ツキミソウの夏

猫月笑

ツキミソウの夏

 クーラーの風が肌寒い。キンキンに冷やされた六畳一間、あたりには漫画や雑誌が散乱している。そんな無法地帯に思えても、整った空間は顕在していた。

 ──今、俺がいる場所、自称『ラ・スぺ』。

 ライブラリスペースという意味、勉強机の周辺のことだった。自分の部屋に名前を付ける?いかしているということにしておいてほしい。汚部屋に聖域、その理由は単純明快、手元には町の図書館から借りた本があることだった。決して傷や汚れが付いてはならないのだ。

よって勉強机周辺という、俺に縁がない場所くらいはきれいに保っておく必要があった。

「にしても、すぐ読み終わったな……」

 丁度、今回借りた十冊のうち、最後の文庫本を読了した。何も、『正義感』についての本だ。……期待して損するようなきれいごとが綴られているだけの作品。本当に暇つぶしだけに他ならない。

「匡」

 けだるい声で俺の名前が呼ばれる。母さんの声だ。似たような伸びた声で返事をすると、「おつかい頼まれなさい」という灼熱へのイベントチケットを一方的に渡された。

「ま、いっか……分かったーついでに寄る」

 と、すんなり受けたのだけど。どうせ図書館に本を返しに行くし、ついでだ。

 おつかい内容をスマホのメッセージに送ってもらい、本十冊を貴重品常備の肩掛け鞄にしまい込み準備は完了だ。そこに、真夏の日差しを受ける覚悟を持っていけばなにも怖くない。

「行ってきます」 

 外に出れば天国と地獄の落差を感じる。地球温暖化は恐るべし。俺の幼い頃は30℃くらいが絶好のプール日和、アイスの格別な日だと騒いでいた気がする。今や30℃なんて当たり前、場所によっては40℃を観測する日さえあるくらいだろう。

 日本の平均気温とともに成長した俺の高校2年の夏休み。こうして町の図書館と家の往復ぐらいでだらだらと青春を浪費している。マンションの一角に差し込む光は輝いているが、俺の怠けた心を焼き払う光線に過ぎず、存在を許したくない。だからと言って初々しく、若々しい、ピッチピチの高校生なんて目指してないけどね。

 細い通路の角を曲がってエレベーターの前に出た。乗降所にはエレベーターが着いておらず。ついてない日だ。〝ついていない〟だけに。

 一℃は下がってくれたか、体を軽く摩ると一人の少女を見つけた。

 ……マンションの住人だろう。いくらでもこういった遭遇はある。

「こんにちは……」

 肩まであろう黒髪、麦わら帽子をかぶって白のワンピースを着飾る少女。背は俺と同じくらいだが後ろ姿だけで圧倒的な存在感があった。

 期待度高なるその顔を見たくて恐る恐る前に出た。

「こんにちは」

 少女もたったそれだけの応答だった。

 一瞥したその顔に見覚えはない。……というか、美少女すぎる。くっきりとした目鼻立ち、透明感のある肌、凛とした眼差しで堂々と立ち尽くす姿には、これまでの読書堕落で培われたはずのボキャブラリが機能しなかった。

「乗るのですか」

「……あ、はい」

 少女が俺をじっと見て問うと思わず間抜けな返事をかましてしまった。顔が見たいという辺鄙な理由で少女より一歩前出た俺は『▽』の呼び出しボタンを押す。少女に上下どちらに行くのか確認し忘れたことを後悔するが、服装や様子を見るにこれから出かけるのだろう。それに上階に行く場合なら、今の『三階』にいるのは違和感がある。

「ん……」

 何か言いたげに吐息を漏らすと突然、少女は俺に急接近した。

 何これ壁ドン!? 理解追い付かないよ……。

 彼女の手は壁……だけどボタンに触れていた。『▽』を二回素早く押してキャンセル機能を使う。その後『△』を押し直した。

「あの、すみません……あなたが先だったのに自分勝手で……」

 俺の早とちりだ。少女は上階の部屋に戻る最中だったのだろう。

「そうじゃなくて……今、エレベーターは一階に止まっているじゃないですか」

「え? あ、そ、そうですね」

 でも、聞いたことがある。エレベーターの呼び出しんは自分がどっちの方向に行きたいのか意志を表すものだって。下にエレベーターがあるから上に来てもらうために『△』の呼び出しボタンを押すわけではない、と。

