コーヒーカップにとけた星

ぽんの

第1話 反転無重力続き

 未唯は摘んだティッシュを放物線を鮮やかに描いてゴミ箱へと放った。ティッシュの中にはさっき潰したあいつが入っていた。午前一時、SNSを映すノートパソコンの画面は明るくLEDの発する閃光が私の目を焼いてるんだなとぼんやり考えていた。瞬きを三回すると未唯は部屋の中に目を移した。白を基調とした部屋は過度に綺麗に片付いていて生活感がまるでなかった。もう、いいや。そう呟くと未唯はノートパソコンを閉じた。未唯は机のスペースを空ける為にノートパソコンをどかそうと持ち上げた。三時間続けて稼働していたパソコンは熱と唸りを上げていた。

「熱っ、もうこのパソコンも寿命かもれない。人も虫もみんな死ぬんだゴミ箱行きなんだ」

 心の中に微かな心地よい痛みが起こった。未唯はこの痛みが好きだった。負の感情ほど未唯には心地よかったし、それが自分の領分だと思って、丁寧にデコレーションされた小箱に自分が入っているように感じた。他の人はどうだろう、自分のように思っているのかな?時々、未唯は自分の世界について疑問に思った。この世界が唯一不変の世界のような気がする。でも、そんなわけない。

 未唯が友達に自分が小箱に入っている人形のようだという話をしたら、「私はそんなに悲観的じゃないから」と言われた。小学校五年生の時だった。未唯は自分がその頃ぼんやりと生きていた事をよく思い出すが、友達のその一言は鮮烈なハンマーの一撃として未唯の神経に刻まれていた。そうか、この世には私とは違うものの感じ方の人間がいて、それも一人や二人じゃなくて、何人もいてそれぞれ自分の好きなようにこの世界を捉えて生きてるんだ、と未唯は確信した。それからというもの、未唯は人間の観察を始めた。

 仲が良いレイちゃんはこの世界を肯定的に見てる。将来は外交官になって英語もペラペラになって、結婚して幸せになると言ってたから。先生もきっとこの世界を肯定的に見てる、だって、正しい事をしろとか、嘘をつくなとか、努力したものは報われるとか、この世からは必ず見返りがくるって教えてくるから。

 でも、なんだか、私のお兄ちゃんは違うみたいだ。私より十歳年上で、大学まで進学したけど、もうこの世で学ぶことなんてない、どんなに真面目に働いたって無駄だ、社会の歯車になるだけだし、人生なんて先が見えてる、それなら俺は自分の好きな事だけするんだ。そういってお兄ちゃんは、自分の部屋に鍵をかけてみんなのいる居間に来なくなってしまった。

 そこまで考えて、未唯はさて自分はどちら側の人間だろうかと頭を捻った。レイちゃんや先生のようにこの世界を明るく肯定なんて出来ないな。かといって、お兄ちゃんとも違う。お兄ちゃんは、世界を否定してるようで、引き篭もる為の理由としてこの世界を肯定してる。つまり、この世界はレイちゃんや先生達のような人間が居心地が良いように作られてるっていう話だ。

 未唯はレイちゃんや先生達が少しずるいと思った。なんて、社会に順応した人たちだろう。生まれながらの幸福度の差を見せつけられてるようだった。未唯はスタートダッシュで足をつまずいて転んだ。起き上がろうとすると、遥か彼方に二人の走ってる姿が見えた。だが、未唯は自分も起き上がろうと思わなかった。もう、いいや。SNSを閉じた時と同じ事を言ってそれ以上二人を追う事しなかった。でも、それで何がいけないのだろう。未唯は自分が生まれながらにして多様性の議論の中に放り投げられているのを感じた。めんどくさいな自分。あの二人はあんなにシンプルに生きてるのに。悔しくはなかった。ただ、二人が遠く走り去っていくのを見ているという視点が嫌だった。なぜ、私は自分を敗者みたいに捉えるのだろうか、と未唯は思った。

