憑き物との邂逅

(今日の仕事はこれでおしまい)


 日が沈み、心地よいまどろみが支配する夜が来る。

 洗い物も済ませ、翌日の朝ご飯の仕込みが終われば私もフリーの時間だ。


 時雨さんは作業場で仕事の続きをするらしい。夕食後、和室に引っ込んでしまった。しずくちゃんは遊びに行ったまま、まだ帰ってこない。


 彼女が帰ってくるまで話題の映画でも見て過ごそう。私はそう決めて、部屋で寝転がってスマホを眺めていた。そこへ、階下の作業台から響いてきたのはちゃぶ台でも放り投げたような轟音だ。


 もうおわかり、憑き物が出た時の合図だ。


 今夜も現れた憑き物は、時雨さんの肝胆を寒からしめているらしい。


 久しぶりの出来事とはいえ、さすがにそろそろこの状況にも慣れてきた。――なにせ紗枝ちゃんのおじいさんの憑き物とさんざん遭遇していたので――私はスマホを置いて作業場に向かう。


「時雨さん、大丈夫ですか? 開けますよ」

「……………………お好きなように」


 許可を得て、そっと襖を開く。


 初めに目に飛び込んできたのは、室内の惨状だ。作業場の畳の上には、ひっくり返った裁縫箱の中身のはさみや針山が散らばっている。


 時雨さんは比較的、物の少ない部屋の壁際で布団にぐるぐる巻きになって隠れていた。足も頭もすっぽり布団にくるまっている。典型的なニホンジンミノムシ状態だ。


 向かい側の壁には、えもんかけにさげられた着物が一着。山梔子の花が咲く、例の袷である。その傍らには同じ柄の着物をまとう見知らぬ女性がたたずんでいた。怖いと感じるより先に、真っ先に目をひかれたのは彼女の頬を濡らす涙だ。


 水晶のように丸いしずくが、はらはらと絶え間なく白い頬を濡らす。花顔を転がる涙と切なく引き絞られた柳眉に、どういうわけか私まで胸が苦しくなった。


「あ……!」


 だけど、瞬きの合間にその姿は霧散した。


 後にはただ、一着の着物が残されるばかり。


 私は恐る恐る和室に入って、布団に手を伸ばす。そっと指先が触れると、布団がびくりと震えた。


「時雨さん」


 彼の反応はない。


「時雨さん」


 もう一度呼びかけると、もぞもぞと布団が動く。直後、ニュッと伸びてきた腕が私の手を掴んだ。続いてひょっこりと頭も出てきたものの、顔は布団に埋まったままだ。


 今夜はだいぶ応えているらしい。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


 まったくそう思えないのは、震えまくる手が私の服の裾を掴んでいるせいかもしれない。


「……また、憑き物が出たんですね」

「嫌な気配は感じていたんです、ずっと……。あの着物がうちに来た時から」


 だから、時雨さんは私が山梔子の着物に興味を示した際に、険しい顔を見せたのかもしれない。


「今の、女の人……泣いていたみたいですけど……。……どうして泣いていたんでしょう?」


 彼女は紗枝ちゃんのおじいさんとは違う。なにも言ってはくれなかったので、意図も心意も読み解くことはできなかった。


「なにも言ってくれなかったので、どうして出てきたのかもわかりませんでしたね」

「そんなものばかりですよ。死んでも死にきれないほど、あれらは強い想いを着物に宿しているので。……本当に願っていることほど、口に出すのが憚られることも多いでしょう?」

「……そうかもしれませんね」


 大人になればなるほど、素直に想いを告げられないことばかり起こる。


 紗枝ちゃんのおじいさんのように、あの女性もそうだったのだろう。だってそもそも、誰かに想いを伝えられていたのなら、――思い残すことがないのであれば、憑き物にはならなかったはずだから。


(でも、今はひとまず……)


 私は再び布団に顔を押しつけてしまった時雨さんを見おろした。


「……そうだ、お茶飲みませんか? 気分転換にいいですよ」

「ええ、もらいましょうか……」


 作業場を出るよう時雨さんを促せば、彼はもぞもぞと布団から這い出てきた。なので、私たちは一緒に台所に引っ込む。


 今夜はホットミルクでも飲んで、少しでも安らいでもらえたら。そう思ったのだけれども――

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