 思考を凝らしているうちに到着を知らせるアナウンスが鳴って、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。

 沈黙の世界。

 俺が『1』のボタンを押すと、少女は無言のまま壁に寄りかかり、その様子を興味なさそうに眺めている。そこには横目に少女を捉えることさえままならなくなるほどの緊張感があった。

 高校受験当日のような鼓動は少女のはっきりした声音でかき消される。

「あなたはどうなんですか?」

「……え、ど、どうって?」

「おかしな理屈でしょう? 機械に敬意を払うようなことをしてるんですよ……」

 敬意? いや、俺はただエレベーターの呼び出し方法を知らないだけなんだと思ったが……。これ、意外と間違える人はいるらしいし……。でも、だからって「どう?」は質問になってない気がする。

「私を馬鹿で不思議で滑稽な人間だと、あなたは罵倒しないんですか? ……優しいんですね」

 それだけの世間話で、俺はそんな惨いことを言うやつだと思われているのか?

 あまりに、脆くて弱々しい尻すぼみする少女の言葉に俺は警戒心を抱いていた。

「あの、大丈夫ですか?」

 エレベーターが一階に到着した。チリンと、高い効果音とともに、扉は開かれる。俺は無意識に『開』のボタンを触れ続けていた。

「大丈夫ですよ。構ってほしかっただけなので!」

 軽い足どりで少女はエレベーターを降り、満面の笑みを振りまいて少女はその場から去っていった。するとオートロックの自動ドアを自前の華奢な体を鍵に開けては、再度こちらを振り向く。

 俺はその光景に釘付けになり、ドアの前に立ち尽くしていた。少女と不自然に開いた距離、それを意識する一瞬、俺はこの時間が何倍にも長く感じていた。

「あなたはなんだか違って見えます」

 オートロックの自動ドアは時間制限を伝えるように閉じていく。

 ──すぐに少女も踵を返しその場から立ち去っていた。

「違うってなんだよ……」


 *  *  *


 つまらない日常は簡単に過ぎていく。

 またもや図書館の棚から適当に選んだ文庫本十冊が俺の『ラ・スぺ』には積み重なっていた。いまだに寝て起きて本を手に取り、たまに雑誌や漫画を読んで怠惰に生きる日々は何も変わらず。夏休みの行動予定の一巡を果たして、今日は図書館に本を返し、また借りるつもりだった。

 しかし、

「母さん今日、学校行くけど何か注文あるー?」

「特にないわー」

 ニューイベント『学校に進路希望調査書を出しに行く』が降臨する日であった。高二ではそんなものさえ考えなくてはいけない。やりたいことが何もない俺にとって苦悩するたった一枚の紙きれ。実際、提出期限はとっくに過ぎていて、担任から恐怖の電話でお呼び出しを食らったのだ。

 久しぶりの制服に身を包み、両足を靴に入れると妙に学校に行く気がなくなる。

「……図書館へ先に行こう」

 お説教の前に本を揃えておいた方が面白い作品に出合える気がする。本十冊を抱えながら学校へ行く行為もそれはそれで苦痛がありそうだが、肉体的な疲労より精神的な疲労の方がつらいに決まっている。

