第三章
至急の報せを受けて、アシュラフが村の集会所に駆けつけたとき、問題を起こした若者達と村の長老連は既に居間に集まって、アシュラフを待っていた。村の主立った若衆五人組が、体のあちこちに包帯を巻き、腫れ上がった顔には薬草の湿布をして、叱られた子供のように長老達の前に端座していた。
「一体どうしたんだ、トゥフマ。何があったんだ」
アシュラフは部屋に入ってくるとまず古老達に礼をして、幼なじみのトゥフマにいざりよる。トゥフマはばつが悪そうに肩をすくめた。
「すまねえ、アシュラフ。俺たち、近くの村に小麦を買い付けに行く途中で、ヤグ族の連中にいちゃもんをつけられたんだ。俺たちランスの民が水源を独り占めしてるなんて言ってきやがったんだぜ。それで、つい喧嘩を買っちまったんだ」
別の若者が忌々しげに膝を叩いた。
「村の誇りを傷つけられて、黙っていられるか?俺たちの村の灌漑用水路は、俺たちランス氏族のご先祖様たちがものすごい苦労をして、遠くの水源から水を引っ張ってきたんだぞ。それをよくも、水泥棒呼ばわりしやがって……。ヤグ族は昔から俺たちの村の水利権を狙ってきた薄汚い連中だが、冗談じゃねえ、あいつらなんかに村の水を一滴だって使わせてたまるか。この村の水は俺たちだけのもんだ」
そうだ、そうだと若者達が気勢を上げる。
「それでみんなこんなに怪我だらけなのか……」
アシュラフは呆れ顔で若者たちの顔を見回した。無傷の者は一人もおらず、みな目や口の端が切れて、体のあちこちに痣を作っている。
「ふん、だが俺たちはやられっぱなしじゃなかったぜ。ランス族の男に喧嘩を売るなんざ、百年早いんだよ。全員返り討ちにして、足腰立たないようにしてやった」
トゥフマはそう言って、不敵な笑みを浮かべた。村の古老がトゥフマを一喝する。
「だから今、こうして問題になっているんじゃろうが。ヤグ族の村から使者がやってきて、お前達を引き渡すよう要求してきたのだぞ。無闇に挑発に乗って喧嘩など起こすから、このような面倒ごとが起こるんじゃ」
若者達は途端にしゅんとして肩を落とした。別の長老が重々しく口を開いた。
「ヤグの民は我々ランスの民と昔から敵対関係にあったからなあ。我々の方はヤグ氏族に別段何の含みもないんじゃが、我々の村は灌漑用水路のおかげで一年中水に恵まれておる。いきおい、近隣の村々の妬みや恨みを買って、この村の水源は昔から襲撃の対象となってきたんじゃ。わしが若い頃にも、一度ヤグの民と大きな争いがあった」
「今回は若者同士の諍いに過ぎんが、こじれればランス族とヤグ族の水争いにもなりかねん。そうなれば悲惨だぞ」
古老の一人が、陰鬱にぽつりと呟いた。水源をめぐっての水争いは激化しやすく、互いの氏族が一人残らず死に絶えるまで続く場合すらある。アシュラフの顔が厳しく引き締まった。
「水争いだけは避けないと……。仕方がない、ランス族の長として僕が急ぎ相手の村へ行って、何とかことが上手く収まるよう話をつけてこよう」
こうして、村長であり水争いの調停人でもあるアシュラフは、単身ヤグ氏族の村に乗り込むこととなった。
翌日はよく晴れていた。村人達は朝から集まって、心配そうに村の集会所を取り囲んでいる。身支度を終えたアシュラフが集会所から出てきて人々の前に姿を現すと、低い感歎のざわめきが起こった。
今日のアシュラフはランス族伝統の文様が織り込まれた白い長衣に萌黄色の飾り帯を締め、紫紺色の肩布を斜めにかけるという、ランスの男の伝統的な第一礼装に身を包んでいる。これから赴くヤグ氏族の村に敬意を表するとの意味合いももちろんあるが、アシュラフにとってこのランス族の正装は己を奮い立たせる戦闘服であった。もし万が一交渉が決裂して、ヤグ氏族の男たちに取り囲まれて殺されるようなときは、これが彼の死に装束ともなるのだ。
正装したアシュラフはその出で立ちも颯爽と、族長の威厳を漂わせていかにも凛々しい面持ちである。普段だったら「男前だねえ」と方々から声がかかって冷やかされるところだが、今回は目的が目的だけに、村人達はみな心配そうな顔をして無言で見守るばかりである。
人垣からトゥフマが進み出て、アシュラフに声をかけた。
「済まん、アシュラフ。俺らの軽率のせいで、お前にこんなことまでさせて……」
「もういいんだ、トゥフマ。気にするな」
アシュラフは慰めるように幼なじみの肩を叩いてやる。長老達は憂い顔で重々しく言った。
「頼んだぞ、アシュラフ。お前の交渉如何に、村の全てがかかっているのだ」
「承知いたしました。必ず、平和裏に解決するよう上手く計らって交渉を進めます。それでは行って参ります」
アシュラフは力強く言うと、くるりと踵を返して駆けだした。彼が向かう先、人々から少し離れた所には、ザナが既にハキールに跨り、エンジンをかけて待っていた。
アシュラフは彼女に駆け寄りながら言った。
「済まないな、ザナ。今日はよろしく頼むよ」
「いやなに」
ザナは普段通り淡泊だった。
三日前に言い争いをして以来、アシュラフは何となく気まずくてザナとこれといった会話を交わしていなかったが、昨日アシュラフが事情を話してヤグ氏族の村まで送って欲しいと願い出ると、「別にいいよ」と二つ返事であっさり了承してくれたのだ。
アシュラフはザナの後ろの座席に腰を下ろした。彼がハキールに乗るのは、これが初めてである。遠慮がちにザナの腰に腕を回すと、彼女は呆れたように振り向いた。
「そんなんじゃすぐに振り落とされるぞ。もっとしっかり、体ごと抱きつけ」
「わ、わかった」
アシュラフは赤くなりつつ、言われた通りにした。抱きしめるとザナの体は柔らかく、肌の温もりが直接伝わってくる。彼女のふわふわした髪の毛が顎に当たって、アシュラフは一瞬陶然とした。
「よし、行くぜっ!」
言うなり、ザナはハキールを発進させた。爆音と共に、体ごと後ろにがくんと倒されるような衝撃を受けて、アシュラフは必死でザナにしがみつく。それ以降アシュラフはザナの体の感触にうっとりする余裕もなく、ただもう無我夢中で振り落とされないようにつかまっているしかなかった。村の子供達がいつもけらけら笑いながら、ザナの後ろに乗っていたのが信じられなかった。
