第2話 臓器
ヒカリは流星群を見られなかったのは自分の目論見の浅さだったと痛感していた。雲間の所々の虫食いのような暗い空に、星々の踊る瞬きが見られると思ったのだ。未唯は最初から懐疑的だったが、ヒカリは夜中の三時に無理に説得して、近くの公園に行った。結果、降り出した雨に濡れた未唯は風邪をひいて今日は学校を休んでいる。エクセルの授業の間、ヒカリはぼんやりとまだ眠っているかのような春のぼやけた風景を窓から眺めていた。ヒカリは思った。どうして、俺はヒカリが寝込んでいるのにこうやっていつも通りたいくつな授業を受けるために一生懸命に電車に乗って来たのだろう。
東京の郊外の名も無い大学の事を親戚に説明するのはいつも骨が折れた。ああ、あのテレビで有名な学者がいる学校ですね、などとは決して返ってこなかった。特に有名な学部があるわけでもない。歴史が長いわけでもない。ただ、何となく存在しているような忘れ去られた寺のような特に人の関心を引かない学校だった。
未唯に対する心配と春のぼやけたまどろみの中で心がここにあらずのヒカリは、隣の席で生徒たちが昨日の流星群について話しているのを聞いていた。どうやら、その生徒も星を見に行ったらしい。なんだ、俺たちだけじゃなかったんだなとヒカリは思った。自分と同じように泣き出しそうな曇り空に流星を見に行った人間の顔をヒカリは想像した。きっと、目だけがやたらに透き通って、輪郭は誰とでもすげかえられそうなくらいに凡庸で、流行りの髪型をしている男に違いないとヒカリは予想した。チラリと横目でヒカリは小声で流星の話をする生徒の顔を見た。生徒の目は魚みたいに丸く黒目が大きく、顔の輪郭はとがっていて、さっぱりとした時代遅れのスポーツ刈りみたいな髪型だった。ヒカリは、なんだ、と思うと、パソコンの画面に目を移したきり外界と交渉するのをやめた。
朝の十時。窓は昨日閉めたきり開けてない。窓は起きている時にしか開けない。マンションの三階だからといって侵入者がいないわけでもないだろう。実際、高層階のマンションでもベランダ側から侵入された例がある。犯人は屋上から侵入したと言うのだ。カーテンも閉めていた。それでも精神は健康なのだからそれで良かった。未唯は薄明かりの部屋でベッドに入ってそんな事を考えていた。
調子はまあまあだった。スマホにヘッドフォンを繋いで音楽を聴いていた。スマホは魔法の箱だった。以前に持っていた大量のCDはみんな中古屋に売ってしまった。今頃は日本各地に自分のCDは旅立って行って、プラスチックのケースについた私の手垢も誰かの家に落ちるのだ、と未唯は思った。未唯はピンクフロイドを聴いていた。風邪の日にピンクフロイドのアルバム「狂気」を聞くのも中々人のやる事じゃないなと思った。でも、たいした優越感は感じられなかった。
未唯は右の手を天井に向けると、指をひらひらと動かしてみた。白い手の甲に青白い血管が透けて見えた。こういうものを見ると未唯は「器官」という言葉を思い出す。鏡で目を見るとその精巧で美しい器官に驚く。機能的にすぐれている
だけでなく、造形としても美しいのだ。未唯は自分の胸に手を当てた。均等の間隔で脈を打ち続けている、これが止まる時は私は死ぬのだな、と未唯は不思議に思った。そう思うと未唯は自分の中心がこの手のひらに収まる器官だと感じられた。体にくまなく流れる血液がこの器官を通った。厚い膜を持った、柔軟な、肉塊としての器官。未唯はずっと胸に手をあてていた。すると、すっかり風邪の事を忘れてしまった。
ベッドから出ると未唯は洗面所に行って顔を洗った。目の下には大きな隈が出来ていたが、気分はすっかり元どおりだった。昨日、磨き忘れた歯を丹念に歯ブラシでこすると、未唯は歯という器官の事も意識した。これは骨だ。むき出しの骨。体の中で肉の外に剥き出している骨は歯だけだ。そう思いながら、未唯は磨き上げたエナメル質の光る歯を鏡に向かって剥き出した。未唯は歯の内部を走る血管と神経の事を思った。こういう色々な器官が今の自分を生かしている。だから、私の精神は今日も安定しているのだ、と未唯は思った。
洗面所を出るとキッチンに向かってコップの半分くらいに牛乳を注いだ。注ぐ途中で牛乳の飛沫が手に飛んだ。濃厚な白。自分の手の白さとは異質な色。白にも色々な白がある。未唯が好むのは血管が透けそうな白だ。牛乳の白さは何もかもを覆い隠してしまう白さだから、未唯はあまり好きじゃない。そういう白さは黒と同じだった。世間は表向きは綺麗な事を言って、自らの暗部を偽善の白さで隠すような気がした。まるで、修正液の白さみたい。と、未唯は一人呟いた。
テーブルの脇の椅子に腰掛けると未唯はSNSを開いた。大した情報はない。未唯のフォロワーは誰もいない。未唯はアカウントに鍵をかけて自分の好きなフォロワーの情報を一方的に見ているだけだった。SNSの使い方は人それぞれだ。
誰からもフォローされていないアカウントだったが、未唯はそこに詩を載せていた。毎日、必ずひとつだけ詩を載せた。誰も見ていないわけだから、自己満足の為の詩作だった。未唯は目を軽く上に向けると、イメージを手繰り寄せるように両手を空中で再びヒラヒラさせた。そして、一気にこんな詩を書いた。
真夜中の月、とても近くて、私の惑星も君の近くなんだね。
君たちが産卵するとき、銀河は媒介のように、それらを運ぶよ。
万遍なく宇宙に届いたら、あとは唯の凡庸になるだけ。
世界には、私の君の二人きり。
流星は白い修正液の向こう側で、虹の尾を引いて時空を超えて行く。
投稿ボタンを押すと未唯は、ふーっと、深い溜息をついた。これから何をしよう。何か、今日やるべき事はすべてやってしまったような気持ちになった。静かな部屋で耳を澄ましていると、先ほど指で感じた心臓の脈が聞こえてくるような気がして、未唯はしばらく椅子に座って目を閉じていた。
コーヒーカップにとけた星 ぽんの @popopokokoko
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