 机の上に描きかけの絵を置いた。そこには少年の絵が描いてあった。少年は自分の洋服をたくし上げて胸部を見せていた。その胸部に肉はなくあるのは剥き出された白骨だった。白骨の下には薄ピンクの心臓が見えた。未唯は白い骨に慎重に絵筆でホワイトを入れた。さらに美しくなるように、さらに無残にさらけ出されるように、さらに赤裸々に美しさの一点に絵が向かうように。

 その時、机の上のスマートフォンが低く振動し始めた。スマホのバイブレーションを見るたびに未唯はスマホの内部の繊細な部品達がダメージを受けているのじゃないかと心配した。画面を見るとヒカリからの電話だった。未唯は指をスライドさせて電話に出た。

「あ、ごめん未唯。今から家に行っても良い?学校の課題で聞きたい事があるんだ」

 午前一時、電話ですら非常識な時間に、学校の課題?未唯はヒカリが自分に会いたがってるんだと思った。ヒカリはウサギのように寂しがり屋だ。時々、ほっておくと本当に死んでしまうのではないかと、未唯は思った。未唯がまったく意識していないのに、ヒカリは自分が遠ざけられてると繊細な想像力をマイナスの方に稼働させる時がよくあった。今回も、きっと何か私に対しての何か心配事があるのだろう、と未唯は思った。

「そう。まだ起きてるから来ても良いよ。ちょうど夜食の鍋焼きうどん作るところだから一緒に食べる?」

 未唯はスマホ片手に冷蔵庫の中のうどんの玉を見ながら言った。材料はあった。自分の料理の腕前も中々のものだと自負がある。きっと、ヒカリも喜ぶだろう。最近は、そんな事まで思えるようになった。一人の時は自分の欲に集中するのが大事で生活の事は二の次だった。未唯はヒカリを安心させようと柔らかいトーンで喋った。その声を聞いたヒカリは、

「え、マジで?俺腹減ってたんだ。待ってて、急いで行くから」

 と、宝くじにでも当選したような声で喋った。

 別に待ち焦がれているわけではないんだけれど、と未唯は一瞬思ったが、こういう自分の自然さが、ヒカリを不安にさせるのだろうと感じた。未唯はなんとなく自分の描いている絵もヒカリを不安にさせるような気がして、画材屋で貰った袋にキャンバスを入れるとクローゼットを開けて、掛け布団と敷布団の間に絵を突っ込んだ。クローゼットを閉じてから、未唯は絵の具の匂いが布団に付かないかとぼんやり心配しながら鍋焼きうどんの準備に取り掛かった。

 ヒカリは未唯の住んでいる一人暮らし用のマンションからバイクで十五分のアパートに住んでいた。しょっちゅうゴキブリが出る物件で、ヒカリは一階に住んでいたので梅雨から夏にかけては特にゴキブリが出た。未唯はゴキブリなんてなんて事なかったが、ヒカリはゴキブリを見ると世界の終わりのような顔になった。そんな神経でよくあのアパートに住めるものだと未唯は思う。さっき、つぶしてゴミ箱に捨てたゴキブリの事は黙っていようと未唯は決めた。

 料理をしていると何だか生産的な事をしているようで、負の感情とは違う感情が湧き起こるのを未唯は感じた。自分も子供の頃から変化してるのだろうかと未唯は感じた。

 しばらくして、インターフォンを鳴らす音が響いた。未唯が出るとヒカリはまるで、最初のデートのような気の利かせ方だったので、未唯はそんなにする事ないのにと少し呆れたが、心の中に湧き上がる感情は確かなものだった。未唯はヒカリの気遣いに答えるようにして、明るくヒカリを家に迎え入れた。

 私とヒカリは住む世界が違う、お互いに気を遣いあって、私たちの間の溝を何とか埋めようとしている。でも、それは果たして自分らしい生き方なのかな?未唯はヒカリと鍋焼きうどんを食べながら、沸き起こる泉のような想念をゆっくり噛み締めていた。

 



















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