一時間ほどでヤグ族の村に到着したとき、アシュラフは既に頭がくらくらして目が回っていた。バイクに酔ったのか、少し青ざめている。
「おい、しっかりしろ。これから難しい交渉があるんだろう」
ザナは呆れたように彼の肩を軽く揺すぶった。
「話し合いの間、あたしはハキールと一緒にここで待っているからな」
「あ……ああ、わかった。それじゃ、行ってくる……」
アシュラフはヤグ族の若者に先導されて、村の中でひときわ大きな建物に案内されていった。村の集会所として使われているのか、その建物は高床式になっており、どっしりとした太い柱が特徴的な館だった。
少しよろけながら館の階段を上っていくアシュラフを見送って、ザナは思わず
(大丈夫かねえ?あれで)
と独りごちた。
館の手前に大樹がそびえている。ザナはその木陰にハキールを停め、自分は木の幹に寄りかかって腕を組んだ。ざっと見た感じでは、この村はアシュラフの村よりは全体的に建物の規模が大きく、人口も多いように思われた。
(しかし、随分と物々しいね)
外を出歩いているのは全て男たちで、女子供の姿は全く見られない。よそ者を警戒して、女子供は家から出さないようにしているのかもしれない。
村の若者達が少し離れたところで、二・三人固まって腕組みしながら、鋭い目つきでザナをじっと睨みすえている。ザナとアシュラフが乗ってきたハキールにも不審の念を抱いているようだ。旧世界で使用されていた大型バイクなど目にしたことのある者はまずいないだろうから、それも仕方がないと言えたが、ザナは村中の敵意をひしひしと肌身に感じた。
二時間ほど経って、アシュラフが足音も軽やかに館の階段を降りてきた。晴れ晴れした表情でザナに駆け寄り、屈託なく笑いかける。
「何とか交渉は上手くいったよ。今回はお互いに落ち度があったということで、痛み分けと相成った。よかった、これで水争いは回避されたよ」
「そうかい」
しかしザナはどこかすっきりとしない表情だった。
アシュラフとザナはハキールに跨って、ヤグ氏族の村をあとにした。アシュラフはハキールの爆音にかき消されないよう、声を張り上げて言った。
「落ち着いて話せば、彼らも何とかわかってくれたみたいだ。ヤグ族だって我々ランス族と同じく、泥沼の戦争なんて御免だからね」
「……」
「村のみんなは心配しているだろうな。早く帰って安心させてやらないと」
「なんだか……ひと波乱起こりそうな予感がするんだがね」
「え?何か言ったかい?」
「いや……何でもない」
ザナはそれきり口を閉ざし、じっと前を見据えたままハキールを運転した。
赤茶けて荒涼とした大地が、どこまでも途切れることなく続いている。ザナが口をつぐんでしまったのでアシュラフも何となく沈黙し、流れてゆく景色を見るともなしに眺めていた。そろそろ村の遠景が目に入ってくるかと思われた頃、ザナが突然声を上げた。
「おい、アシュラフ。……あれ見ろ」
「……?」
ザナが前方を指し示している。アシュラフは身を乗り出して、ザナが指さす方向に目をこらした。村の青々としたなつめやし畑が遠目に見えてきた。と同時に、幾筋もの煙が村から立ちのぼっているのが目に飛び込んできた。
「……?あれは……?僕の村が燃えている!」
アシュラフは愕然とした。騎馬の男たちが鬨の声を上げながら村の周囲を駆け回り、あちこちに火をつけて回っている。村人たちが焼け出されてなつめやし畑から飛び出して来ると、男たちは手にした大刀であっさりと人々を切り捨てていた。
混乱した頭でアシュラフは叫んだ。
「なんだ?盗賊団の襲撃か?それとも素浪人の群れに襲われたのか!」
「いや……違う。よく見ろ、あいつら全員ヤグ伝統の肩がけをしてるぜ。ヤグ氏族の連中だ。奴ら示し合わせて、あんたが村を留守にする機会をわざわざ作って、村を襲撃したってわけだ」
「そんな……」
アシュラフの脳裏に、村人達の顔が次々と浮かんだ。
(リク、セリム……トゥフマ……長老……!)
「多勢に無勢だな。勝ち目はなしだ、逃げるぞ」
ザナは砂をはね上げていきなり方向転換すると、大きく村を迂回しながら爆走を始めた。
「ど、どこへ行くんだ!」
アシュラフはザナにつかまったまま、唖然として叫ぶ。ザナは冷静な声で淡々と言った。
「村から離れる。奴らに見つかったら危険だ」
「だ、だって、村のみんなを助けなくちゃ!頼むから戻ってくれよ!」
「御免だね」
ザナは無慈悲に言い捨てた。
「あいつら、村人を皆殺しにして灌漑用水路ごとあんたの村を乗っ取るつもりなんだろ。全ては周到に準備され、計画が練られてあったんだ。こっちは武器も何も持ってない。我々二人で連中にかなうとでも思うか?」
「でも、このままではランスの民がヤグの民に滅ぼされてしまう!」
「そんなの私の知ったことか。それはあんたらの問題だ」
アシュラフはかっとなった。いきなりザナの首に腕をかけると、体を思い切り横に倒した。ザナはアシュラフと一緒になってバイクから転がり落ちる。バイクは横転し、砂の上を何度も回転して横倒しになって止まった。
「何しやがる!殺す気か!」
ザナは野生動物のように敏捷に飛び起きると、怒りに目を光らせて獰猛に叫んだ。
「きみには人間の心ってものがないのか!」
怒りに震えつつ、アシュラフも負けじと声を張り上げた。
「村人達のために何かしてやろうとは思わないのか?君はそんなに、自分の命だけが大事なのか?」
「当たり前だろう」
ザナはしゃあしゃあと言った。
「一体、あんたはさっきから何を怒ってるんだ?自分の身の安全を確保するため、危険から速やかに回避するのは当たり前だろうが。生きる上での基本中の基本だぞ」
ザナは本当にわけがわからないといった様子で、怪訝そうな表情でアシュラフを見返す。横倒しになっていたハキールに歩み寄ると、よっ、と気合いを入れながら車体を立て直し、砂のついた手をはたいた。
「大体、やすやすと攻め込まれるお前らの方が悪いんじゃないか。私の見たところ外敵への備えも全くしていないようだったし、無防備に過ぎると前々から感じていたんだ。村長のあんたの職務怠慢だよ。弱肉強食は砂漠の掟だ。強い者は常に正しく、弱者は滅ぼされても文句を言えない。弱いことは即ち悪なのさ」