「いってきます」

 容赦ない太陽光。雲一つない快晴。ミンミンゼミの騒音。

 そんな夏の風物詩には脇目も繰らず、いつもながらのエレベーターホールにやってきた。

 何気なく見渡す周囲。

 そこに少女は居なかった。

 別に期待をしたわけじゃない、けど。

「あの日、だけ……だよな」

 一階に止まったエレベーターを『△』を押して呼び出す。きっと正攻法じゃない。そんなこと分かっていた。それでもあの少女の言った言葉の意味に心を惹かれていた。

「素直なんですね」

 突然、まっすぐな声が耳を突き抜けた。芯があって、神秘的で、どこか儚げな声音。

 一週間前、確かにその声は耳に残った。すらっとしたフォルム、魅惑される瞳をもつ少女の姿がそこにはあった。

「単純、の方が正しいですか?」

「え、あぁ……」

 顎に人差し指を当てて首を傾げつつ、少女は詰め寄ってきた。慌てたふためき、すでに到着し開いていたエレベーターのドアには気づかず、個室の中に躓きながら収まる。

「学校、同じなんですね……」

 もちろんだが少女も同じ空間に入り込み、扉が閉まった。

 俺の第一声はそんなこと。

 俺が来ている制服と、目の前の女生徒用の制服は同じ学校だと確定させているのだ。

「ええ。転校してきました。二学期から同級生ですのでよろしくお願いします」

「よ、よろしく。えっ……とタメ語でいいんじゃないか?」

 同学年、しかも同じ学校の生徒同士で敬語はどこかやりづらかった。

「お構いなく。私は敬語のが慣れてしまっているので」

「そ、そうですか……じゃあ俺も」

「あなたもこれから学校でしょう?」

「はい。呼び出しを受けてちゃって……」

「ご一緒します」

 微笑む少女に心臓の鼓動が体中をこだましていた。時間を容易く操らないでほしい。まさしくほんの一瞬を長く感じている。到着を知らせるベルが鳴り、扉が開くまでのロスタイムさえどうしようもなく待てない。

「その……あなたの言っていた意味が少し分かった気がします」

 オートロックの扉を超えて外に出ても少女が隣に並んでいた。不思議そうに覗き込んでくる表情は華やかなオーラに満ち足りている。若干気圧されながらも、俺は考えを形にした。

「あなたは機械にさえ『来てください』という〝願い〟を伝える。自分が行きたい方向の意思を伝える〝命令〟ではなくて。……それがあなたの言った『敬意』の意味ですか?」

 一瞬戸惑う少女。でもすぐに、

「……ふふ。構ってくれたんですね……本当、不思議な人です」

 悪戯な笑みが、俺の体に動揺の第二波を送る。

「意味ないですよ、そんなこと……マナーで言ったら人間の意思を示すのがエレベーターを作った技術者の思惑です。私の言ってることの方が滅茶苦茶ですから……」

「俺はそればかりだとは思いませんけどね……」

 確かに、意図はそうだとしても。マナーやモラルを艦見して、一般的に考えたらおかしな話だ。それでも、少女の生物でもない何かを慕う気持ちは興味深かった。

 照り付ける太陽の元、歩道の車道側を歩く。隣を歩く少女を横目に見れると、地獄の暑さも気にしなくなっていくもので、証拠に駅前の図書館が見えてきた。まぁ、待たせるわけにもいかないだろうし、俺の用事は後回しが妥当だ。

「そういえば、名前、言ってませんでしたよね」

 赤信号で止まった時、少女は一歩俺に身を寄せてつぶやいた。

「えっと……ちょ、ちょっと待って」

 仕草にたじろいだわけじゃない。決して、少女の名前が聞きたくなかったわけでもない。

 今ではなかった。

「おばあさん? 大丈夫ですか、猛暑の中大変でしょうから持ちますよ」

「あらまぁ、ありがとね」

 近くにいたおばあさんが手提げ袋をつらそうに持っている。ちらっと見えた中身には本が詰まっていたため、目的地が同じ方面なことに間違いはない。俺の多少の我儘への同情を期待している。

 視線だけで用事が増えることを伝えたら、無言で首を縦に下ろしてくれた。

「図書館すぐそこかもですけど、お体にはお気をつけてね」

「まぁ……本当にありがとう」

 ボロボロの建物。それがこの町の図書館だ。すぐそばにはボロボロの駅舎を見据えられて、ガラクタの宝庫とまで言われているらしい。……なんだ、それ。風情あるとか、もっとどうにかしとけよ。

