それぞれの文机の前に戻った。小さなユーリは教室の後ろの隅にちょこんと座って、お菓子の入った袋を嬉しそうに抱きかかえてにこにこしていた。
ハキールが突然反応しなくなったあの朝から、はや半年が過ぎた。ザナは引き続きアシュラフの家に居候して、運び屋の仕事を続けている。愛想がないのは相変わらずだが、最近は村人達ともよく言葉を交わすようになってきた。とはいえ、もっぱら話しかけられたときに答える程度で、必要な時以外は自分から話しかけるようなことは決してしないのだが。
仏頂面で愛想無しの鉄面皮で、他人には何の興味も関心も抱かずひたすら独りの時間を愛し、風のように自由気ままに行動する、掴み所のないザナ。しかしどれだけザナが素っ気なく振る舞っても、彼女は決して人々の反感は買わず、むしろ村人達に好意的に受け入れられていた。
それはそういう恬淡とした態度こそが、まるきりザナの素の姿であると皆に伝わったからだが、理由はそれだけではなかった。
一言で言えばザナには否応なく人を惹きつける強い磁力があった。彼女は風変わりだがとても珍しい綺麗な鳥なのだから、他人と違っていてもいいのだと皆に思わしめる、強い何かが彼女にはあった。
子供達はといえば相変わらずザナのことが大好きで、うるさがられても鬱陶しがられてもめげずに彼女に群がっていく。人に好かれる努力など全くしていないにも関わらず、こうして皆に受け入れられ求められるのは、ザナの人徳と言えるのかもしれなかった。
ザナはいまだにハキールを諦められないらしく、時折小声でそっと話しかけているのをアシュラフは知っている。その彼も時々、ハキールに向かって
「あなたは壊れてなどいないでしょう?本当はそこにいるんでしょう?」
と話しかけてみるのだが、むろん返事はなかった。
とはいえ、ザナはハキールに乗って荒野を飛ばしているときがやはり一番気分がいいらしかった。運び屋の仕事がなくても、ふらっと遠乗りに出かけて一時間ほども留守にするときがよくある。帰ってきたザナは何となく晴れ晴れとした表情を浮かべていて、アシュラフはそんな彼女を見ると、根っからバイクが好きなのだなと実感させられた。
ザナは村の高台にある丘に寝ころんで、頭の下に腕を組み、流れる雲を見つめていた。学問堂の子供たちによる遊んで攻撃に耐えかね、ハキールに乗って這々の体で逃げ出してきたのだ。彼らときたら、
「ハキール、死んじゃったの?」
「どうして何も言わなくなっちゃったの?」
などと言いながらお菓子を食べたあとのべたべたした手でハキールを触りまくるので、ザナはかなり閉口させられた。
ぼんやりと空を見上げながら、ザナは今後のことについて考えていた。
(なんだかんだ言って、この村にも随分長いこと滞在しているよなあ……)
ザナはこれまで、長くて数ヶ月か半年程度しか一つの場所に留まったことがない。この村にはもう半年以上もいるので、いつもならそろそろ旅支度を整え、次の場所に移動する頃合いだった。
(でも……ハキールはこの村でおかしくなっちゃったわけだし……)
その原因もよく分からないままに村を後にするのは、ザナはどうしても抵抗があった。もし本当にハキールの魂が、バイクの外へ抜け出ていってしまったのだとしたら。この村から離れれば、ハキールの魂をここへそのまま置き去りにするようで、ザナはなかなか次の旅に出る踏ん切りがつかないのであった。
(とは言え、このままこの村にいたところで、ハキールが元通りになる保証なんてどこにもないわけだしなあ……)
ザナは溜息をついて、草の上で寝返りを打った。
(?……)
寝返りを打ったはずみで、何かが反射してきらりと光るのが見えた。村の入り口に砂埃が立っているのが遠目に見える。ザナはさっと緊張し、目をこらした。
村の入り口に大型の装甲車が止まり、中から武装した男たちが次々に降り立ってくる。
(旧世界で使用されていた10人乗りの軍用車だ!間違いない、こんなものに乗ってくる連中といったら……)
白衣をまとった男が最後に車から降りてきた。その男を見るなり、ザナは弾けるように起き上がった。
「いかん」
険しい表情になって、ザナは近くに停めてあったハキールに駆け寄る。
「施設の研究者たちだ!奴ら、私とハキールを追って来やがった!」
彼女はハキールに跨るとエンジンを入れ、勢い良く発進させた。
アシュラフがなつめやし畑で村人達と一緒に収穫をしていると、バイクのエンジン音が近づいてきた。
「お、ザナじゃないか?」
トゥフマの言葉に、彼の隣で実をよりわける作業をしていたアシュラフが顔を上げる。ザナの乗ったバイクが村の街道を急旋回して、畑にやって来るのが見えた。
「アシュラーフ!」
普段の彼女らしくもなく、ザナは切羽詰まった表情をしている。アシュラフは立ち上がりながら声を上げた。
「どうした、ザナ?」
ザナはアシュラフを見つけるなり、バイクを乗り捨てて駆け寄ってきた。
「アシュラフ、長い間世話になった!あたしとハキールは村を出る!」
「な、何だって?」
突然の言葉にアシュラフは仰天した。ザナは早口でまくし立てるように言った。
「施設の連中が、脱走したあたしとハキールをつかまえに来たんだ。ここにいるとあんたらに迷惑がかかる。もうこのまま出発する!」
「ちょ、ちょっと待て、ザナ……」
「連中に何か聞かれたら、私とは無関係だと言え!シラを切り通すんだぞ、いいな!」
厳しく言いながら、ザナはもう身を翻して駆け出していた。
「お、おいザナ……」
ザナはバイクに跨ると、あとはアシュラフを振り向きもしないで、村の入り口とは反対側の方角へ走り去って行った。アシュラフはしばらく呆然となってその場に佇んでいた。
「おい、アシュラフ。……あれ見ろ」