身もフタもなくザナは言った。アシュラフは口をぱくぱくさせて、しばらくものも言えない状態だったが、ようやくハキールの存在に気づいてまくし立てた。
「ハキール、黙ってないであなたからも何とか言ってやって下さい!ザナを説得して下さいよ!」
「……と言われてもなあ。いつでも自分の命を最優先するよう、俺はザナに教え込んできたからなあ」
ハキールの飄々と落ち着き払った声が電光板から漏れてくる。
アシュラフは慄然とした。そうなのだ、ハキールは生粋の軍人だった。鋼の意志と鉄の精神力でもって叩き上げた戦争屋が、己の命を危うくしてでも他人を助けろなどと殊勝なことをザナに教えるわけがないのだ。
アシュラフは力が抜けて、砂の上にがっくり膝をついた。絶望に震える体を両手で支えながら、懇願するように彼は言った。
「ザナ……。村長として、ランスの民の氏族長として、この通りお願いする。一人でも村人を救いたいんだ、頼むから村に戻ってくれ。怪我をしている者がいたら介抱してやりたいし、死にかけている者がいたらせめて手を握ってやりたい。頼む、この通りだ」
「やなこった。あんた馬鹿か?戻れば、連中になぶり殺しにされるぜ」
ザナは懐から煙管を取り出すと火打ち石で火をつけ、バイクにもたれてゆっくりとふかした。襲撃が終わるまで、ここで一服しながら待っているつもりなのだろう。アシュラフは自分が目の前にしている光景が信じられなくて、必死になって叫んだ。
「ザナ!どうして、どうしてなんだ?村の子供達が、ヤグの連中に容赦なく殺されているんだぞ!君だって子供達をあんなに可愛がっていたじゃないか!一緒にイチジクを摘みに行ったり、バイクに乗せてやったり。きみは卑劣な人さらいの手から子供達を奪還してくれたじゃないか、病気の子供のために、わざわざ遠くの街から医者を連れてきてくれたことだってあったじゃないか!あれは一体何だったんだ!」
「甘ちゃんだな、あんた」
ザナは口から細く煙を吐き出しながら、少々呆れたようににやりと笑う。その顔は恐ろしく酷薄で、頭に来るほど美しかった。
「そんなの、単なる処世術に決まってるだろう。村に滞在する間、自分の居心地をよくするためにせいぜい愛敬を振りまいていただけさ。それとこれとは根本的に話が違うよ」
アシュラフは呆然と目を見開いている。
その小鳩のようなぽかんとした表情を見ると、ザナは不意に苛々したように、吐き捨てるような口調で言った。
「あたしはあんたのような甘ったれを見ていると、時折無性に腹が立って堪らなくなるんだ」
口の中がにわかに嫌な味で一杯になったので、ザナは砂の上にべっと唾を吐き出した。
バイクを飛ばしている最中、突然口に飛び込んできた蝿を吐き出してでもいるようだった。唾を吐いても美しく、さまになるのが彼女のすごいところだった。
「ついでに教えてやるよ。あたしはあの人さらいのイブラムの野郎とは昔からの顔馴染みなんだ。一緒に仕事をしたことだってある。人買いの組織の連中に頼まれて、売られた子供を運んだことだってあったさ」
ザナはまるで自暴自棄の神に取り憑かれたかのように、突然露悪的になった。
アシュラフはザナの言葉に愕然として息を飲んだ。
「そ、それ、どういう……」
「利害が一致すれば、あたしら流しの商売人は、できる限りお互いの仕事に協力しあうのさ。商売人同士で敵対しあうのは、ただ相手が自分の仕事の邪魔をしようとした場合のみ。イブラムは昔馴染みだからな、この村はあたしのシマだから商売の邪魔をするなと言ってやったら黙って子供達を返してくれた、ただそれだけのことだ。間違ってもあの子供達が哀れだから救いにいったわけじゃない。何の利益も得られないのに人助けするほど、こっちは暇でもないからな」
猫が鼠をいたぶるように、ザナはアシュラフをいじめにかかった。彼女はアシュラフをいたぶって、残忍な喜びを感じているようだった。
アシュラフを傷つけることによって、己もまた傷つきたがっているようだった。
「……」
アシュラフは凍り付いたように表情が動かない。ザナの瞳が冷徹な光を帯びた。
「あたしだって売られた子供だ。赤ん坊の時分に、人の臓器を切り売りしているあのクソったれの研究施設に売られたのさ。親が生活に困って自ら施設に売り飛ばしたのか、それとも人買いの連中があたしを親からさらって施設に売り飛ばしたのか、どちらなのかはもう知る由もないし、知りたいとも思わない。だがあたしは、自分をそんな目に遭わせた連中を今は恨んじゃいない。これが自分の運命だって受け入れているからさ」
ザナは軽く煙管を振って灰を落とした。
「あんたの村もここで滅びるのが運命なんだろうよ。仕方ないじゃないか、弱い者から滅びるのがこの世の定めなんだから。腕力も知恵もない貧弱なお前に、できることなど何もない。せいぜいここでぼんやり突っ立って、自分の村が征服されていくありさまを指をくわえて眺めているのが相場だろう。わかったら口をつぐんで引っ込んでろ、この温室育ちのひよっ子が」
ザナは言いたいだけ言ってしまうと、横を向いて煙管をふかした。
「……人でなし」
痛烈な一言がアシュラフの口から発せられた。
そうだ、この娘は人であって人ではない。バイクに取り憑かれて人間の心をなくした、哀れな娘なのだ。人間の姿をしていても、その心はすでに人間のものではないのだ。人情や人の心の機微に訴えたところで、彼女に通じるわけがなかった。
もう何を言っても無駄だとアシュラフは悟った。彼はザナを真っ直ぐ見据え、低い声で言明した。
「……僕は君を軽蔑するぞ」
「お好きに」
ザナは肩をすくめてにっこり微笑む。この状況には場違いなほど、その笑顔は明るかった。アシュラフは既に怒りで頭がおかしくなりそうだったので、ザナに背を向けると、ざくざくと砂を踏みながら足早に歩き出した。
「どこ行くんだ?」
ザナがのんきな口調でアシュラフの背中に声をかける。彼は前を向いたまま硬い声で答えた。
「決まってるだろ、村に帰るんだ。ヤグの連中に殺されてもかまわない。僕は自分の民も守れないような情けない氏族長だけど、せめて死ぬときは己の民と一緒に死にたいんだ」
「へええ」
ザナは感心したように煙の輪を吐いた。