 受付カウンターにたどり着くと、おばあさんの持っていた本と俺の本も同時に出す。すぐに担当の人がチェックし、回収してくれた。

 おばあさんに「手提げ盗み見てすみません」と一言添えて、俺はその場から立ち去った。最後まで感謝の言葉を絶やさないおばあさんの笑顔は本当に心が和らぐわけだ。

「待たせて申し訳ないです」

「レディーファースト、自然にやってのけますね……大須賀匡くん」

 それは俺の名だった。

 気恥ずかしくなる誉め言葉よりも、少女が俺の名を知っていたことに驚いていた。

「すみません、つい〝盗み見て〟しまいました」

 少女の目線は愛用する手提げ袋の会員証。ばっちり名前が載っている。

「そういうことですか……。あなたの名前は?」

「岸本月乃と申します。月乃って呼んでください」

 深々とお辞儀をして挨拶する様子は大人っぽさを演出している。

 利用者の年齢層高め、内装が爛れてお世辞にもきれいとは言えない図書館に真新しい制服を身にまとう少女、岸本月乃さんの姿はさらに神々しかった。というより、その一点を見やることしかできなくなってしまう。

「その、つ、月乃さん。いきましょう」

「時間なら大丈夫ですよ。……だって本、選ばなくていいんですか?」

 くすりと笑う月乃さん。

「目に書いてありますよ。本読みたいんだーってね」

 くすりと笑う月乃さん。

 それってどんな目? 顔じゃないんだ と、思いつつ。

 図星をつかれ引くわけにもいかず、この上なく緊張する本選びタイムがやってきた。月乃さんは離れず隣を歩き、俺の選定をじっと見守るのだ。もちろん趣味がもろバレする。

 ここまでくまなく図書館を探索したのは初めてのことだった。

 

 *  *  *

 

「よ、余裕だから、この通り」

「心配ですよ」

 近いってば。電車スカスカだから間隔の余裕くらい持とうな、月乃さん。

 なんでも、図書館で起きたことで俺はダメージの心配をされていた。

 選定の八冊目が終わろうとしていた時くらいだ。脚立に上り、高いところの本を取ろうとしていた子供がいた。危なっかしい動きをする子供に注意の言葉をかけようとしたら、時すでに遅し、脚立がぐらりと大きく揺れる。俺の反射的な身のこなしから子供を受け止めることはできたのだが、どうも腰の調子はよろしくない。

「すごい俊敏さでしたよ。スーパーマンみたいに」

「たまたまですよ」

 ため息交じりにそう答え、遠くの案山子を眺めた。

「あなたの親切は善か偽善か、よくわかりませんよ」

 俺と同様に車窓の外を眺めるその瞳はどこかうつろだった。遠くを見やり、目的や意志がなさそうな。その様子は月乃さんに似合っていない。

「……無意識なんで分かりませんよ。自分が何を思って誰かのためになろうとしているのか」

「そうですよね……私なんかに構う時点で不思議だなって思っていましたから」

 月乃さんはシートの下を一点に見るようにうつむく。切なさ。流れる水のような神秘、しかしそれは滝のように押し寄せるいっぱいの感情で、今の月乃さんを取り巻くオーラはそんな割れ物みたいだった。