トゥフマの声に顔を上げると、たった今ザナがやってきた方向から、兵士のような異様ななりをした男たちが10人ばかり歩いてくるのが見えた。先頭を歩いているのは、見るからに怯えきった表情の村の男だ。村の代表者の居場所を尋ねられて、アシュラフを探しに道案内をさせられているのだろう。蒼白になったその顔色を見て、男たちが村人に何らかの危害を加えたか、あるいは危害を加えると脅迫したに違いないとアシュラフは判断した。
トゥフマが低い声でささやく。
「やばそうな連中かな」
「……かもしれん」
「なんだかよくわからんが、ザナが遠くまで逃げられるよう、俺たちゃ時間稼ぎをすりゃいいんだろ?」
トゥフマはにやりと笑うと、地面に転がっていた手頃な太さの棒を取り上げた。周りにいる仲間たちも頷きあって、それぞれ鍬や鋤など武器になりそうな物を取り上げる。みな血気盛んな村の若者だった。
アシュラフは低い声で仲間達に言い渡した。
「まず僕が話してみる。もし話が通じないようだったら……合図するから、皆で一斉に奴らに襲いかかろう」
アシュラフの表情が厳しく引き締まった。
村の男に先導されて、不審な男たちはすぐそばまでやって来た。屈強な男たちの中にただ一人、妙な型の白い長衣を着こんだ痩身の男がいた。
年齢は四十代半ばくらいか、長い黒髪をうなじのところで一つに束ねている。理知的で整った顔立ちをしているのだが、どこか人間らしさの感じられない、血の凍るような冷たさがその表情に漂っている。アシュラフは今までザナのことを鉄面皮で仏頂面だと思ってきたのだが、目の前の彼が醸し出す不気味な冷ややかさに比べれば、ザナなどまだまだ可愛いものだった。
男はアシュラフに歩み寄ってきて、静かに尋ねた。
「君がこの村の村長さんかね?」
「そうですが……」
アシュラフは警戒しつつ答える。男は薄く笑った。目が剃刀の刃のように細くなり、背筋がぞっとするような陰惨な印象を与えた。
「これは失礼、随分とお若く見えたので。我々は怪しい者ではない。度重なる世界大戦によって失われた人類の偉大なる叡智を復活させるため、日夜研究を続けている科学者の団体だよ。十二年前、我々の研究施設から脱走した一人の娘と、旧時代の大型機械を探しているのだが」
彼は一歩踏み込んで、アシュラフの顔を覗き込むようにじっと見つめた。
「もちろん君は彼らを知っているだろうね?どこへ行ったか教えてくれないか?」
高速でバイクを飛ばしながら、ザナはしきりに自分に悪態をついていた。
「くそっ……くそっ、油断したぜ!奴らがここまで追ってくるとはな……」
平和な暮らしにどっぷり浸かりきっていた自分をザナは呪った。もともと旅から旅へ転々と移動する暮らしを続けていたのは、一カ所に居を固めることで、彼らに居場所を突き止められるのを恐れたためだった。村での居心地のいい暮らしについ無防備になり、ザナは旅の真の目的をすっかり忘れ果てていた。
(あたしが奴らにつかまったとしても、体をバラされてそれぞれの臓器が誰かに移植されるだけだ。あたし一人が死ぬだけで済む話だ。でも、ハキールは……ハキールだけはあいつらに渡すわけにはいかない)
ザナは悲壮な決意を込めて、ぐっとハキールのハンドルを握りしめた。ハキールがいつも言っていた言葉が耳に蘇ってきた。
「ザナ、俺を動かすために核燃料という危険な代物がこのバイクに使用されている。施設の連中は核開発のため、この俺を手に入れたがっているのだ。俺をあいつらに渡すくらいなら、俺を深い谷底にでもつき落としてぶっ壊してくれ。俺の中で燃えている核を、奴らに悪用させてはいけない。あいつらの手に核が渡ろうものなら、人類は世界大戦時の恐怖を再び味わうことになるんだぞ」
ザナは唇を噛みしめた。自分はハキールに跨って、いつでも千尋の谷に身を投げて死んでやろう。大好きなハキールと一緒に死ねるなら本望だ。だが生憎と、そうした目的におあつらえ向きの深い谷など、この近くにはありそうもなかった。
「管理番号、二十七番」
いきなり大きな声で呼びかけられて、ザナはぎょっとなってブレーキを踏んだ。
「な……なんだ?」
慌てて辺りを見回す。辺りに人のいる気配はない。既に村を出て、今は村の全景が見渡せる丘の上にザナはいた。男たちが拡声器を使って呼びかけているなど、ザナには知る由もなかった。
「管理番号二十七番に告ぐ。速やかに投降してそのバイクを我々に渡せ。人類の進歩と発展のために、その機械に使用されている核物質を研究する必要があるのだ」
ザナは用心深く地面に伏せて、村全体を見下ろした。
(どういう手を使ってかは知らんが、村から呼びかけているらしいな……)
再び声が響いてきた。
「人類の未来のためだ。繰り返す、二十七番、今のうちに大人しく投降せよ。我々にバイクを渡すなら、君の命は保証しよう」
「嘘つけ、馬鹿野郎」
ザナは悪態をついた。わざわざ殺されに出向くほど物好きではない。しかもこの男の声にザナは聞き覚えがあった。
「院長先生直々にお出ましとはね……」
ザナは忌々しげに笑った。彼女がまだ施設にいた幼い頃、彼は院長として時々子供達の部屋を見回りに訪れていたのだ。子供達の栄養状態を確認するのが主な目的だったらしいが、見目の麗しい子供達は院長に連れられてしばらく戻ってこないことがあった。二・三日程して教室に戻ってきた子供はみな一様に体を震わせて、何があったのか聞いても決して喋ろうとはしない。今ではザナも、院長があの子供達に何をしていたのか薄々見当がついていた。
ちなみにザナも一度、院長に連れて行かれそうになったが、嫌な予感に突き動かされて彼の指に噛みついて抵抗したため、難を逃れた。おかげで、後で女看守に手足の爪を全部引っこ抜かれる羽目になったが。
院長は再びザナに呼びかけた。
「二十七番、君はまだ村の近くにいるだろうね?恐らくはそう、村の近くの小高い丘あたりにいるはずだ。村の広場を見てごらん。その位置ならよく見えるだろう」
ザナは村の中央広場に目を移した。ザナは鷹のように視力が良いので、広場にいる一人ひとりの顔の見分けもついた。
