青の世界

「はぁ……はぁ……クソが……はぁ……」

 塔を登る彼女は時折不穏な言葉を吐いた。

 ぼくでさえ足がおかしくなりそうなのに、弱った彼女にとっては苦行に近いのだろう。何度か背負うことを提案したが、「自分で登らないと、意味がないから」と言って彼女は拒否した。


 一体何階建てなのか検討もつかない高さの塔。時刻はもう深夜過ぎだ。分厚い雲の隙間から、申し訳程度の星がこぼれていた。半分だけ顔を覗かせているのは月だろうか。もう随分長いこと足を進めている。

 

 そして息も絶え絶えになりながら、ついに彼女とぼくは頂上にある展望台にたどり着いた。展望台といっても階段ではない広いスペースが存在するというだけのことで、望遠鏡のような設備もなければ窓ガラスさえ張られていない。


「わぁ……やった! やったわ!」

 それでもリリィは、疲れを忘れたかのように飛び跳ねて達成を喜ぶ。顔には汗が浮かんでいる。相当に堪えたらしい。

「わたし、えらいわね!?」

「うん、えらいと思う」

 言葉を強奪されたような気分だった。けれど彼女の目を細めて歯を見せるにっこりとした笑顔を見せられて、ぼくは満足する。


 この笑顔のためなら、ぼくは自分の仲間を裏切ることさえ、躊躇わなかった。

 彼女に止めを刺すべき場面で、ぼくが最後の引き金を引けなかったのも。

 最期を覚悟した彼女が、「良い生涯だったわ!」なんて映画みたいな言葉を吐いて、笑って、それでも肩が震えていて。

 ぼくがとっさに銃口の向きを変えたのも。

 全てこの笑顔のためだった。


「ねえ、一周しよう?」

 彼女はそう言いながらぼくに手を伸ばす。ぼくは少しおっかなびっくりになってしまったけれど、何とか彼女の手を取る。

 もう歩くのも辛いだろうに、彼女は踊るような足取りでぼくを連れて展望台を歩く。


「あちらには何があったっけ?」

「人類軍の基地があったね。きみ達の仲間がたった4名で占領してしまった」

「あの建物は何かしら?」

「多分、銀兵器の製造工場だよ」

「あそこ、すごい火事!」

「きみ達の力だね。暴走してしまって、止められないんだろう」

「あれは何の施設?」

「ぼくの仲間が、きみの仲間を何百人も拷問した施設だね」

「ねえ、楽しい?」

「すごく楽しいよ」

「ねえ、よかった?」

「うん。きみと旅ができてよかった」


 ぼくは倒れそうになるリリィを支えて、そっとベンチに横たえる。

 時刻はもう夜明け前。かつてブルー・モーメントと表現された、世界が青に染まる時間。

 海のような青だった。

 リリィにとても似合う時間だと思った。


 ぼくの血を吸いなよ。そう言うと、きみはふふっと軽やかに笑った。

 世界が終わる海辺で、ぼくはただきみが死ぬのを待っていた。


「あなたの血は、吸えない」

「どうして」

「どうしても、吸いたいから。それだけがわたしのたったひとつの望み」

「どうして」

「望みが叶ったら、次の望みを見つけなきゃいけない。でももう、次なんて無理。だから叶わなくていいの。叶わない望みは、きっと祈りに変わるから」

 吸血鬼の彼女は祈りを口にした。

「一度くらい祈って、死にたいの。好きな人の、幸せのための祈りを。広い世界が見える場所で」

 リリィはその日で最高の笑顔を見せた。

 でも、もう顔に生気がない。

「あなたの望みは、何?」

 ぼくの望み。ぼくの望みは、きっともう叶ってる。仲間に銃口を向けたあの時から叶い続けていた。今も叶い続けている。そしてもうすぐ、叶わなくなる。次の望み。次の望みがあるとしたらなんだろう。

「ぼくの望みは……優しくされること、かな」

 誰に、とは言えなかった。

 自分でも、どんな世界を夢想したのかはよくわからなかった。けれど、きっと世界は平和で、人間が吸血鬼を殺し尽くすこともなく、吸血鬼が人間を吸い尽くすこともなく、ぼくと彼女が一緒に笑っている、そんな風景。

「ふふ。知ってた。きっともうすぐ、わかるよ」

 彼女はすべてを知っているかのように笑った。


 世界が青から曙色に変わる頃、彼女は微笑みを浮かべたまま行ってしまった。

 最後の力が抜けた彼女は、どうしようもなく軽かった。

 ぼくは涙を流したいのに流せなかった。


 ——ガシャリ。

 奇妙な金属音に横を見ると、ぼくの腕が落ちていた。断面から機械部品と人工生体組織が見えていた。略奪者の襲撃で、撃たれていたのだろう。どうやら機能停止も近いようだ。

 ぼくはいつから勘違いしていたんだろう。

 きっと彼女の笑顔を見て、仲間を撃ったときに、アンドロイドとしての自分を捨てたのだ。そんな不合理、人間にしかできないから。


 ああ。ぼくには血なんか無いじゃないか。

 ぼくは泣いた。彼女はすべて知っていた。

 ぼくはこのうえなく優しくされていたのだ。本当に、どうしようもないくらいに。

 優しい嘘で、夢から覚めないように。


 ふたりの望みと祈りは叶えられた。

 そしてもう、次なんていらない。

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世界の終わりのブルー・モーメント 綾繁 忍 @Ayashige_X

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