「氏族のつながりってのは見上げたものだなあ」
呆れたように独りごちながら、ザナは去ってゆくアシュラフの背中を見つめた。
砂に足がめり込んで歩きにくいことこの上なかったが、ヤグ族に蹂躙される村を見つめながら、アシュラフは一歩一歩懸命に進んでいった。いつしか彼の両目から涙が溢れて、頬を伝って流れ落ちた。自分が悔しくて泣いているのか、それとも悲しいのか、怒っているのかもわからなかった。
どのくらいの時間が経ったのか、ややあって慰撫するような柔らかいエンジン音が後ろから迫ってきたので驚いて振り返ると、ハキールに跨ったザナがすぐ後ろまで追いついてきていた。
アシュラフの涙を見ると、ザナは驚いたようにちょっと目を見開いたがそれについては何も言及せず、穏やかだがきっぱりした口調で言った。
「乗れ」
「……」
アシュラフは一瞬わけがわからず、彼女の顔を見つめたまま呆けたようにつっ立っていた。
「乗れったら、早く。私の気が変わらないうちに」
焦れったそうに言われて、アシュラフは慌ててザナの後ろに腰を下ろす。彼女の腰に手を回してしっかりつかまると、ハキールが滑るように発進し、村に向かって一直線に走り出した。
前を向いたままザナは言った。
「本当に変な奴だな、あんた」
「どっちが……」
アシュラフは言い返す。ザナはバイクの速度を上げた。
「ここからは喋るなよ。舌を噛んでも知らんぞ!」
バイクの速度はぐんぐん上がり、アシュラフは体ごと後ろに持って行かれそうに感じた。二人を乗せたハキールはそのまま村に突っ込んでいった。あちこちの家から火の手が上がっているのが見える。ヤグ族の男たちが暴行と略奪を行っているのだ。
村の街道を飛ばしていくと、血に濡れた刀を下げ、狂犬のような目をして路上をうろついているヤグ族の男たちに行き当たった。彼らは高速で近づいてくるハキールを見て、仰天した声を上げた。
「な、なんだっ?」
ザナは速度を落とすどころかアクセルを全開にし、ヤグの男たちを次々はね飛ばしていった。男たちはそれぞれ二馬身ほども後ろに吹っ飛び、地面に叩き付けられて動かなくなった。
「ザナ、新手がやってきたぞ!」
アシュラフが後ろを見て声を上げる。蹄を轟かせてやって来たのは、三十騎ほどのヤグ族の騎馬武者だった。巧みに馬を駆りながら、一斉に矢を射かけてくる。
かつん、かつんと音がして、矢の幾本かがハキールの車体に当たったが、超合金の車体には傷一つつかなかった。ザナはにやりと笑うと、グリップを大きく手前にひねった。途端に、ハキールのエンジンが耳をつんざくような爆音を上げる。
村中に響き渡るような大きな音に、馬はみな驚いて竿立ちになった。次々に騎手を振り捨てて駆け去ってゆく。落馬した男たちは、腰の大刀を抜いて束になって斬りかかってきた。
「うらあ!死にたくなければハキールの前に出るな!」
ザナは巨大な車体を駆って、無情に男たちをはね飛ばしていく。その冷徹さ、非道さといったら、砂漠に棲むと伝えられる魔神ヴィローサですら裸足で逃げ出したであろう。
「ぎゃっ……」
「ぐわっ」
バイクに撥ねられた男が地面に叩き付けられて、骨がぐしゃっと潰れる音があちこちに起こった。
「た、助けてくれえ!」
「悪魔だ!赤い髪の悪魔だああーっ!」
ヤグの男たちは総崩れになって、我先にと逃げ出した。腰が抜けたのか、へたり込んでもがいているヤグの男を見つけると、ザナはアクセルを踏んで無慈悲にもひき殺そうとした。
「やめろ!ザナ、もういい!」
アシュラフがザナの手をつかんで必死に押しとどめると、ザナは意外そうな顔をして振り向いた。
「なんだよ。敵を
「泣いて許しを請うているじゃないか。こんな相手を殺したところで、どうにもならない!」
「ヤグ族を一掃する絶好の機会だぞ。敵対する部族なんだろ?今のうちに根絶やしにして、禍根を断っておいたほうがいいぞ」
どうやらザナは親切のつもりで言っているらしかった。アシュラフの顔からすうっと血の気が引いていった。ザナに対して、何をどう言えばいいのか、どう説明すれば彼女が分かってくれるのか、わからなくなった。
アシュラフの青ざめた顔を見て、ザナは不思議そうに首をかしげた。
「何だよ、村のみんなを助けてくれって言ったじゃないか。あれはヤグ族の連中を皆殺しにしてくれってことじゃなかったのか?」
「違う、違う……!僕は殺戮がしたいんじゃないんだ!そんなことしたら、ヤグと同じになっちまう!」
ザナは、ふうっと溜息をついた。
「何だ、それならそうとさっさと……。甘ちゃんと話していると、どうも噛み合わなくて疲れるな……。いいよ、だったらお前の好きにするさ」
最後はもう面倒臭くなって投げ出すような口調だった。
ヤグの男たちは命からがら、這々のていで逃げていった。一部始終を見ていた村人達が、歓声を上げながら村道を駆けてきた。
「わああ、アシュラフ先生!」
「族長さまぁーっ!」
女や子供たちは泣きながらアシュラフとザナに抱きついた。人々は二人を取り囲んで、口々に感謝の言葉とヤグ族の蛮行を言い募った。アシュラフは皆を慰め、一旦落ち着かせると、村人達を動員して直ちに村の消火活動に当たった。
被害状況を確認するに、村の死者は八名、負傷者は数十名にも上った。アシュラフの学問堂の生徒も、二人が犠牲となった。
ハキールに撥ねられて、怪我をしたヤグ族の男たちがそこかしこで呻いている。既に事切れているのか、倒れたままぴくりとも動かない者もいた。激高した村人達はまだ生きているヤグ族の男を袋だたきにし始め、死んでいる者には斧や鉈を持ってきてその遺体を切り刻み始めた。
「やめろ、お前達はそれでも誇り高きランスの民か!死者を辱めるな!ヤグ族でも生きている者には手当てをしてやれ!」
アシュラフが族長の威厳でもって一喝すると、村人達は不承不承乱暴を働く手を引っ込めた。
アシュラフはヤグの男たちのためと言うより、村人達の心が怒りを増幅させ、すさんでいくことを恐れたのだった。
後日ヤグ氏族からは族長が直々に村にやってきて、村に正式な謝罪を申し入れた。アシュラフは謝罪を受け入れ、村で預かっていたヤグ族の怪我人三十二名と九名分の遺体の引き渡しがしきたり通り行われた。怪我人は全員手厚い看護を受け、死者はすべて浄められて丁重に棺に収められていた。
