山梔子の秘密
――それからも毎夜、憑き物の彼女は姿を現し続けた。
おかげで時雨さんは安らぐ暇もないのか、一週間も経つころにはすっかり憔悴しきっていた。
(しなびちゃってるなあ……)
疲労が蓄積されまくっているらしい彼がふらふらと机に項垂れるのを、私はテーブルの反対側から見守る。。
時刻はまだ午後三時。おやつ時だけど、三か月連勤、徹夜明けのブラック企業勤めのサラリーマンのような悲壮感を漂わせていた。
「どうぞ」
私はすっとおやつの差し出す。
ヨーグルトゼリーとリンゴゼリーが二層になったゼリーだ。冷蔵庫から取り出したばかりのそれは呑気にぷるんと揺れた。
「おやつ、今日はゼリーにしました。さっぱりしているので、胃にも優しいんじゃないかと思うんですが……」
時雨さんは今にも消え入りそうな声で「ありがとうございます」と呟く。
もとからどことなく儚い雰囲気を持っていた人だけれども、疲れ切った今はなおさらだ。このままさらさらと砂になって消えてしまいそうで、私は心配になった。
「あの……、差し支えなかったら教えてくれませんか。憑き物の女の人について……、なにか進展あったかどうか」
「なにもありませんよ、まったくね」
それでも、姿を見せなくなったわけではなく。時雨さんと彼女は毎晩対峙し続けているのだろう。彼の顔と、毎夜家中に響く轟音がそれを示している。
――他方、私としずくちゃんもまた変わらぬ関係を保ち続けている。
時雨さんとは初めて会った日よりもずっと打ち解けられている気がするけれど、やはり人間関係というものは難しい。
状況が好転することを祈りながら、私はさらに問いかけを重ねた。
「憑き物って、もしも落とせなかったらどうするんですか?」
「もうその着物は使い物にはなりません。強い想いの残ったものは、新しい持ち主に影響を与えてしまうことがあるので。簡単に言うと、手に入れてから不運に見舞われたり、人が変わったようになったりするんです」
まるで夏場のホラー番組のような展開だ。だけど、それだけありきたりな話なのかもしれない。
「そうなったら……、もう売れないですね」
「ええ。ですから、焼いて処分するしかないんですが。まったく、しずくにも困ったものですよ。勉強をしたいというから買いつけに行かせれば、とんだ代物を掴まされて……」
損失計上が――経費が――と時雨さんはぼやく。
だけど、私はこれまで聞いていなかった新情報に息を飲んだ。
「燃やしてしまうんですか? あの着物、あんなに綺麗なのに?」
それに、ただの着物ではない。なにか思い残したことのある女性の念が残っている。
「……僕は当初からそのつもりで動いていますよ。ですが、幸村のやつ、バイトが忙しいとかなんとか言ってなかなか捕まらなくて困っているんです。知っているんですよ、あいつは憑き物に同情して、のらりくらりと依頼を躱そうとしているんだってね」
幸村さんの気持ちはわかる。私の瞼の裏に浮かぶのは、先日見たあの女性の涙だったから。
時雨さんは今すぐにでも焼いてしまいたいようだけど。このまま消してしまうのはどうにも忍びなくて、それでも私にできることもなくて。結局、口ごもることしかできなかった。
「……寿葉さんが声をかければあいつも飛んでくるでしょうが。貴女もあれには同情しているようですし」
時雨さんは静かにゼリーを食べ進めている。
黙々とスプーンを口に運ぶ彼の瞳に宿る感情の色は、私には読み解くことができなかった。だから、私は問いを重ねる。
「あの人は、なにを伝えたいんでしょう」
それがわかれば、なにか手を打てるかもしれない。
そう考えた私を、時雨さんは見た。
「あくまで僕の推測ですが、あれは妾の念ですよ」
「妾?」
それは昔、正妻の他に男性が囲っていた女性の総称だ。
今ではもうすっかりそんな文化もなくなって、強行しようものなら不倫だと裁判沙汰になってしまう。それでも、明治時代や大正時代には存外珍しいことでもなかったらしく、話にはよく聞く。
「どうしてそう思ったんですか?」
「彼女がなにも言わず、立ち尽くしたままだからです。字に書いたとおり、自らの立場を理解して表しているのでは? あれは死してなお、己の役割に縛られているんです」
妾とは、立つ女と書く。
「あの着物は山梔子の柄だったでしょう。無論、山梔子が悪いとは言いません。憑き物さえついていなければね」
「と、言いますと……」
「読み方ですよ。死人に口なしとは言いますが、「口なし」とは他にも嫁入りの口なしとも言うんです。あの着物は山梔子にかけた言葉遊びだったのだと思いますよ。彼女が妾なのだとしたら、推測するに、あの着物は正妻か姑あたりに贈られた品ですね。着物の質はいいが、贈り主の想いが透けて見える。……いい気分にはならない品です。僕なら絶対に手を出さない類の着物です」
「嫁入りのくちなしってことは……」
私は先日、陰のあるまなざしを着物に向けていた時雨さんの横顔を思い出した。
「つまり、おまえはうちに嫁として迎えない。あるいは妾を蔑む、そういう意図を込められたものでしょうね」
「そ、そんなのひどすぎます!」
「そうですね。ですが、けっして珍しい話じゃありませんよ。それぞれ事情は異なれど、色恋沙汰には愛憎劇がつきまとうものです」
時雨さんは淡々と言った。
それでも、私はまだ納得ができなかった。亡くなってからも、なにも言えないほどの戒めに彼女は捕らわれている。そんなのは、あんまりだ。
しかも、このままでは燃やされて処分されてしまうかもしれない。
それを決めるのは時雨さんだけど、私はいてもたってもいられなくなって尋ねた。
「なんとかできないんでしょうか?」
「……僕には、わかりませんよ。貴女という女性がなにを考えているのか」
窓からさらさらと西日が差し込んで、薄いレースのカーテンの影が床に落ちる。
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