「あ!あれは……」
ザナは愕然と目を見開いた。
広場の中央に細いトネリコの木が生えている。木の幹を抱くようにして、アシュラフが木に縛り付けられていた。彼は上半身裸で、背中をむき出しに立たされている。アシュラフのそばには、トゥフマら村の若者が後ろ手に縛られ、数珠つなぎに座らされている。アシュラフを含め、村の若者全員が腫れ上がった顔をしているのは、施設の連中に戦いを挑んで逆にねじ伏せられたからだろう。
アシュラフの背後には、鞭のようなものを手にした屈強な男と院長が立っていた。
院長は拡声器でザナに呼びかけた。
「君には私達が見えているね?君が投降するまで、我々は一時間ごとに一人ずつ、村人を殺していく。まずはこの男だ」
院長が合図すると部下の男が振りかぶり、アシュラフの背中を鞭で打った。
「うあっ……!」
アシュラフが激痛に体をのけぞらせ、叫び声を上げる。ザナはぎりっと歯を食いしばった。
「二十七番、見えるかね?この鞭はただの鞭ではない。これは我々が開発した電撃鞭という代物で、ひもの部分に強い電流が通っている。この鞭で打たれたら、普通の人間は五十回で死んでしまう」
院長はザナの隠れている丘に向かって呼びかけた。
「さあ、五十回打ち終わって彼が死んでしまう前に、早く姿を見せなさい」
院長が合図すると、男は再びアシュラフを鞭で打った。
ザナは苦悩した。今すぐハキールに乗って飛び出し、アシュラフを助けに行きたい。しかし施設の連中は全員が武装している。自分一人で彼らを撃退できる自信はなかった。この身はどうなろうと構わないが、ハキールだけはどうしても彼らに奪われるわけにはいかないのだ。彼らの手にハキールが渡ったら最後、再び核戦争が起きて、人類は今度こそ滅びてしまうかもしれない。
院長はザナの苦悩を知ってか知らずか、落ち着いた声で呼びかける。
「ほらほら、まだ十回しか打っていないのに、もう彼はへばりそうだよ」
鞭打たれるたびに、周囲にアシュラフの血が飛び散り、裂けた肉片が飛んだ。
「ぐっ……!」
アシュラフの背中に鞭が飛ぶと、ザナは思わず自分が苦痛を受けたかのように呻き声をもらし、拳を噛んだ。鞭打たれる合間に、アシュラフは息も絶え絶えになりながら叫んだ。
「うっ、ザナ!そこにいるのか?ザナ……!」
ザナは爪を立てて、自分の腕を痛いほど握りしめた。アシュラフが自分を呼んでいる。必死に助けを求めている。
「ザナ、聞こえるか?」
血みどろになり、激痛で体じゅうを細かく震わせながらアシュラフは叫んだ。
「もしどこかで僕の声を聞き、この姿を見ているのなら、ぐずぐずしていないで一刻も早く逃げろ!あとは僕たちで何とかするから……こっちは大丈夫だから……戻ろうなんて馬鹿な気を起こすな!」
再び鞭がうなり、アシュラフは苦悶の叫びを上げた。
(アシュラフ……!)
ザナは呆然となった。アシュラフはザナに助けを求めているのではなかった。この期に及んでも彼は他人の心配をしているのだった。
院長はアシュラフの乱れた髪をつかんで、乱暴に上向かせた。
「若いのに立派な村長さんだ。他の村人をかばって、真っ先に自分から犠牲になろうと進み出るのだから。殺すのが惜しくなるほど勇敢な男だ」
どうすることもできず、ザナの体は怒りに震えていた。
「あ、あのクズども……よくも……よくもアシュラフを……」
ザナは呪詛の言葉を吐きながらぎりぎりと歯ぎしりをする。悔しさのあまり、彼女の目から涙が溢れ、頬を伝って流れた。
その時、すぐ後ろで笑いを含んだ低い声が聞こえてきた。
「変わったなあ、ザナ……」
「ハ、ハキール?」
ザナはぎょっとして振り向く。ハキールの車体前部の電光板に、懐かしい波状の光がきらきらと走っているのが見えた。ハキールは感じ入ったようにしみじみと呟いた。
「半年前のお前だったら、気にも留めずにさっさと逃げおおせていたはずだ。俺たちはそうやって、これまで幾度も生き延びてきたんだからな。アシュラフがお前を変えてくれたんだな……」
「ハキール……やっぱり、壊れてなんかいなかったんだね……ずっとそばにいてくれてたんだね……!」
ザナは熱い涙をこぼしながら、思わずハキールに抱きついた。
「どうしよう……アシュラフが死んじゃうよ!このまま、なぶり殺されちゃうよ!」
「落ち着け、ザナ」
ハキールは静かな声で言った。
「奴らとの取引に応じよう。こっちには奥の手がある。この日のために最後まで取っておいた手が……」
「奥の手……?」
ザナは顔を上げた。
「俺の電光板の横に、透明な膜で保護された白いボタンがあるだろ」
それはザナが、絶対押さないようにと今までハキールに重々注意されてきたボタンだった。ハキールは淡々と言った。
「それは自爆装置だ。こんなこともあろうかと、今の今までこの機能を行使してこなかったのさ。これを押したら直ちにバイクは自爆体勢に入る。装置が作動してから、三分で片がつく計算だ。施設の連中を村の外まで誘き出し、爆発の寸前に頭から連中に突っ込んで、奴らもろとも道連れにしてやるんだ」
ザナは真っ青になった。
「いやだ!ハキールを殺すなんて、そんなことできないよ!」
「俺の肉体はもうとっくに滅びてるんだぞ。四百年前、第五次大戦で敵の砲弾にやられたあの時に俺は死んだんだ。殺すも殺さないもねえ」
「嫌だよ、あたし一人で置いて行かれるなんて絶対嫌だ!ハキールを殺したくないよ!」
「俺のことはどうでもいいんだ!俺が懸念しているのは別のことだ」
ハキールは少し厳しい口調になって、ザナを黙らせた。
「自爆体勢に入った後で奴らに突撃するには、俺を最後まで運転してくれる人間が必要なんだ」
「……」
つい先ほどまで狼狽して取り乱していたザナが、すうっと冷静になった。一瞬沈黙して、彼女は静かに口を開いた。
「あたしがそれをやらなきゃいけないんだね」