ヤグの氏族長は御礼とお詫びとして、屠った山羊と羊の肉を五十頭分ずつ、さらに生きている牛を二十頭置いていった。これほどヤグ族の腰が低いのは、どうやら砂漠の鬼神の怒りを買ったと恐れをなしているせいもあるらしい。
と言うのも、生き残ったヤグ族の男たちは村に逃げ帰ると、「赤い髪の悪魔が黒い旋風に乗ってやってきて、氏族の男たちを次々殺戮して回った」と口々に報告したからだ。
こうして、どうにか水争いは回避された。村人達は窮地に駆けつけ、あっという間にヤグ族を追い払ったアシュラフとザナに深い感謝と尊敬を寄せるのを惜しまなかった。
しかしあれ以来アシュラフの心はずっと沈んでいた。
正直、ザナの本性にはかなり幻滅させられたし、がっかりもした。自分には人を見る目がないのか、己の想像の中でザナを勝手に美化しすぎていたのかとも彼は思った。
姿の良さにふらっとなって、あんな冷血な娘と所帯を持とうなどと一度でも本気で考えた自分の浅はかさが、腹立たしく恥ずかしい。ほとんど血迷ったとしか思えなかった。
しかし落ち着いてよくよく考え直してみれば、ザナは温かい家庭の味も知らず、ごく小さい頃は得体の知れない研究施設で非人道的な扱いを受けて育ち、そこから脱走して以後は、たった一人でこの厳しい世界を生き抜いてきたのだ。信頼できるのは己の生きる力と、ただハキールのみ。やらなければ自分がやられる、そういう局面にも何度も出くわしただろう。
口には出さなくとも、彼女の今までの人生には自分など想像もできないような苦労がたくさんあったに違いない。うっかり心の隙を見せようものならたちまち寝首を掻かれる、そうした一瞬たりとも油断のできない苦闘の日々が、非情なまでに冷徹な今の彼女を作ったのだ。
そう思うと、ただ彼女ひとりを人でなしだの冷血漢だのと責めるのは酷なような気がした。少なくとも、生まれてからずっとこの平和な村で、両親に愛され友人に囲まれてのんびりと育ってきた自分に、彼女を非難する資格はないような気がした。
ザナはあれ以来、村人達から畏れの混じった尊敬の目で見つめられることにややうるさげな様子をしているが、ハキールと一緒に依然アシュラフの家に逗留している。
アシュラフはあの一件で、ザナから「非論理的思考の甘ったれ」との烙印を押されたに違いないと覚悟していたのだが、結果は予想外だった。ザナは、アシュラフに一目置くようになったのだ。
いやむしろ、やっと自分と同格に扱うようになった、との言い方の方が正しいかもしれない。
ザナはアシュラフにはどうかすると世間知らずの青二才に対するような口をきいていたのだが、あの襲撃以来、やっとアシュラフを対等の人間と見なすようになった。彼女のちょっとした態度や口調から、アシュラフにはそれがわかった。
村人達を救ってくれとアシュラフが頼み込んだときはあれほどけなしていたくせに、ザナはアシュラフの一連の行動を高く評価しているようだった。
以前は木石でも前にするかのような冷めた目でアシュラフを見ていたのが、一転して彼を一人の人間として尊重するようになったと、近頃のアシュラフには感じられるのである。
まるで、これまで動かない彫像だと思い込んで見向きもしなかったのが、血の通った人間であることが分かって、大喜びで話しかけてくるような印象だった。
ザナの己を見る瞳の中に、以前は全く見受けられなかった「敬意」という名の光が見受けられるのを見て、一体彼女の中でどういう心境の変化があったのか、アシュラフは戸惑うばかりだった。
とはいえ、アシュラフは事件の事後対応に追われ、村の各戸を訪問して回ったり長老達と話し合いを重ねたりと多忙だったので、ザナとゆっくり顔を合わせている暇もあまりなかった。
アシュラフが家を留守にしていたある晩、就寝前にザナは寝間着の上に毛布を羽織って、ハキールの停めてある土間に降りた。
「ねえハキール、あいつって面白い奴だね」
「あいつって?」
分からない振りを装ってハキールは聞いた。
「アシュラフだよ。あいつあんなに弱くて、一人じゃ何もできなくて、ランス族をたばねる氏族長としての資格があるのかも疑わしくなるくらい、頼りなくて情けない奴だけど……。でも、あたしには無いものを持ってる。あたしには計り知れない、何か大きなものがあいつにはある、気がする……」
「……」
ザナは温かいカミツレの花茶の入った茶碗を、両手で包むように持った。
「あいつって、見ていると飽きない。あたしには考えもつかないことを言ったり、やったりするもの。ハキールはそう思わない?」
「……お前さんが他人に興味を持つなんて、初めてだなあ……」
微笑みを含んだ優しい声で、ハキールは感慨深げに呟いた。ザナは自分でも腑に落ちない表情で頭を掻いた。
「興味っていうか……。ほら、あのヤグ氏族の襲撃を受けた時、たった一人で村に帰っていくあいつの後ろ姿を見ていたら、何だか無性に羨ましくなったんだ。どうしてそこまでできるんだ、どうしてそこまでやれるんだ、って思ったんだよ。でもあたしは、一体あいつの何が羨ましかったんだろう?だってあいつは、一生自分の小さな土地に縛りつけられ、重すぎる義務と責任にあえいでいる哀れな男にすぎないじゃないか。それに引き替え、あたしにはハキールという翼がある。どこへ行ってどんな暮らしをしようと自由だし、優しくて格好いいハキールがいつもそばにいてくれるし、すぐに大金を稼げる仕事もあるし……。アシュラフが地を這う虫だとしたら、あたしは自由な鳥だ。なんにも、あいつを羨ましがることなんてないじゃないか。なのに……。変なの。変だ、あたし」
「お前が羨ましかったのは多分……、自分の命に代えてでも守りたいものをアシュラフが持っているからだと思うよ。その守るべきものによって、アシュラフは強く守られてもいるんだ」
ザナはよく分からないように首をかしげる。ハキールは続けた。
「あの状況でたった一人村に帰ろうとするなんて、アシュラフは確かに不器用な男だよ。そして極めて愚かだ。だがそれは、計り知れないほどの器のでかさの裏返しでもあるのかもしれないな。そう考えれば、アシュラフは確かになるべくして氏族長になった男と言えるかもしれん。さすがに王の末裔なんだな、あいつは」