「私っていじめられていたんですよ……それでこの高校に転校してきました」

 月乃さんはなぜか表情を変えていた。

 ひたすら堪えようとしていた感情を外に吐き出したとき、笑顔を浮かべたのだ。

 流れ狂う、表情だ。景色もどんどんと在り方を変え、学校近くの都会が映し出されていた。そんなのも気にしていないのか、はたまた〝無意識〟なのか月乃さんは言い淀む。

「両親にも見放されちゃいました。面倒くさい性格で、いじめなんて受けるから。祖父母は優しく私を出迎えてくれたので気にしてはいないんですけど」

 それはない。

 もの事をはっきり言う月乃さんに限って、終わり切ったことはぶり返させないだろう。きっとどこかで悲しみを抱き続けているのだ。

 すぐには言葉が出なかった。出していいのかすらもわからなかった。曖昧にフォローしてはいけない気がした。

 それでも、〝何もできない〟は嫌だ。

「俺、月乃さんのこと守りますから……。無責任って言われても、弱々しいって罵られたとしても勝手にそうします」

 目を丸くした月乃さんは長い髪を耳に掛けなおしながら振り向いた。しかしすぐにいつもの大人の余裕めいた表情を作ってしまう。

「つい語り語り過ぎました。終わったことを……関係ない匡くんに」

 間髪入れずに月乃さんは嘆く。

「……なんだか私は夢を見ている気がします。あの〝傘〟の」

「傘……? 夢?」

 月乃さんの指さした先には置いてきぼりにされたビニール傘が立てかけられていた。

「きっと持ち主は愛着もない……見た感じは新品同様ですから。そのまま忘れられた傘は遺失物取扱所に置き去り、結果的に処分されてしまうでしょう」

 それはそうかもしれない。

 一定期間で取り扱いの期限を迎えるだろうし、持ち主が取りに来る可能性も高くないだろう。

「その危機を救ってくれるヒーローが現れる。そんな夢ですかね」

 月乃さんはまさしく傘の気持ちに成り代わっているようだった。この傘は役目なく姿をなくしていく。そこに現れる誰か。……それがまるで俺だと暗示していて。

 月乃さんの悪戯な笑みは俺を試しているみたいだった。

「……着きましたよ、月乃さん」

 地元のオンボロとは打って変った都会の風景が広がっている。ホームドアが開き、その次に電車の扉が開くと気分が落ち着かなくなってきた。学校を感じさせるのは心苦しい。けど、後ろを振り返れば、凛とした表情の月乃さんが心のよりどころに……。

「どういうおつもりです?」

 ぷくっと頬を膨らませた様子で佇んでいた。

 俺の差し伸べた手をじーと見つめて顔を赤らめているようだ。

「子ども扱いしないでください」

「なんだか月乃さんらしくない反発」

「私の何がわかるのですか」

 ご立腹みたいだ。それでも健気でかわいらしい。

 確かに俺は月乃さんのことを何も知らない。……いや、知らなくていい。

 そんなの誰も分からないから。わかった気になっている方が何倍にも傷つけることになるだろうから。


 *  *  *


月乃さんは頬を膨らませたまま、『人は百パーセントの嘘をつけないんです』と自慢げに語った。『何も、恥ずかしいとかじゃないんです。子供っぽく思われるのが癪なだけ。……でもこんなこと言うと逆に詮索されて……』と、迷走した月乃さんが付け加えた一言だ。

 焦る月乃さんの可愛らしい姿を思い出して、担任のお説教をごまかしているのが現状だった。

「聞いているのか、大須賀」

上の空な意識がばれても、担任の声のトーンは落ち着いていた。

学校へ着いたとき、適当だった進路希望書を急いで書き換えたその内容がよかったのだろう。たった一つのきっかけで人なんて大きく変わってしまう。

「お前は立派な目標を見つけた。提出が遅れたことは許してやろう」

「ありがとうございます……」

 何度目かわからない言葉にありがたく耳を傾けながら手短に荷物を拾い上げて廊下に出る。担任は俺のそそっかしい様子を見て渋い顔をのぞかせていたが咎められなかった。

「彼女のことをよろしく頼むぞ」

 事情を知っているとは言え、そんな神妙な顔だと嫁入り寸前の娘をもつ父親の姿だからやめていただきたい。

 今日、学校は適切な対応を取るために月乃さんを呼び出したらしい。

 過去を聞いて、未来のことを考える。『過去を振り返らなければ、未来の計画は立てられない』引用文のような言葉をきっかけにして俺のテストの成績云々の話はいらなかったが……。それが教師の責務だと担任から聞かされたことは覚えている。

 俺のことでも月乃さんでも、両方に向けた言葉な気がした。

 どこにいじめの原因があるのかはわからない。本人もつらい過去を思い返したくないだろう。

「早く戻らないとな……」

 それと初めて女子の連絡先をゲットした。ほんの少し前のメッセージでは『駅で待っています』と書き記されていて、その後ろにはかわいらしい猫が敬礼しているスタンプ。意図はよくわからないが、女の子らしい感じ。その女の子をよく知らないけど。

 野球部は声出しをしながらグラウンドを周回。サッカー部は見るからにきつそうなトレーニングを黙々と反復している。遠くの特別棟から聞こえる吹奏楽の合奏も、夏の学校真っただ中だと肌に感じさせる。