「怖いか、ザナ。無理にとは言わん。このままアシュラフを見捨てて、二人で逃げることだってできる。その場合は、俺たち二人で罪を背負いながら生きていこう」
「……アシュラフをあいつらに殺させるわけにはいかないよ」
ザナは神妙な顔をして、力強く言った。
「ハキール、あたしやるよ。一緒にこの戦いを終わらせよう」
「やってくれるか、ザナ。……よくぞ言ってくれた、それでこそ俺のザナだ」
「ハキールと一緒なら……怖くないよ。ハキールがあたしに命をくれて、あたしを育ててくれたんだもの。最後まで離れないよ。二人一緒に死ねるなら、本望だ」
思い残すことなど何もないというように、ザナはにっこり微笑んだ。
鞭で打たれるたびに、アシュラフの体が激痛に引きつった。鞭打ちは既に四十回を超え、アシュラフは悲鳴を上げる気力も残っていなかった。見ていられずに、アシュラフの親友のトゥフマは必死に院長ににじり寄って懇願した。
「もうやめろ、やめてやってくれ!代わりに俺を殴ってくれ……うっ」
革靴でどすんと顔を踏まれ、トゥフマは地面に突っ伏した。トゥフマの横顔を靴でぐりぐりと踏みしめながら、院長は微笑んだ。
「心配しなくても、五十回殴り終わって村長が事切れたら、次は君を殴ってあげるよ。もう少しだから、楽しみに待っていておくれ」
「こ、このクソ野郎……」
トゥフマが呻く。
「それにしても二十七番は遅いなあ。もしかしてもうとっくに遠くに逃げてしまったのかな?そんなはずはないんだが」
院長は少し手持ち無沙汰な様子で呟く。その合間もアシュラフを責める鞭の音は続いている。アシュラフの背中は血だらけで肉が裂け、見るも悲惨な状態だった。
「……四十七回。もう限界かな?」
院長が小さく溜息をついたときだった。村の裏山の頂上に、ザナが姿を現した。
「変態科学者ども、こっちだ!」
「おお、二十七番。そこかね」
院長は驚いたように軽く微笑んだ。ザナは広場を見下ろし、院長を睨みすえながら低い声で怒鳴った。
「直ちに村人達を解放しろ。我々は要求を呑むことに決めた。村人達は無関係だ、交渉と引き渡しは村から離れたあの場所で行う」
ザナはすっと腕を上げ、「月の社」と村人達から呼ばれている丘陵を指で指し示した。
「あの場所で交渉だ。五分以内に来い!」
ザナはそれだけ言うと、ハキールに飛び乗って走り去っていった。
「鞭打ちやめい!」
院長が厳しく言い渡すと、部下の男は鞭を振り上げた手を下ろした。アシュラフがずるずるとくずおれるように膝をついた。
「四十九回か、ぎりぎりだったな。……まだ死んでないな?」
院長はアシュラフの髪をつかんで顔を上げさせると、瞳孔を確認してまだ生きているのを確かめた。
「よし、この男を一緒に連れて行け。二十七番が何か悪巧みをしているのかもしれん。奴らが少しでも不審な動きを見せたら、直ちにこの男を殺せ」
「承知しました」
アシュラフは縄をほどかれ、男たちによって装甲車に担ぎ込まれた。院長は村人達を見向きもせず、装甲車に乗り込む。扉がばたんと閉まった。トゥフマは縛られたまま、必死に叫んだ。
「おいこら、アシュラフを解放しろ!俺たちの縄を解いていけ!おおい!」
村人達には目もくれず、装甲車は砂埃を上げてザナの指定した月の社に向かって走っていった。
月の社は小さな岩石が転がる、広大な岩砂漠である。ザナは腕組みをして、ハキールのそばに立って待っていた。やや離れた場所に装甲車が止まり、院長が車から降り立った。その後ろに、部下に引っ立てられたアシュラフが続く。
院長がザナに命じた。
「二十七番、バイクと一緒にこちらへ」
「まずアシュラフを解放しろ。お別れの言葉くらい言わせてくれたっていいだろ」
ザナは少しも物怖じせず、つけつけと言う。院長は両手を広げて穏やかに微笑んだ。
「それはできない。君が何を企んでいるかわからないからね」
「では私もハキールを渡さない」
ザナは厳しい表情で口を結んだ。院長は少し肩をすくめて、後ろの部下に声をかけた。
「離してやれ」
「しかし……院長」
「大丈夫だ。奴らには何もできまい」
アシュラフは部下の男に背中を軽く押された。行け、という合図らしい。アシュラフは一瞬院長に目をやってから、ザナに向かって歩き出した。
ザナは遠くからアシュラフに声を掛けた。
「アシュラフ、落ち着いてゆっくり歩いてこい」
「ああ……今行くよ」
アシュラフはよろけながら一歩一歩ザナに歩み寄った。ゆっくりも何も、これ以上速く歩くなど不可能だった。
近づくほどに、ザナはいつも通り自信たっぷりの不敵な笑みを浮かべているのがわかった。アシュラフはザナのそばまで近づいて、心配そうに小声で言った。
「ザナ、何か秘策でもあるのか?」
「うん、まあね……酷い怪我だな」
間近でアシュラフを見て、ザナは改めて驚いたように眉を寄せる。電光板からハキールの落ち着いた声が漏れ出てきた。
「アシュラフ、色々迷惑かけたな」
「ハ、ハキール?」
アシュラフは驚いて、電光板を覗き込んだ。
「直ったんですか……?それとも、最初から壊れてなどいなかったのですか?」
「ま、色々あってな」
ハキールはかすかに笑うと、肩をすくめるように軽くぶるん、とエンジン音を立てた。ザナが心配そうにアシュラフに声をかける。
「アシュラフ、大丈夫か?顔も相当やられてるぞ」
「ああ、平気だよ。これくらい」
アシュラフは無理に笑ってみせる。
「そっちじゃない、こっちの顎のそばだ」
「え……どこ?」
アシュラフは一瞬ザナに顔を寄せた。途端、ザナがアシュラフの襟元をつかんで、ぐいと引き寄せた。
気が付くとアシュラフはザナに口づけされていた。
熱い吐息と共に彼女の舌がそっと口の中に潜り込んできて、遠慮がちに舌先を優しくからめると、別れを惜しむように再び離れていくのをアシュラフは感じた。
ザナは自分から顔を離した。アシュラフの切れた唇の端を優しく撫でて、ザナは言った。
「ここだよ」