「ふーん……」
ザナは分かったような分からないような顔をしてじっと考え込んでいたが、眠気を感じたのか大きなあくびをした。
「あたし、そろそろ寝るよ。おやすみ、ハキール。また明日ね」
「おやすみ、ザナ」
ザナは立ち上がってハキールの電光板に口づけすると、家の中に入っていった。
ザナが自分の部屋に引っ込んでしばらくして、アシュラフが重い足取りで帰ってきた。玄関の引き戸を開けて、土間にいるハキールに気づく。
「あ……ただいま、ハキール」
「どうしたい?疲れているようだが」
「この前の襲撃で重傷を負った村人の容態が急変したので、みんなで彼の家に詰めていたのです」
アシュラフは上がり框に腰を下ろした。
「どうなった、そいつは」
「死にましたよ」
アシュラフは疲れたように言って、背中に負っていた荷物を下ろした。
「薬草や気付け薬を沢山持っていったのですが、使う間もありませんでした。弔いの準備で、明日はまた忙しくなるな」
脚絆を外す手をふと止めて、アシュラフはじっと考え込んでいたが、やがてぽつりと呟いた。
「ハキール、僕は……ザナに惹かれかけていました。好きだとも、彼女と所帯を持ちたいとも思っていました……これまでは。でも今回の襲撃の一件で、彼女はどうしても僕の手には負えないことがわかりました。彼女と生きていくのは、僕には荷が重すぎる。彼女は余りにも……違いすぎています。その感じ方も、いざというときの振る舞い方も……普通の人間とはかけ離れすぎているのです」
ハキールは少しの間沈黙し、重い口調で言った。
「それはザナを育てた俺の責任だ。あいつが悪いんじゃない。あいつを見放さないでやってくれ」
アシュラフは驚いたように少し笑った。
「見放すだなんて……。彼女は別に僕なんか必要としていませんよ。あなたさえいればザナはそれでいいんだから」
「ザナがこれから生きていく上では、お前さんの助けがどうしても必要なんだ」
ハキールは穏やかだがきっぱりと言った。
「俺はザナに、星や太陽の動きを読んで方位を知る方法だとか、食べられる植物と食べられない植物の違いとか、野宿の仕方とか、拷問に遭った際の正気の保ち方だとか、そんなことばかり教えてきた。しかしこれからは、ザナは人間社会の中で生きていくすべを学ばなくちゃいけないんだ。人と一緒に生きていく上での規範や約束事を、あいつは何一つ知らない」
アシュラフは黙って聞いている。ハキールの口調はどこか物憂げで寂しそうだった。
「あいつを頼むよ。俺がザナに与えてやれる知識には、どうしても限界があって……。人間らしい振る舞いも教えてやれなければ、女としての平凡な幸せも与えてやれない……。せめてあいつが辛そうにしているときに、頭を撫でてやれる手の一つでもあったらと、今まで何度思ったことか……」
「そんな、ハキール。そんなことを言われても、僕には何もできませんよ。だって僕は何の取り柄もない、愚かで弱い男に過ぎないのですから」
「お前さんはまだ自分の力に気づいていないだけだ」
少し笑って、ハキールは口調をあらためた。
「このままじゃいかんとは、俺も前々から思っていたさ。今回のことでそれがはっきりした。俺とザナはこの十余年というものずっと一緒で、片時も離れたことはなかったが、そろそろ距離を置いた方があいつのためにいいのかもしれないな。もうザナも一人じゃ餌も採れないような雛鳥ではないんだし、たぶんここいらが潮時なんだろう」
「彼女はあなたから離れやしませんよ。ザナはあなたに恋しているんです」
「どうかな。執着のように見えるときもたまにあるがな」
かなり現実的にハキールは言った。
「ザナが俺から離れたがらないのは、俺を手放したらあいつはもう何の能力もない、どこにでもいるただの女になってしまうからさ。俺がいるからザナは特別な存在でいられる。大して苦労もしないで結構な額の金を手に入れられるし、旧世界の大型機械の操縦者として人々から一目置かれる。だが俺がいなくなってしまったら、あいつは全てを失い、何もないところから自分で人生を立て直さなきゃいけなくなるんだ。あいつはそれを無意識のうちに恐れているんだろう。俺を必要以上に慕うのも、そのためだ」
「……」
「あいつは少しずつ変わろうとしている」
そこはかとない期待と淡い希望を滲ませて、ハキールは言った。
「お前さんに人でなしと言われたのが、自分では意識していなくともあいつにとっては相当の痛手だったんだろうな……。あいつは変わろうとしているし、実際少しずつ変わり始めている。どうかあいつに、血の通った温かい人間の心というものを教えてやってほしい。こんなことをお前さんに頼んで申し訳ないとは思うが」
「ハキール……あなた、どうしたんです?」
不意に背筋がぞっと総毛立って、アシュラフは小さく叫んだ。
「どうしたって、何が?」
ハキールは落ち着き払っている。だがアシュラフは異様な胸騒ぎを覚えた。
「何だか……いつもと様子が変です」
ハキールは呆れたように笑い飛ばした。
「何を言ってるんだ。お前さんまで、ザナみたいなことを言いやがる」
「だってハキール、まるで……まるでどこか遠くに行ってしまうかのような言い方を……」
「俺は自分一人じゃ動くこともできないんだぜ」
ハキールは悟りきったようにかすかに笑っただけだった。
アシュラフは胸を騒がす小さな予感に、もっとハキールに何らかの言葉をかけたかったが、しかし何を言ったらいいのか自分でもよく分からなかった。
翌朝、アシュラフはザナの悲鳴にも似た叫び声で目を覚ました。
「ハキール……ハキール、どうしたの?しっかりして!」
普段は冷静なザナが尋常ならざる声を上げている。アシュラフは慌てて飛び起き、寝間着に上着を引っ掛けると、急いでザナの声のする玄関に足を運んだ。
「ザナ、どうした?」
土間に顔を出すと、ザナが蒼白な顔をしてすがりついてきた。
「ああアシュラフ、ハキールはきっと病気だ!」
「病気?」
アシュラフは傍らのハキールに目をやる。昨夜と全く同じ様子で、ハキールは土間の同じ場所に位置していた。ザナは動揺し、泣き出さんばかりでハキールの車体をさすっている。
