ランニングと犬

 俺は今、どうして走っているのだろう。


 同僚に誘われて参加したシンガポールマラソン。

 この国の事務所に配属されて2年目にしての、初参加だった。

 最初は10キロから、と思っていたのだがうまく言いくるめられてハーフマラソンにしてしまった。高校時代に陸上をやっていたと口を滑らせたのが致命的だった。


 その同僚には、2キロほど走ったところで置いて行かれてしまった。それからは周りに抜かれるばかり。こうなるなら無理して同僚について行かず、最初から自分のペースで走るべきだった。


 前半はまだよかった。街の中心部でスタートし、ラッフルズホテル、大戦の慰霊塔、マーライオン、マリーナベイ・サンズといった観光スポットの脇を走り抜けてゆく。次第に中心部から離れ、島の港湾地帯に沿って東西に伸びる幹線道路を進む。


 問題は、10キロ地点を過ぎてからだった。


 それまでは頭の中で絶えず何かしら考え事をしながら走っていたのが、急に何も頭に思い浮かばなくなった。


 無、というわけではない。足からの衝撃、苦しい呼吸、体が持つ熱、そういう感覚は感じることができる。ただ、何も考えていないと、そういったつらい感覚だけが頭の中で増幅されて、苦しみだけが強く意識されるのだ。


 何か考えなくてはと思い、いろいろなことを思い出そうとした。鉄道の駅の順番、職場の席順、家の住所、口座の暗証番号。


 しかしどれを思い出してもすぐに思考が停止してしまう。それからまたひたすら体が受け取る情報だけが頭の中に流れてくるのだ。


 走っても、走っても、進んでいるという感覚が全くない。


 かろうじて「走る」動作を続けているが、速度は歩くのと同じくらい、いや、それより遅いくらいかもしれない。


 1キロの間隔が、だんだん長くなってくるように感じた。


 歩きそうになるのを何度もこらえながら、ここまで来た。


 最後に見た距離表示は17キロだったと思う。すぐあとに、かつてのマレー鉄道の駅舎、今はもう使われていない建物の脇を通り抜けた記憶がある。再び中心部に戻りつつあるのだ。そこからだいぶ時間がたった。そろそろ18キロにさしかかってもおかしくないころだ。




 見えた。


 18キロの表示と、併設された給水ポイントがだんだん近づいてくる。あそこを過ぎれば、残り3キロと少しだ。


 ボランティアの女の人から水を受け取る。応援の言葉もかけてくれたようだが何を言っていたのかよくわからない。


 水を飲もうとしたが、走りながらだとうまく口に含むことができなくて結局頭からかぶった。


 夕刻のスタートだったので、暑さはあまり感じない。そもそも、南国だ、常夏だ、というが最近ではこの国よりも日本の真夏のほうが暑いのではないかと思ってしまう。


 それでも、体の放熱が追い付かず熱が蓄積されている。


 雨でも降ってくれると体が冷めるのだが。


 家の近所の公園でのランニング中、雨に降られたことが何回かあった。冷たい水滴を浴びながら走るのも悪くないと思った。


 一度、スコールの中で走った時は最高だった。


 巨大な水滴が、ぼたぼたと体に降りかかってくる。どんどん深くなる水たまり。靴がぬれるのもお構いなしで走り続けた。鳴り響く雷鳴にテンションが上がる。


 まあ、近くの木に雷が直撃したときはさすがにビビったが。




 雨が上がった直後も人気がなくてよい。

 人が少ない方が障害物がなくて走りやすいのだ。


 ただ、人気がないのを喜ぶ奴らは俺の他にもいたようだ。


 あの時は少し脇道にそれて、下草に覆われた林のすぐ横を走っていた。


 その道はあまり管理が行き届いていなかったとみえて、植物が張り出してきている。何度目かの植物をよけたとたん、白い犬の姿が目に入った。


 向こうもこちらに気付き、吠えながら近づいてくる。いつの間にか数が増えて、犬は4頭になっていた。すべて同じ種類の白い大型犬、リードも首輪もついていない。野犬だろうか。


 その時はもう5キロ以上走っていた時だったろうか、すでに疲れで判断力が鈍っていた。俺は、犬に向かってもろに突っ込んでいった。


 犬はさらに興奮して近づいてくる。そうか、こちらが動いているから興奮させてしまっているのかもしれないと思ってスピードを緩めたら、完全に取り囲まれた。


 その時はなんとかすきをついて猛ダッシュして逃げることができた。人生で一番速く走った瞬間だと思う。


 後日、その公園で、「野犬に注意! もし出会ってしまったら……」という看板を見つけた。ご丁寧に、下の方には「もし餌をやった場合500,000ドルの罰金または懲役」と記されている。


 その後、別の種の黒っぽい犬も見かけた。野犬だけではない。サルを見た日もあったし、体長が1m以上のオオトカゲも出た。


 都市国家のイメージが強いシンガポールだが、公園や緑地が多く野生生物の住処には事欠かないのだ。人の手が入っているとはいえ、自然は自然だ。


 まあ、人が多い晴れた日なら出くわすことはないだろうし、こうした大きな大会であれば襲われることはまずないだろう。


 ふと現実に引き戻される。今まで、考え事というか、回想をしていた。


 水を浴びて脳が復活したのか。


 相変わらず俺の体は「走る」動作をしている。


 遠くに19キロの表示が見えてきた。


 あと2キロと少しだ。






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シンガポール くるくま @curcuma_roscoeana

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