「……」
強い酒をあおったときのように頭がくらくらして、アシュラフは何も言えなかった。ザナは静かにささやいた。
「アシュラフ、今まであんたを軟弱な男だと思いこんでいたけど、訂正するよ。あんたは誰よりも勇敢な、男の中の男だ。あたしがこの世で最も尊敬する部類の人間だった。ハキールみたいに」
「ザナ……?」
「色々楽しかったよ、アシュラフ。元気でな」
ザナは軽く微笑むと、ハキールの電光板の横にある、透明な膜で保護された白いボタンを強く押した。電光板が赤く染まり、点滅し始めた。ハキールが軽快に言った。
「じゃあ行くか、ザナ」
「うん!」
ザナはハキールに跨り、ハンドルを握った。力強いエンジン音が辺りに響く。ハキールは最後にいつもと全く同じ、平静な口調でアシュラフに告げた。
「アシュラフ、俺とザナがこれからやることで、この土地一帯が広範囲に亘って汚染される。全てが終わったらお前さんは直ちに村人と近隣の氏族を引き連れて、この地から立ち去るんだ。でないとお前さんらの体に悪い影響が出てくるからな。いいか、わかったな?」
「え……一体何を言って……ザナ……?」
アシュラフは動揺して、ザナに問いただそうとした。だが既にザナはハキールを発進させ、装甲車に向かって真っ直ぐに走り出していた。
「お、おい、ザナ!」
アシュラフは蒼白になって叫んだ。だがもうザナとハキールを止められるものは何もなかった。
「様子がおかしい」
院長ははっとして腕組みを解いた。
「やつら突っ込んでくる気だ!」
彼は振り向いて部下に命じた。
「急いで車を出せ!我々を巻き添えに自爆する気だぞ。退避する!」
彼らは装甲車に乗り込むと、方向転換してザナに追われる形で走り出した。
「さすがに察しがいいねえ」
ザナは口笛を吹いて、ハキールを加速させた。
「これで終わらせてやる、何もかも。ハキール、死ぬときは一緒だよ!」
「……」
「ハキール?」
ハキールが応えないので、ザナは怪訝そうに声をかけた。赤く点滅している電光板から、ハキールの低い声が聞こえてきた。
「ザナ」
それはザナが今まで聞いたことのないような、寂しげな笑みを含んだ声だった。
「すまん、俺はお前に最初で最後の嘘をついた。もし俺が本当のことを言ったなら、お前は決して自爆装置なんて作動させはしなかっただろうからな……」
「……?ハキール?」
「お前を一緒には連れて行けない。人間の世界に戻りな、ザナ。これからはアシュラフがそのすべを教えてくれるはずだ」
「……えっ……?」
ザナは蒼白になった。静かな声でハキールは続けた。
「お前はいつだったか小さい頃、命はどこに宿るのかって俺に聞いたな。命は……たぶん、そいつと関わった連中の心に宿るのさ。俺は大戦で失った戦友一人ひとりの名前と顔を今でも思い出せる。あいつらは俺の中で、この四百年というもの俺と一緒にずっと生き続けてきた。だからザナ、俺はお前の心に宿るとするよ。お前が生き続けてくれれば、俺はお前の中で思い出となって、この先も生き続ける。俺はお前の中にいつもいるよ」
「いったい何言ってんだ、ハキール?」
ザナは混乱した頭で叫んだ。悲しみの予感が突き上がってくる。ハンドルさえ握っていなければ、何も聞けないよう両耳をふさぎたかった。
「お前に命を与えたのが俺だというのなら、ザナ。アシュラフはお前がこれから生きる世界を、お前に見せてくれた恩人だ。アシュラフについていけ。今後はあいつを頼りにするといい」
突然逆噴射が起こり、バイクの座席部分が切り離された。ザナはバイクから振り落とされ、激しく地面に叩き付けられた。
操縦者を失っても、ハキールはそのまま走り続ける。ザナはバイクから落ちた衝撃で全身を強く打ち、頭が朦朧として動けなかった。地面に倒れたまま、遠ざかっていくハキールをなすすべもなく見送るしかなかった。心の中はまだ信じられない思いで一杯だった。
(……ハキールが私を捨てた……?)
操縦者を離脱させる仕組みがあるなど、ハキールは一言も言わなかった。一人だけ置いて行かれると知ったなら、ザナは自爆装置のスイッチなど決して押さないと見越して、ハキールはわざと黙っていたのだ。最初から、ハキールはザナを道連れにする気などなかったのだ。
施設の連中は、装甲車の窓から後ろを振り向いて大声で叫んだ。
「なんだ?操縦者もいないのにバイクが走り続けてるぞ!」
「追ってくる!」
呵々と笑いながらハキールが種を明かした。
「この自爆装置にはなあっ、攻撃対象に照準を合わせて、自動的に追尾する機能が搭載されてるんだ!自爆装置さえ作動すれば、あとは操縦者がいなくても動けるんだよっ!」
「やむを得ん。バイクを破壊しろ、銃を使え!」
院長が冷厳に命じた。部下達は、復活させた旧世界の銃でハキールをねらい打ちした。
「やめろーっ」
上半身をやっと起こしながらザナが絶叫する。身を振り絞るような懇願の叫びだった。
弾丸の雨を浴びて、ハキールの車体に幾つもの穴が開いた。弾丸を受けた穴から、鮮血のようにオイルがほとばしる。あちこち破壊されながらも、ハキールは走り続けるのをやめなかった。装甲車とハキールの距離は、ぐんぐん縮まっていった。
「アシュラフ、ザナを頼んだぜ!」
ハキールの声はむしろ晴れ晴れとしていた。
「ハキール!」
アシュラフとザナが同時に叫んだ。ザナはハキールに向かって必死に手を差し伸べる。
「ほらよ、これがお前達の欲しがっていた核ってやつだ!受け取りな!」
ハキールは装甲車に後ろから突っ込んでいった。
「ハキール!」
ザナは声にならない叫びを上げた。その途端、ぴかっと閃光が走り、辺りは真っ白な光に包まれた。強い光がザナの目を射貫き、彼女は思わず身を伏せた。
次の瞬間、鼓膜の破れそうな轟音が上がり、すさまじい爆風がザナとアシュラフを襲った。アシュラフはとっさにザナの上に覆い被さり、彼女を庇った。
(衝撃波だ……!)