「朝から何回も呼びかけているのに、ちっとも応えないんだ!こんなの今までに一度もなかったよ!」
アシュラフは裸足のまま土間に降りて、ハキールに声をかけた。
「ハキール?……どうしたんですか?」
だがハキールは全く沈黙したまま、応えない。彼が話すときはいつも、車体前部に備え付けられた電光板に波形の光が走るのだが、それも今は夜の海のように真っ黒だった。
アシュラフはザナに向き直った。
「ハキールは時々黙り込む癖があるって、きみ前に言ってただろう。今回もそれじゃないのか?」
「違う!それとは全然違う!ハキールはどんな時でも、こんな風にあたしを無視することなんてなかったもの!」
ザナは車体をぺちぺち叩きながら必死でハキールの名を呼び続けていたが、突然振り返ってアシュラフの襟元に荒々しくつかみかかってきた。
「お前、ハキールに何か言ったのか?昨日二人で、遅くまで話していただろう!」
女とは思えない力で、アシュラフの体を前後にがくがく揺すぶってくる。ザナの灰色の目は狂気じみた猛々しい光を帯びている。怒りで逆立った髪はいつにも増して鮮やかに赤く見えた。
「言え!昨日、ハキールと何を話していたんだ!」
ザナは絞め殺さんばかりの勢いで恫喝した。アシュラフはしばらく黙ってザナを見つめていたが、静かに彼女の手を振りほどくと、襟を直しながら冷静に口を開いた。
「昨日ハキールと話していたのは事実だよ。だけどその内容を君に話すことはできない。男同士の腹を割った話し合いだ。他人に内容を話したらハキールに失礼に当たる」
「……」
ザナは力が抜けたように、へなへなとその場にくずおれた。
「ハキールが……ハキールがどこかへ行ってしまった……あたしをひとり置き去りにして……」
ザナは虚空を呆然と見つめたまま、魂が抜けたように呟いた。
ハキールはそれきりもう二度と、誰の呼びかけにも反応しなくなった。ザナがハキールに跨ってエンジンを入れてみると、エンジンは普通にかかる。村の周囲を走ってみたが、バイクの機能自体にはどこにも異常はない。ただ「ハキール」という一個の人格が、忽然と消えてしまったようだった。
しかしザナは諦めようとはしなかった。もともと打たれ強い性格なのか、少しすると彼女は気を取り直し、猛然と次の行動に取りかかった。
「ハキールは一時的に故障しただけかもしれない。この前の襲撃の時にヤグ族の男たちを何人も吹っ飛ばしたから、衝撃で釘だかネジだかが外れちゃって、道に落ちているかも……」
ザナは村の街道にしゃがんで、どこかにハキールの部品が落ちていないか一日中探して回った。村の子供達もザナと一緒になってあちこち探したが、むろん何も見つかるはずがなかった。
アシュラフは胸を痛めながら、そうしたザナの奮闘を黙って見守っていた。
あの襲撃のあとでアシュラフは心配になって、車体に異常や損傷はなかったかハキールに尋ねたのだが、「旧世界の高度科学技術の賜物が、人をはねた程度の衝撃で故障するわけがない」とアシュラフの心配を笑い飛ばしたのは、当のザナとハキール本人だ。
もし仮に車体から外れた部品が見つかったとしても、そもそも今の時代にハキールを修理できるような技術などどこにもありはしないのだが、そんなこともザナは忘れているようだった。
ハキールの魂だけが車体から抜け出ていってしまったのか……しかしアシュラフは、ハキールがどうしてもどこか遠くへ行ってしまったようには思えなかった。彼はまだここにいる。何か確信めいたものがアシュラフにはあった。
「ハキール……あなた、そこにいるんでしょう?」
家に二人きりになったとき、アシュラフは土間に座ってハキールにそっと呼びかけた。依然、ハキールは黒と銀の車体を輝かせながら、じっとそこにある。ザナはハキールの部品を捜しに村の東の街道に行っていて、留守だった。
「あなたはただ口をつぐんでいるだけで、本当はそこにいて僕たちの会話も全部聞こえているんでしょう?今後はただ一個の機械でいることに徹して、もう一切周囲の呼び声に応えないと決めたんですか?あなたはザナのために、こういう形で身をひくと決断したわけですか」
ハキールは応えない。聞こえているのかいないのかも定かではなかったが、構わずにアシュラフは続けた。
「もう永遠にそのバイクの中に隠れて、金輪際出てこないつもりなんですか?でもこれじゃザナが可哀想ですよ。別れの言葉も言わずに、置いてきぼりにするなんて……」
アシュラフは拳を強く握りしめてうなだれた。
「ずるいですよハキール、ザナの悲しんでいる声が聞こえたでしょう?そんなところに隠れられたら、僕たちはどうしたってあなたを捜し出すことはできない。二度とあなたを見つけ出すことなんかできないじゃないですか……!」
だがハキールからは何の応えもなかった。アシュラフの声は空中に吸い込まれ、誰もいない家の中にしんと静寂が広がった。
ザナはハキールを取り戻すためにあらゆる手を尽くした。物言わぬハキールに対し、ある時は下出になり、何か不満でもあるのか、自分に気に入らない点があるなら直すと必死にかき口説いてみた。またある時は、理由も言わずにだんまりを決め込むなど立派な男のやることではないと罵倒してもみた。
それでもハキールが一向に応えないとなると、ザナはついに癇癪を起こし、激高してハキールに跳び蹴りを食らわした。車体がぐらりと傾き、土間に横倒しになる。
すごい音に驚いて、書斎で書き物をしていたアシュラフが飛んできた。
ザナはハキールを無茶苦茶に蹴り飛ばし始めた。
「ハキール、てめえなに相棒を無視してやがんだ!十年以上の付き合いを、こんな形で終わらせる気か?この野郎、何とか言えっての!」
ザナのこめかみに青筋が立っていた。アシュラフはザナを後ろから羽交い締めにして押さえようとした。
「ザナ、やめろ!無茶をするな、君の方が足をくじいて怪我するぞ!」
しかしザナがどんなに乱暴狼藉を加えても、超合金のハキールの車体には当然傷一つつかなかった。
もう何をしても駄目だと分かったとき、突然堰が切れたように、ザナの中で押さえていた感情が爆発した。
「ハキールが……ハキールが壊れちゃった!」
