鎌倉の夏祭り

 鎌倉の花火大会は、ほかの街に先んじて幕を開ける。


 七月頭のことである。いよいよ夏の本番を間近にして、いち早く蝉の声が静寂を埋め尽くすころ。私は大賑わいの小町通りを浴衣姿で歩いていた。

 先日、時雨さんと一緒に私が選んだのは、ヨーヨーの柄の浴衣だ。夏祭りらしさを兼ね備えつつ、白を基調とした生地に散る水紋が涼を添えてくれる大人っぽさが可愛らしい。


 隣には、早くも人形焼きとかき氷を入手した時雨さんがいる。彼は濃紺の無地の浴衣をさらりと着こなしていた。無地の柄も映えるのは、彼が人形のように整った外見を持っているからなのかもしれない。先ほどから、通り過ぎる女の子たちが時雨さんを見て振り返るのを見て、ぼんやり思う。


(美男美女兄妹だものね)


 残念ながら、美女妹のしずくちゃんは友人との約束があったらしい。「寿葉さんと夏祭り……」と悩んでくれたものの、先約を優先するよう時雨さんに諭されて朝方浴衣を着て出かけていった。「来年は一緒に行こうね!」と気の早すぎる約束をして。

 幸村さんは、一番の稼ぎ時ということで悔し涙を飲んで、仕事に向かったと聞いている。彼もまた、「来年は有給申請するのでご一緒にー!」と言ってくれたとか、なんとか。


(みんなで来られたら、もっと楽しかっただろうな)


 もしかしたら、どこかですれ違うかもしれない。そんな淡い期待をもって、私は周囲を見渡した。右を見ても左を見ても、人、人、人。


「今日は、すごく混んでますね」

「年末年始よりはマシですよ。三が日は初詣の波が途切れることがなくて……」

「ああ、鎌倉は神社がたくさんありますから。すごく賑わいそうですね」


 それはそれとして、今日の私が猛烈に気になっていることがひとつある。


 それは、時雨さんが家を出た時から牛歩だということだ。

 時雨さんとこうして一緒に歩くのは初めての事ではない。時折、一緒にスーパーに出かけたり、悉皆屋のお仕事にお供したり、出歩く機会は多かった。


 けれど、今日はそのどの日よりも足取りが重いようだ。それこそ、体調が悪いのではと疑いたくなるほどに。


「あの、時雨さん。もしかして、お腹痛いんですか?」

「いいえ。なぜ?」

「じゃあ、人混みが苦手とか、歩くのに疲れちゃったとか……」

「大丈夫ですよ」

「そうですか……?」


 尋ねてみたものの、どれもはずれだったらしい。


 私が首を傾げるのと、時雨さんが質問の意図を察したのは、ほぼ同時のことだった。彼は不思議がる私に、ぽつりとつぶやく。


「……貴女が、今日は浴衣を着ているから。下駄は慣れていないと、歩きづらいでしょう」

「あ……、ありがとうございます」


 どうやら、私のためだったらしい。今日ずっと歩みを気遣ってくれていたのだ。それを知って、私はなんだか気恥しくなってうつむいた。


 頬が熱いのは、きっとこの暑さのためだけではない。


「あああああああああっ!」


 涼を求めてぱたぱたと手で顔を仰いでいると、突如、人混みから奇声が響き渡った。


「寿葉ちゃあああああん! 浴衣着てる! 浴衣浴衣! 浴衣―!」

「ゆ、幸村さんっ」


 時雨さんと一緒に、びくっと飛び上がって振り返る。人の波をかき分けやってきたのは幸村さん、その人だった。車夫さんの衣装を身にまとった彼は、あっという間に私たちのもとへたどり着き、ガシッと手を掴んでくる。


「かわいいね!」


 さらにぐぐっと顔を覗き込まれ、ついついのけぞってしまう。


「こ、こんにちは。ありがとうございます」

「こんにちは! 息してるところも本当に可愛いね!」


 そりゃあ、息くらいはしますとも。


 予想の斜め上に誉め言葉に、私は目を泳がせた。


「鎌倉散策してるの? 花火のお勧めスポットがあるんだ、俺が案内するよぉ!」

「仕事しろ」


 時雨さんがぴしゃりと言いつけた。

 そんなふたりに、少し和んでしまう。まるでコントのような掛け合いだ。


 穏やかな古都鎌倉の空気が、それをゆったりと楽しませてくれる。好きだな、と思ったのはきっと気のせいではない。


 私はいつの間にか、この空気が好きになっていた。

 ずっとここにいたいと思ってしまうほどには、私はこの街に住む彼らのことが好きになっている。


 不思議と、今日はその気持ちをすんなりと認めることができた。


 初めはあんなに気が重かったのに。私は、少しは変われただろうか。いいほうに、進んでいるだろうか。


「おい、幸村ぁ! なぁに油売ってんだ!」

「ヒィッ、せんぱぁい! も、も、も、戻りますぅ! 寿葉ちゃん、来年こそ一緒に花火行こうねー!」

「そ、そうですね。ぜひ、来年は皆さんで……」

「西御門さん、寿葉ちゃんのエスコートをよろしくお願いしますよ本当! 好かれない程度にほどほどに紳士に楽しませてあげてくださいよお!」

「さあ、約束はしかねますね」


 からかうような時雨さんの声を聞いた幸村さんが泣く泣く先輩のもとへ帰っていく。その後姿を見送って、私たちは先へと進むことにする。


「幸村さん、相変わらず元気でしたね……」

「元気すぎますよ。あいつの脳内辞書に、夏バテの項目が載ることはないでしょうね」


 苦笑が零れる。たしかに、夏の暑さなんて幸村さんのフレッシュさを前に吹き飛んでしまいそうだ。


「それより寿葉さん、掴まってください」

「え?」

「この人込みだと、はぐれかねないので。幸村にも、貴方を頼まれましたから」


 すっと彼が差し出してくれたのは、浴衣の裾だ。なぜ、裾?


「……恋人でもない男と手を繋ぐのは、嫌でしょう」

「い、嫌というわけでは。時雨さんこそ、体裁が……とか気にするんじゃないですか」

「貴女がいいなら、僕は構いませんよ。どうせ、この人出では誰も見ていませんから」


 時雨さんは、ぱっと掴んでいた裾を離した。次いで、改めて差し出されたのは大きな手だ。

 ほんのわずかな躊躇いと戸惑い、それから気恥しさが胸に残る。


 だけどきっと、それは私だけ。いつもどおり落ち着いたまなざしの時雨さん的には、ただの厚意のつもりなのだろう。それなら、必要以上に遠慮するのも違う気がする。


 私はそう判断して、思い切って彼の手を取った。


「お、お願いします」


 はぐれないため。迷わないため。そう自分に言い聞かせて、照れくささを振り切るように歩き出す。


「時雨さん、あとはなにを食べますか? あっちに葉山牛の串焼きなんて売ってますよ。一本千円です。……ちょっと高いですね」

「それなら、あっちには牛握りの屋台が……」


 時雨さんの指さすほうめがけて、顔を上げる。

 そして、またも見知った顔と目が合ってしまった。


「……あれっ? 近江じゃないか」


 だけど、今度はその声を聞いた瞬間、ひゅっと息がつまる。


 忘れていた悪夢を思い出すような感覚に、指先が冷えていった。


 そこに立っていたのが、料亭の厨房の元同僚たちだったから。

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