シンガポール
くるくま
白鷺
白鷺が、冬を連れて今年もやってきた。さきほどまで降っていたスコールに濡れた一面緑の野原に、2、3の白い姿が、ちらちらと踊っている。
「冬」といっても、この南国では気温が下がることも雪が降ることもない。常に暑く、湿度の高いこの国では、季節を感じることすら困難である。
しかし、いま、緑地の端の木椅子に腰かけて、野に遊ぶ白鷺を眺める男の胸には、白鷺が寒さから逃れて渡ってくる前に過ごしていた、遠い北国の今は雪に覆われているであろう景色が思い起こされるのであった。その風景とは、決まって男の故郷である日本の情景であった。
男が初めてこの国の土を踏んだのは30余年ほど前、まだ男が高校生の時であった。日本の片田舎に生まれ、ずっとそこで育ってきた男は、父親の転勤に伴ってこの国に渡り、3年間を過ごしたのだ。彼はあるインターナショナルスクールに通い、自由な雰囲気の中で多くを学んだ。
父親の任期が切れ、男は日本に帰国して大学へ進んだ。ある程度名の通った、決して悪くないその大学を卒業した後、男は故郷の、地方の企業に就職した。
その企業は待遇もよく、男も仕事にやりがいを持っていたが、男にはどうも雰囲気がなじみ難かった。男の言動に対して、周りが常に不思議そうな反応をするのだ。男と話をする際に人々はよく首を傾げ、「はてな?」というような表情を浮かべた。男は困惑し、周りに理解されようと努めたが、立ちはだかる壁は厚く、堅かった。男が高校時代に養った感性は容易に捨て去れるものではなく、周囲も最後までその感性を理解できなかったのだ。
男は5年ほど勤めた会社の職を辞し、同じ地方のほかの企業に転職したが、駄目だった。その後も男は転職を繰り返し、住む場所を変えたこともあったが、ついに故国に居場所を見つけることはできなかった。
35歳になろうという年、男は思い立って少年時代を過ごしたシンガポールへと移り住んだ。
小さな都市国家の、町の一角に古書店を開いた男は、やっと居場所を得たような心持がした。
小さな、ほんの少しの郷愁の念もあったが、それを引き起こすのは男が最初にシンガポールにくる以前、幼少時のころの記憶であって、今の日本、彼を受け入れようとしなかった国に帰ろうという気分は起こらなかった。
ある年の11月ごろ、男は散歩中に緑地で戯れる数羽の白鷺を見た。
男は、白鷺を見ながら、白鷺がこれまで渡ってきた国々を思い、遠く離れた冬の日本を思った。田んぼの広がる平野で過ごした素晴らしき幼年時代。父、母、友の顔が目に浮かんだ。
その年以来、11、12月ごろになると、緑地の木椅子に腰かけて、白鷺を眺めるのが男の習慣となった。
日本とシンガポールでは、経度が大きくずれている。シンガポールに飛来する渡り鳥が日本を経由してきたと考えるのは少し難しい。しかし、そんなことは男にとってはどうでもよいことであった。
男を慰める故郷の風景は、たしかに日本であったが、その日本はもはやどこにも存在しないのだった。
今も、こうして男は白鷺を眺めていた。
そんな男に、話しかける子どもがあった。
「おじさん、何を見てるの?」
「あの鳥、白い鳥を見ているんだよ」
「知ってる、北の方、シベリアの方から渡ってくるんだよね。博物館で教えてもらった」
「そうかい、よく覚えていたね」
「すごい距離を移動するんだなってびっくりしたんだよ」
少ししてから、白鷺のほうを見つめたまま子どもが口を開いた。
「ねえ、あの鳥たちにとっては、どこが故郷なんだろうね」
男はこの問いに、しばらく考えたあと、
「さあ、どこだろうねえ」
とだけ言った。
しばしの沈黙が流れた。
やがて、風が吹いた。
野原にできた水たまりをつついていた白鷺は、あたりを見渡すと、ぱっと羽をひろげ、すこし羽ばたいてふわりと宙に舞った。ともにあった数羽もそれに続き、暮れかけた空へ飛び去っていった。
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