ザナはうわああ、と子供のように大声を上げて泣き出した。それは見ていて気持ちいいほどの豪快な泣きっぷりだった。
(そうか、ザナも涙を流すのか……)
アシュラフはどこか感歎する思いで、ザナの泣くさまをぼんやりと見つめた。いま自分は滅多に見ることのできない光景を目にしているという意味での、畏敬の念すらあった。
一日中大声で泣き続けて、最後には声は嗄れて涙も涸れ果てた。ザナはそれきりぷっつりと泣くのをやめた。
彼女はそれ以後、日がな一日縁側に座ってぼんやりと庭を眺めるか、日だまりに猫のように転がってこんこんと眠り続けた。親友の突然の消滅を、彼女の精神はうまく受け止められないようだった。
真夜中、アシュラフは闇を切り裂くようなザナの悲鳴で目が覚めた。
「ぎゃあああああ!」
アシュラフは驚いてがばと寝床から飛び上がると、慌ててザナの寝室に駆け込んだ。
「ザナ!どうしたっ!」
ザナは布団の中で両目を固く閉じたまま、両手で顔を庇うようにして身悶えしていた。
「いやだああ!ごめんなさい、ごめんなさい、許して!」
夢にうなされながら、ザナは大声で叫び続けている。
「ごめんなさい!もう二度と逃げたりしないから、やめて、ぶたないでぇ!」
「ザナ!ザナ、しっかりしろ!大丈夫、ただの夢だよ!」
アシュラフはザナの肩を強く揺さぶった。ザナははっと恐ろしげに目を開けると、息を弾ませながら呆然とアシュラフの顔を見返した。額には玉のような汗がびっしり浮かんでいる。
アシュラフは彼女の瞳を真っ直ぐ見つめながら言った。
「大丈夫だよ、ザナ!研究施設での暮らしは、もう終わったんだよ。きみは完璧に安全で、いまは僕の家にいるんだよ」
「……アシュラフ……」
ザナが助けを求めるように両手を差し伸べてくる。
「ザナ」
アシュラフはザナの体を起こすようにかき抱いて、安心させるために強く抱きすくめた。ザナは抵抗せず、すがりつくように彼の背中に腕を回した。彼女の体の震えと温もりが、直にアシュラフに伝わってきた。
ザナの中には、傷ついた幼い子供がいる。ザナが施設から脱走し、ずるがしこい商人達と堂々と渡り合えるくらいに逞しく成長しても、ザナの中でその子供は泣き叫び続けてきたのだ。子供はザナの中で助けを求め、いまだ泣きやまないのだ。
(ああ、ザナ……!)
アシュラフは痛ましい思いで、ザナを抱擁する腕に力を込めた。
二人は座って抱き合ったまま、しばらくじっとしていた。
どれほど時間が経ったのか、やがてザナが彼の腕の中でわずかに身じろぎした。
「……すまん、もう大丈夫だ」
ザナはまだ小刻みに震えていたが、大分落ち着きを取り戻したようだった。全身にびっしょり汗をかき、寝巻きが体に貼り付いている。
「待ってろ。いま、水を持ってくるから」
アシュラフは台所に立っていって、水甕から柄杓で素焼きの器に水を汲むと、いそいそと持って帰ってきた。
ザナは器を受け取ると、美味そうに喉を鳴らしながら一息に飲み干した。ほっと息をつくと、少し照れたように彼女は苦笑した。
「悪かったな、大声出して……」
「いいんだよ。夜明けまでまだ間がある、もう一眠りするといい」
アシュラフはザナを横たわらせ、小さい子供にするように体の上に布団を掛けてやった。
ザナは枕に頭を乗せると、透明な眼差しでじっとアシュラフを見上げていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……昔のことを思い出すとさ、痛い思いをさせられたことそれ自体よりも、悪くもないのに何度も必死に連中に謝っていたあの頃の情けない自分自身に対して、無性に腹が立つんだよなあ……。いつもおどおどびくびくして、無力で非力だった当時の自分が情けない……。悪くもないのに謝っていたことが、いまだに悔しくてたまらないよ」
アシュラフは静かに首を振った。
「きみは無力なんかじゃないよ。誰よりも勇敢で賢くて、力に満ちた人間だ。今だってそうだし、これまでもずっとそうだった。だからこそそんな酷い目に遭いながらも、こうして今まで生き延びてこれたんじゃないか」
ザナはどこかあどけない表情で、じっとアシュラフの言葉に聴き入っている。アシュラフは押し出すように言った。
「つらい時期を堪え忍びながら、頑張ってここまで生きてきてくれて、本当にありがたく思っているよ。僕はこうしてきみに会えて、本当によかったよ……」
言いながらアシュラフはザナの頭をそっと撫で、指で髪を梳いてやった。ザナは気持ち良さそうに目を閉じた。
「きみが眠るまで、僕はずっとここにいるから」
ザナはこっくり頷くと、小さく溜息をついた。やがて彼女は穏やかな寝息を立て始めた。
(可哀想に……)
ザナの静かな寝顔を見つめながら、アシュラフはしみじみと溜息をついた。ザナが幼少の頃から受けてきた心の傷は、思っていたよりもずっと深そうだ。
アシュラフは彼女が不憫でならなかった。
いつもザナのそばにいて、彼女の心が折れそうになる度に陰から支えてきたであろうハキールも、もういなくなってしまった。
これからは自分がザナを支えてやらなければならないのだ。
ザナのために自分に何ができるだろう、何をしてやれるだろうとアシュラフは思ったが、さしあたりこうしてそばについてやることしか思いつかない。
アシュラフは己の無力さを痛感した。
「あの、さ……ザナ」
ある日の夕方、アシュラフは家の菜園でにんじんを掘り起こしながらザナに声をかけた。ザナは少し離れたところで、アシュラフに背を向けてしゃがんで、名もない草をむしっている。
「ハキールがいなくなっても、あんまり気を落とすなよ。その……いつになるかは分からないけれど、ハキールもいつか戻ってくるかもしれない。バイクは今まで通り走るんだから、今後も僕の家を拠点にして、運び屋の仕事を続けていれば……?」
ザナを気遣いつつ、アシュラフは言った。ザナが元通り元気になるまで、自分の家で面倒を見てやろうとアシュラフは思い定めていた。半病人のような彼女をこのまま放り出すわけにも行かない。
「うん……」
ザナはアシュラフに背中を向けたまま、ぼんやりとした目で力無く頷いた。
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