 青春できる高校。それがここの売りだった。

 どんな壮絶な過去だったとしても、ここの生徒は──違うから。

 部活もろくな人間関係を持たない俺でも断言できる自信があった。

 ──突然スマホが高音を立てる。

「月乃さんからの着信……」

 慣れない手つきで応答の表示に指を重ねた。

「先生の説教が終わったので向かいますよ」

『すみません、匡くん……』 

 ポツリポツリと消え入るように。そんな第一声が俺の耳に届いてきた。

 ただ、挨拶のようなものじゃない。

 明らかな切迫感を帯びた声音が俺の胸を締め付けていた。

「ど、どうしたんですか、月乃さん……」

『……私今……すみません。〝交番〟まで来ていただけませんか』

「え……」

 這い寄るような不快感が体中を巡って、熱された空気も、活気あふれる校内も、全部気にならなくなった。自分への恨みが煮えたぎる

 気づかないうちに走っていた。制服だからなんて関係ない。汗でシャツが張り付いていることなんてお構いなし。足枷でも十冊の本は大事に背負ったまま、足の駆動を止めることはなかった。

「何があったんだよ……」

 警察に関わるようなことが起きたことに間違いはない。

 問題は何がどうしてそうなったかだ。

 ひとまず警察にいることは月乃さんの身の安心できる。

 もしかしたら両親やいじめをしてきた相手と運悪く鉢合わせて、恐怖から警察を頼ったのか。

 はたまた、実害在りの事件なのか。

 後者には震えが起きる。

 駅舎までは徒歩十五分。全速力なら五分だろうか、今は折り返しを超えたあたりだろう。

 激しく胸骨が圧迫されるような苦しさがあっても、無視して突き進んだ。

 駅前まで何とかやってくると、募金活動をする集団が目に入った。緑色のベストを着こみ、目立つような呼びかけの声が響いても、無造作に通り過ぎていく人たちばかり。俺たちが駅を出たときにもいた人と同じ集団だった。

 そのメインストリートを超えて、正面口までやってきた。その脇にぽつりと佇む小さな建物がこの町の安全を守る交番だ。

 交番に立ち入ることなんて慣れているはずはない。

 でも、月乃さんへの心配の方が圧倒的に強かった。

「あの! 月乃さん! な、なにが……」

 へたり込んでしまった。コンクリで日光が跳ね返され嫌というほど熱気のこもった道路をわが無で走り抜け、信号で止まるくらいの休憩では功をなさず、へにゃちょこの足には負荷が大きかった。そのまま足がもつれるような形でダウンする。

「か、彼氏さん?」

「え……? いやその……」

 想像とは裏腹に若い女性の警官が俺を驚いた目で見降ろしていた。警官とは屈強な男性というのは偏見なようだ。俺は太陽に焼けた体をやっとの思いで起こして、あたりを一周見まわす。

 パイプ椅子に腰かけて項垂れた美少女。

 見てすぐに誰だかわかる長い髪。鮮やかな虹彩。

「月乃さん!」

 大声を出しても、月乃さんは応じなかった。じっと口を噤み、視線を落として様子は変わらない。それを見ていた女性警官は俺の肩を取って『事情をお教えします』と口にした。


 *  *  *


「……ありがとうございました」

 長らく詳細な事情を教えてくれた女性警官に一礼する。

 ──いじめの主犯格集団がたまたま駅に現れた。

 相手は月乃さんに気づいていなかったという。

 月乃さんは自分からその集団に声をかけようとした。

 だけど、急に恐怖で足をすくませた。うずくまってしまった。震えが止まらなくなった。

 一部始終を見た女性警察官が月乃さんを保護したとそう、説明された。

「…………」

 月乃さんは依然として無言だ。

 ……分かりたい。岸本月乃の感情を。

 一人の少女の反抗心を。

 己に対しての憎悪、憎しみを。

 俺は大きく手を振りかぶった。怒りをぶつけて、分かってほしかったから。

 刹那に女性警察官の割って入るような声が聞こえる。

 月乃さんも驚いて、身を竦めている。

 さほど気にならなかった。

 全部を込めて、頬に。

 俺の腐れ切った性根を叩き直すために、大きく振りかぶった右手を自らの頬に打ち付けた。

「びっくりさせないで下さい」

 女性警察官の忠告も夏の虫ほどの音だった。

 俺は月乃さんのことしか考えられない。どんな思いなのか。今、ずっと何かをこらえるような表情をし続ける月乃さんは何を考えているのか。……簡単に理解しちゃいけない。無責任に俺の意見は押し付けられない。だからって、放置しておくわけにはいかなかった。