地面も岩も空気もびりびりと震えている。このまま大地が裂けてしまうのではないかとアシュラフは思った。
ず、ず、ず、ず、ず────不気味な地響きと共に、目の前に巨大な雲が出現し、天に向かって立ちのぼっていく。ザナとアシュラフの体の上に小石や砂、何かの破片がばらばらと降ってきた。その中のどれかはハキールのかけらかもしれなかった。
地響きはいつまでも続いていた。二人は地面に突っ伏したまま、そのまま半時間ばかりもじっとしていた。やがてアシュラフがゆっくりと身を起こし、自分の下にいるザナにそっと声をかけた。
「ザナ……大丈夫か?」
「う……」
ザナもゆっくり起き上がろうとする。しかし足をくじいていて、立ち上がることができなかった。アシュラフが彼女に肩を貸してやり、二人はもつれ合うようによろよろと爆発の起こった地点に歩み寄った。
そこは、地面が半円球にえぐり取られ、村一つ分も入りそうなほど大きな穴がぽっかりと開いていた。ハキールも、施設の連中が乗っていた装甲車も、残骸すら残っていなかった。
「うう……ハキール……ハキール、どうして……」
ザナは地面に膝をつき、肩を震わせて呻いた。アシュラフはザナの悲嘆もよくわかったが、ハキールの残した言葉が気がかりだった。
「ザナ、この地一体が汚染されるってハキールが言ってただろ。ここにずっといないほうがいい。とりあえず村へ帰ろう、早くみんなに知らせに行かないと。僕がおぶってやる」
アシュラフはザナに背中を向けてしゃがんだ。彼の背中は鞭打たれて無惨に切り刻まれ、血みどろだった。ザナは躊躇したが、歩けないので背負ってもらう以外方法がない。ためらいながらも彼の背中に体を預けた。相当痛いだろうに、アシュラフはザナが負ぶさっても一瞬息を飲んだだけで、声一つ上げなかった。
アシュラフはザナを背負って、よろけながらも一歩一歩村へ向かって歩いた。一歩ごとに足が砂にめり込むので歩きにくい。背中の痛みと重さとで、アシュラフの額から汗が噴き出した。
ザナはうなだれたまま、アシュラフの背中の上でうわごとのように呟いた。
「どうして連れて行ってくれなかったんだ、ハキール。なんであたしを置いていったんだ。ハキールの嘘つき……」
アシュラフは少し沈黙して、口を開いた。
「これは僕の考えだけど……ハキールは直前まで、本当に君を連れて行くつもりだったんじゃないかな……」
「……だけど途中で気が変わったってこと?」
「自分と一緒に死なせるには忍びないと、直前で思い直したんだろう。彼は優しすぎたんだよ。そして本当に君を愛していたんだろう」
アシュラフは慎重に言葉を選びながら自分なりにザナを慰めた。
(それに……)
アシュラフはザナの口づけを思い出した。
(君がもう既に人間の世界に傾き始めていることを、最後に彼は悟ったんだ……彼は恐らく最後の最後まで、迷っていたんだ……)
こうやって生きているザナを背負っていることが、一つの奇跡のようにアシュラフには思われた。ザナの体の温もりが、今の自分に残されたたった一つの宝物のように思われた。
「おーい、おーい!アシュラーフ!」
村の入り口付近に人々が集まっているのが見える。村人達が手を振りながら次々に駆けだしてきて、アシュラフとザナを出迎えた。
トゥフマら村の若者達は、隠れていた仲間に既に縛めを解いてもらっていた。彼らはアシュラフを囲んで、口々に言いつのった。
「何だったんだ、さっきの白い光とすごい爆風は?アシュラフも見ただろう?」
「そのことなんだが」
アシュラフは一旦しゃがんで背中からザナを下ろしてやった。村の女がザナに手を貸して、足の手当をしてやりに近くの家に連れて行く。
アシュラフは厳粛な面持ちで村人達を見回し、すっと息を吸った。
「みんな、落ち着いてよく聞いてくれ。僕たちはこの村を捨てなくてはいけなくなった。このままこの土地にいると、体に様々な悪影響が出てくるらしい。すぐに旅の支度をするんだ、明日の明け方に出発する。まだ誰のものでもない新しい土地に行って、新しい村を作るんだ」
村人達はしんとなった。族長の言葉は絶対なので、逆らうことは許されない。だがアシュラフの言葉をすぐに受け入れることもできず、困惑した表情で顔を見合わせた。
数百年も昔に建設された灌漑用水路のおかげで、この村は一年中水に事欠ず、周辺の村々から羨ましがられるほど緑豊かだった。ここより暮らしやすい土地など他にないだろう。
丹誠込めて手入れしたなつめやし畑、たわわに実をつけた葡萄にシトロン、ざくろ、イチジクの畑……。それら全部をここに置いて行かなくてはならないのか。住み慣れた土地を離れて、新しい土地で水を確保することから始めなくてはならないのか。考えるだけで気が遠くなりそうだった。深い絶望と虚無感が人々を襲った。
しかしトゥフマがすぐに気を取り直したようにさばさばと言った。
「わかったぜ、族長。ランスの民はもともと、遊牧をなりわいとする民だからな。移動生活はお手の物さ。諺に言うじゃないか、人間歩く処に清泉ありってな」
トゥフマの言葉にわずかな希望を見出したように、そうだ、そうだと周りから声が上がった。トゥフマはいつもこうやって、幼なじみのアシュラフを後ろから支えてくれるのであった。
アシュラフはきびきびと指示を飛ばした。
「トゥフマ、君は近隣のランス氏族の村に報せに行ってくれ。明朝出発するから旅支度を調えてこの村に集まるようにと。ヤグ氏族の連中にも知らせてやろう。もし一緒に行く気があるのなら、我々は拒まないと伝えてやってくれ」
「よしきた!」
トゥフマはもう駆け出している。アシュラフは全員に凛然と言い渡した。
「放牧している家畜を集めろ!すぐに出発の支度をするんだ。欲はかかず、荷物は必要最小限にするんだぞ!」
応と返事して、人々は一斉に行動に移った。
アシュラフは村の女に頼んで、とりあえずの応急処置として背中に薬草の湿布をしてもらった。族長という地位の悲しさでアシュラフはゆっくり傷の手当をする暇もなく、次は古老達の説得に当たらなければならなかった。村の老人達は住み慣れた地から離れるのを拒み、村と運命を共にすると言ってきかない者もいたからだ。
「この年で他の土地に行くなんて……。わしゃもう充分長生きしたからいいよ。アシュラフ、どうかこの村と一緒に死なせておくれ」
アシュラフは厳しい表情で首を振った。