「帰りましょう、月乃さん」

 叩いた代償で赤くなった右手をパイプ椅子で項垂れる月乃さんに伸ばす。またも子供扱いしないで下さい、と軽く払いのけられてしまうかもしれない。そんな記憶が脳裏をよぎるが意外に月乃さんはすんなりとその手を取ってくれた。

 再度お辞儀を女性警察官にして、真夏の外へと身を晒す。

 すでに太陽は傾き始め、朱色に染め上げられた空があたりを色濃く塗りつぶしていた。東の空には大きな雲が発達している。確かに雨に降られてしまうかもしれない。駅に入っても、交わされる会話はなかった。どうでもいい知識話もそこには生まれなかった。

 駅構内の冷房はかなり効きがよく、火照った体の修復に力を貸す。ホームに降り立ってもままないうちに電車はやってきて、体はすでに平常運転だ。

 流れる風景。田舎に変わる車窓を見つめても、時間の流れはやけに遅かった。

 ふと、つないだ手に注目する。今でも、その手は申し訳程度に重なっていた。月乃さんはそれを特に気にする様子はない。

 白く伸びた指、ふくよかな手のひら。俺の方が明らかに大きいのに、月乃さんの手には包容力がある。時間がある程度経ったことで、俺が羞恥の渦に動揺が隠せずにいたことも事実だった。

 いくら停車する駅を次々に見送っても、月乃さんの表情は変わらない。

 真紅の空を覆いかぶさる雲が嫌に暗くなっても、月乃さんを照らす光は相変わらず薄暗い。

 俺が話しかけていいのか。

 なお、手が震え続けていた月乃さんに俺は何が言えるんだ。

 無責任だ。

 何が守る、だ? 大丈夫です、だ?

 ただの自己満足、俺が悦に浸りたかっただけの作り話なんだ。所詮俺はそこまでなんだよ。分かっていられない。百パーセントの嘘だった。嘘にまみれて、本質なんて見失った堕落人間に正しい選択なんてできるはずもなかった。

「……っ」

 言葉をかみ殺して、慰める言葉も、至極真っ当なきれいごとも、全部をしまい込む。本当に、百パーセントの嘘つきだ。俺は月乃さんが存在しないといった百パーセントの嘘をつくペテン師だ。

 電車が鈍い音を立てて停止した時だ。見覚えある光景、風情があると言ってほしいぼろ駅舎。

 いつの間にか、ついていたんだこの町に。

 月乃さんの指が俺の指に絡まってきた。とっさに身を引きそうになったが、その気力は一瞬でなくなる。

「惑わせました、私は一人の無垢な少年を」

 ホームに降り立つ美少女。

 振り返り、微笑みかける大人びた表情の天使が俺をその場に張り付ける。

「月乃さんはさ……」

 俺が間に入ろうとしても月乃さんはそれを許さなかった。無言で、すたすたと、一度は絡めた手を外しては数歩先を歩いていく。俺も早歩きで追い付こうとする。

 改札を抜けて、塗装のはがれたアンティークな街並みに顔を出し、街道をゆく人はまばらで閑散とした住宅地を進む。

 月乃さんのこの状況に俺はいてもたってもいられなくなっていた。

「月乃さん! 無理してますよね……はじめっから」

出会った時から、月乃さんはぎこちなかった。悪く言うわけではないけどどこか変に思えた。それが違和感を生んでいたのも今となって意識した。

「そんなの……」

何かを言いかけてまたも、ぎゅっと口を閉じる月乃さん。隣を歩くその姿は今日の朝に比べ堂々とした強さは無くて、だからそれは虚構に満ちた姿だったことも実感した。

空を見上げると雲行きが怪しいことが分かる。というか、一滴のしずくがすでに脳天に落下してきていた。

ふいに傘が差しだされた。一本の花柄の折り畳み傘。月乃さんが侘しい目つきで語るような感じ、俺が持てと言うことなのだろう。確かに俺は自分の傘を持っていない。

「やっぱり変です……不思議なんです匡くんは……」

 ビニルを打つ小雨のように小さく、月乃さんは口を開いた。

「なんで、ですか……なんで」

 声音が鮮明に変わった。

 それでも変わらず今にも灯が消えそうなそんな声だった。

「私のことを、優先するんですか……」

 悲痛な叫びのように、だけどそのボリュームは小さかった。

 雨脚が強まる中で、月乃さんのその声は明瞭な状態で耳まで運ばれる。しぶきをあげて地面を侵食し、水溜りを形成していく背景と同調していた。

「やっぱり匡くんは偽善者です……」

 咎めるような口調でも、いやにならない。とげがなかった。最後まで感情を押し殺して、こぼれ出る独り言のようだった。

「そうです。俺は偽善者です……何も守るなんて偉そうだった」

 一度傷ついたものを取り戻すのは簡単じゃない。

 傘を手向ける。もともと月乃さんのものだ。俺だけが濡れる分には問題ない。

「匡くんは完璧なんです。それはもうどうしてかわからないくらいに……くだらない話題に付き合ってくれて、おばあちゃん思いで、子供思いで、それに物だって大事にする。私個人の過去にさえ真剣に向き合おうとしてくれた。…………それに」

 肩が水没しようが、一回も目をそらさない。

「募金活動していた人たちにも小銭全額を募金していましたよね……。匡くんは何食わぬ顔で……直前に私が変なこと言ったのに……今も、『偽善』だなんて言っているのに。……なんで冷静に信念を貫けるんですか……。どうして私をどうしようもない人だと見放さないんですか! どうして……」

 月乃さんが珍しく声を荒げた。

 いや、珍しいなんて違う。これが月乃さんの本当の姿であってほしかった。

 最後の方は弱々しい吐息だけで、今にも消えていってしまうようだった。

 あぁ、やっぱり人のことなんて分からないんだって。

 もう大雨だ。完全に傘を預けると俺は傘の外に立って月乃さんの方を見据えた。

「……そもそも、善とか偽善とかってその人が決めることじゃないですからね。まぁ……少しでも誰かのためになっているんだったら、見返りを求めていても、独りよがりになっていても、結果的に何かを変えられていれば……どんな印象でもいい。悪いレッテルを張られても関係ないでしょ」

 俺は思わず苦笑がこぼれる。

「とか、評論家気取りの俺が一番偽善者ぽく見られますけど」

 これは一番の逃げだ。

 どんなに善だと称賛されようが、偽善だと疑われようが信用を中間あたりでキープできる。何なら、気取り過ぎだし良いように思われようと必死にもがいているだけだった。

「ま、百パーセントの嘘はつけません。だから少しは本当のことだと思ってくれればうれしいです」

 透明な雨のカーテンのはざま。月乃さんの口元が見えた。

 少しだけ口端が上がっているような感じだった。

「ズルいですよ、匡くんは。本当、清々しいほどにずる賢いかも」

 もうずぶ濡れの俺を傘に入れようと月乃さんが迫ってきた。身が擦れ合いそうな距離だった。

「でもね……そんな匡くんが一番頼りになるよ」

 大粒の雨が滴ろうとしている。

 頬をつたって足に落ちるそんな雨粒。煌めいた瞳から崩れるような水。

 人は百パーセントの嘘をつけない。もちろん、百パーセントの本当だってないんだ。だって、ウイルスを百パーセント死滅できる薬なんてあったら逆に信じないだろう? 人間の言動に百パーセントを求める方が間違っている。

 曖昧な方がよっぽどいい。絶対の信頼と安心なんてない方がましだ。

 それでも、少しでもいい方に居たいって思いがその人を本気にする。

 だからあの時思い切って目指したい職を決めた。

 正義感あふれる警察官に、少しでもいい大人になってみたい。

「匡くん。これ、おもいです」

 差し出された〝思い〟は体を拭くためのハンカチ……とかではなく。

 濡れないように月乃さんにとっさに渡した十冊の本が入った手提げだった。

 これは確かに〝重い〟。

 締まらないダサさから水溜りに反射する俺の顔は真っ赤だった。

「ほんと、不思議な方ですね、匡くん」

 俺はびしょびしょに濡れているというのに、月乃さんは肩に腕をひっかけるように抱き着いてきた。満開の笑顔で、それに十冊の本は濡れないように気遣いながら。

                                      了


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ツキミソウの夏 猫月笑 @keraneko_sho

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