「お気持ちはわかりますが、僕は族長として、死という選択を己の民に許すことはできません。誇り高きランスの民なら、生きなければ。僕は村長としても族長としてもまだまだ未熟者です。この厳しい局面を乗り切るために、長老達の助言が何としても必要なのです」
老人達は肩を落としたまま、それ以上何も反駁しなかった。
アシュラフは各戸をまわって村人達に声をかけ、村の共同倉庫で積み荷を選別し、出発に当たっての様々な問題を処理していった。
忙しく走り回る中で、灌漑用水路にいくつも設けられた水門を見ると、アシュラフはさすがに胸が痛んだ。村にまんべんなく水を供給するため、アシュラフは水の司としてこの水門を毎日せっせと開け閉めして回ったのだが、もはやその必要もない。この水路は文字通り村の生命線だった。アシュラフはつかの間、水路のそばで低い真言を唱えて、水の精霊に感謝と別れを告げた。
ふと顔を上げると、足に副え木をしたザナが、ひとり村から離れてひょこひょこ歩いていくのが見えた。
「ザナ!どこへ行くんだ」
アシュラフは駆けていってザナに追いついた。ザナは恨めしげな顔でアシュラフを一瞥する。暗い声で彼女は言った。
「この村にもう用はない。あたしはあんたらとは別行動を取る。ハキールのかけらを拾い集めに行くんだ」
「あそこに近づいたら駄目だよ!ハキールもそう言ってただろう!」
「余計なお世話だ」
ザナは邪険にアシュラフの手をふりほどき、再び歩き出した。その背中にアシュラフは呼びかけた。
「ザナ、おいで。僕たちと一緒に行こう。旅から旅への暮らしは、嫌いじゃないんだろう?」
「旅が楽しいのだって何だって、ハキールがいてくれたからだ!あたしはハキールに乗って、風を切って走りたいんだ……かたつむりみたいにのろのろ地面を這い歩くなんて御免だ!」
振り向いたザナの目からどっと涙が噴き出す。アシュラフはなだめるように優しく言った。
「君はまず自分の足で、大地を踏みしめて歩くことから覚えないと。これまでの人生はハキールと共に終わったんだよ。君はたったいま生まれたばかりの赤ちゃんなんだ。僕が一から歩き方を教えてあげるよ。大丈夫、僕は人に教えるのは得意だから」
「……」
ザナは無言で背を向けて、再び歩き出した。アシュラフはそれ以上何も言葉が見つからず、その場に立ち尽くしたまま去ってゆくザナを見送るしかなかった。
ザナはその夜、砂漠で野宿した。マントを体に巻き付けて、砂の上にごろりと横たわる。空には一面の星が瞬いていた。
ハキールと二人で旅をしていたときは、宿もなく砂漠で寝ることが何度もあった。エンジンをかけたまま横倒しになったハキールに抱きつくと温かく、優しい振動に揺さぶられて安心して眠れたことを思い出した。
「ハキール……」
ザナは一言呟いた。昼間、ハキールが自爆した場所に再び足を向けてみたが、噴火口のように地面にぽっかりと空いた穴はあまりにも深く、一人では底までたどり着けそうになかった。
ハキールに花を手向けたくとも、凄まじい衝撃波で吹き飛ばされたのか、辺りには草一本も生えていない。ザナは代わりに、ハキールに乗るときいつも使っていた革手袋を穴の中に投げ入れて手向けとした。
(疲れた……)
ザナは目を閉じた。大好きだったハキールはもういない。旅から旅へと走り続けるのにも、もう疲れた。もう二度と起き上がりたくない。このまま目覚めることなく、いつまでも眠っていたかった。
いつの間にか、彼女は深い眠りに落ちていた。
夢の中で、ザナはどこへ行くともなく白いもやの中を歩いていた。ふと足元を見ると裸足だった。
(裸足じゃ何か踏んだら怪我するな……今度、アシュラフに履物を作ってもらわないと……)
そう思ったとき、前方に人影が現れて、ザナは目をこらした。
そこには一人の若い軍人が立っていた。年は二十代後半ぐらいか、暗緑色のぴしっとした軍服に身を包み、ぴかぴかの長靴を履いている。長身ですらりとしているが肩幅は広く、胸板にも厚みがあった。
彼はずっと見つめていたくなるほど男らしく整った顔立ちをしていた。さらさらした金髪をうなじのところで一つに結び、鮮やかな緑の瞳はザナを優しく見つめている。見事に口角の切れ上がった口元には、温かな微笑を浮かべていた。
ザナが一度も目にしたことのない顔だった。だが不思議と懐かしく、胸が苦しくなるほど慕わしかった。駆け出しの新兵という感じには見えなかった。黙っていても彼の世慣れた堂々とした物腰が伝わってくるし、立派な肩章や胸に並んだ勲章を見れば、若いが相当な地位にいるであろうことが伺える。
軍人は近くまで歩み寄ってくるとザナをそっと引き寄せ、壊れ物のように優しく抱きしめた。ザナはなぜか抵抗せず、なされるがままになっていた。そのまま彼女はしばらく男の胸に抱かれていた。
彼の心臓の音と鼓動がかすかに伝わってくる。彼の腕の中で、ザナはわずかに目を見張った。この感覚をザナは昔から知っていた。
一言も言葉を交わさなかったが、彼の考えていることが直接胸に流れ込んでくるようにザナには感じられた。
やがて軍人は体を離し、二・三歩離れると、右手を上げて見事な挙止でザナにきちんと敬礼した。惚れ惚れするほど凛々しく、朗らかな笑顔だった。彼は背中を向けると、ザナの前から去っていった。白いもやが再び彼の体を包んで、見えなくなった。
ザナは目を開けた。薄紫色の夜明けの空に、まだ消えやらぬ星が瞬いている。遠くから山羊か羊か、家畜の鳴き声が聞こえてきた。アシュラフの村から、ここはそれほど離れていないのだ。
仰向けになって夜明けの空を見つめたまま、ザナはしばらく動かなかった。彼女の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
近隣のランス氏族の村人達が、旅支度を調えて続々とアシュラフの村に集まってくる。
村の入り口の前には既に荷馬車が何台も停まっているが、その数はこうしている間にもどんどん増えていった。荷台には足の弱い老人や女子供が座り、一様に不安そうな表情をしていた。
アシュラフはランスの民の族長として、この大勢の氏族の人々を引き連れ、新しい土地に導いて行かねばならなかった。地味豊かで充分な水が確保でき、かつこれだけの人数を養うことのできる広大な土地が見つかるかどうかもわからない。
度重なる世界大戦によって大地は汚染され、既に人間の住める地域は極めて限られている。人々は残されたわずかな土地にひしめき合って暮らしているのだ。旅の途上で、敵対氏族からの攻撃を受けないとも限らない。心配の種は山ほどあった。
しかし族長である自分が皆に不安そうな顔を見せるわけにもいかず、アシュラフは終始落ち着き払った態度を崩さなかった。
出発前の忙しい時間をぬって、アシュラフは人々に声をかけて回った。羊があちこち群れを離れて、苦労している羊飼いの少年を見つけると、アシュラフは近づいていって声をかけた。
「ダーナ、羊の群れ五十頭につき、山羊を二・三頭混じらせておきなさい。羊は山羊を頼って周りに集まるから。山羊が羊たちを先導して、群れ全体を引っ張って歩いてくれるよ」
「わかりました、アシュラフ先生」
少年は素直に返事をすると、山羊の角をつかんで引きずってきた。
家畜はできるだけ一緒に連れていくようアシュラフは村人に命じていた。旅の間の食料となるし、山羊たちは幼子によい乳を与えてくれる。
これからどこへ連れて行かれるのかわからず、ただ鳴き交わしている羊たちの群れを見つめていると、アシュラフは不意に慄然となった。今後は自分が群れを率いる山羊となって、氏族の人々を安全な土地まで連れて行かなければならないと思うと、にわかに不安になったのだ。
はたして自分にそんな大役ができるかどうか。しかし、不安でも自信がなくても、自分はそれをやり遂げねばならないのだ。
自分の隣に立って、自分と一緒に村人を導く山羊の役をしてくれる人がほしい、と彼は痛切に願った。だがアシュラフは村長であり族長であるという立場上、自分の不安を誰にも打ち明けることができなかった。
小さい子供達は抜かりなく、羊の胃袋に乳を入れたものを荷台の横にくくりつけている。運搬する際の振動によって撹拌され、自然と凝固してクムと呼ばれるチーズができるのだ。ごく幼い子供達は事態の深刻さがよく理解できず、遠足にでも行くようにはしゃいでいる者もいた。
アシュラフは村の前で近隣のランス氏族の村長達と久々に顔を合わせ、挨拶を交わした。
「アシュラフ殿、お久しぶりです。こんな形でお会いすることになろうとは思いませんでしたな」
「よくぞ呼びかけに応じていらして下さいました。若輩者の自分の言うことなど、信じてもらえないかもしれないと思っていたので……」
「何を仰います、氏族長の命令ならわしらは直ちに従いますよ。昨日、ものすごい爆風の後で遠くに立ちのぼる大きな雲を見たとき、これはただごとではないと思いました。このままここに住み続けていては体に害が出るというのなら、よそに移り住むしか仕方がない。これも大地の神の思し召しでしょう」
出発の準備が整った。アシュラフは香炉で乳香を焚き、村の入り口に山羊の乳をまいて、長年村を養ってくれた神々に感謝した。アシュラフが旅立ちの儀式を行う間、村人達はじっと頭を垂れて、どうかこの旅が無事であるようにと祈った。
「さあ、出発だ」
アシュラフの合図に、ゆっくりと荷馬車が動き出す。アシュラフは先頭に立って、積み荷を背負った馬の轡を取った。彼は最後にもう一度、気がかりそうに辺りを見回したが、彼の求める人はその姿を現さなかった。
人々が粛々と村から離れると、待ちかねたようにどこかからか騎馬の男たちが飛び出してきて、歓声を上げながら続々と村に駆け込んでいった。誰かが憤慨した声を上げる。
「あいつらヤグ氏族の連中だ!用水路ごと村を乗っ取るつもりなんだ」
もう捨て去った村とはいえ、自分達が今まで生活していた場所をよそ者に汚されるのは、ランスの村人達にとって許せない思いだった。みな立ち止まって振り返り、怒りに拳を震わせていた。
血気盛んな若者達も大勢いたが、「奴らを殴りに行ったところで仕方がない。ランスの男なら、堪えるんだ」とお互い声を掛け合い、ぐっとこらえて我慢した。
アシュラフは口のわきに手を添えて、大声でヤグ氏族の男たちに警告してやった。
「危険だぞ、この地は汚染されているぞ!早く別の地に移住しろ!」
しかし村を占拠する機会を今か今かとばかりに狙っていた彼らは、アシュラフの言葉など聞く耳持たず、「水だ!水だ!」と有頂天で叫びながら次々に用水路に飛び込んで、子供のように大はしゃぎしていた。
トゥフマがアシュラフの肩を軽く叩いた。
「いいさ、アシュラフ。俺たちは既に昨日の時点で、あいつらに伝えるべきことは伝えてやったんだ。あとはあいつらの勝手さ」
「うん……」
アシュラフは物憂げに頷く。できるならヤグ氏族の連中も一緒に連れて行ってやりたかった。そうでなくても、度重なる世界大戦で人間の数は激減しているのだから。
「あっ、ザナだ!」
「ザナ姉ちゃん!こっちだよ!」
子供達が嬉しそうな声を上げたので、アシュラフははっと顔を上げた。荒野の向こうからザナが杖で足をかばいつつ、小走りにこちらに駆けてくるのが見えた。
「ザナ……」
アシュラフは呆然と立ちすくんだ。ザナはアシュラフのすぐそばまで駆け寄ってくると、息を弾ませながら強い瞳で言った。
「アシュラフ、あたしも連れてってくれ」
「もちろん。氏族を挙げて歓迎するよ」
アシュラフは大きく頷いた。静かだが大きな喜びがゆっくりと体を満たしていくのを彼は感じた。
「足は大丈夫なのか?」
アシュラフが気遣うと、
「少しひねっただけだったみたいだ。念のため杖なんか持ってるけど、もう問題ない」
ザナは言いながらアシュラフの反対側にまわって馬の轡を取った。冷静沈着で不敵なその面構え。いつも通りの、したたかで逞しいザナだった。彼女の横顔に、アシュラフはしみじみと声をかけた。
「ザナ……本当に、よく決心してくれたなあ」
ザナは真っ直ぐ前を向いたまま平然と答えた。
「ハキールが私に歩けって言ったんだ。だから歩く。どのみち、私にはもう失うものなんて何もないからな。どうせならとことん世界を見てやろうって思ったまでさ」
「はあ、僕は一生ハキールにかなわないかもしれないなあ……」
アシュラフは苦笑して溜息をついた。
荒野の向こうから巨大な太陽が昇ってくる。斜めに差し込んだ朝日が、人々の頬を赤く照らした。ザナの顔も、アシュラフの顔も、トゥフマや荷馬車に乗った女子供や老人の顔も。
アシュラフは決意を込めて力強く言った。
「いこう、世界の果てまで。この世界のどこかに、僕たちの住む土地が必ずあるはずだ」
ランスの民の荷馬車の轍は、果てる所を知らずどこまでも続いていた。
アザミの棘の子守歌 風早 りん @rin777
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