夜風と祭囃子のなかで
「近江、久しぶりじゃん。おまえさ、すげえ急に辞めたから、みんなびっくりしてたんだぜ」
「……お久しぶりです。その節は、ご迷惑おかけしました」
足が震えてしまうのはどうしてだろう。私は、時雨さんと繋いだ手を離した。彼に動揺を気づかれないように努めて冷静に振る舞って、頭を下げる。
だけど、ああ、顔を上げたくない。彼らの顔を見ると、嫌でも大井さんとの事件を思い出す。鼓動がいやに波打って苦しかった。
私が辞めた後、この人たちは厨房でどんな風に私について噂したのだろう。考えたくない。知りたくない。……知られたくない。
今、一緒にいる時雨さんには。
「なあ、一緒にいるのは誰? もしかして彼氏?」
「違います」
だけど、話の矛先が彼に向いて、私はびくっと顔を上げた。
「じゃあ、新しい職場の人?」
「……そうです」
「へえぇ。なんだ。祭りにふたりで来るような仲の男がもうできたんだ。しかも、さっき手ぇ繋いでただろ? あんなに男になんて興味ないって澄ました顔してたくせにさ。やっぱり遊び人だったわけ? それなら、店でもおまえが素直になってたら、厨房が穴埋め探しでバタバタすることもなかったんじゃねえか? それとも、板前長の男体盛りはそんなに口に合わなかった?」
「…………っ、やめてください。そういうこと言うの」
下劣だと思う。それでも、彼らは笑っていた。
その笑い声が悔しくて、……あんまりにも悔しくて、頭のなかが真っ白になる。
言い返したいのに、恥かしさと憤りでどうにかなってしまいそうで、言葉がなにひとつ出てこなかった。
代わりにあふれ出そうになる涙を、私は必死にこらえる。ここで泣くのだけは嫌だった。
たしかに、あの時の私は逃げたのかもしれない。
けれど、今の気持ちだけは負けたくなかったから。
それでも、とうとう耐えられなくなると、背後からぐいっと手を引かれた。私の前に立ち、視界をすべて埋めたのは、時雨さんの背中だ。
「……『小松』というのは、ずいぶんと礼を失した料理人の集まりらしいですね」
「……は?」
もともと淡々としゃべる人だけれども、この時聞いた時雨さんの声はかつてないほどに冷え冷えとしていた。
だから、私はなおさら困惑する。彼が当然のように口にした『小松』という名前。それは私が勤めていた料亭の名前だったからだ。
どうして、この人がそれを知っているのだろう。
けれど、その驚きよりも彼に私の過去の一片を知られたことが悲しかった。
今までなにも言わなかったことも。ろくな料理を作れなかった理由も。……逃げて来たことも、頭のいいこの人にはきっと悟られてしまったから。
はしゃぐ子供の声。楽しげな少女の笑い声。周囲から聞こえる音のすべてがぐちゃぐちゃに混ざり合って、ひとつずつを判別することすらできなくなりそうだった。
それでも、ただ静かに言葉を紡いだ時雨さんの声は、まっすぐに私に届いた。
「彼女は高潔だ。たったひとりでも、逆境に立ち向かう力がありますよ。ずっと見てきた僕はそれを知っています」
私を見つめた、彼の澄んだ瞳に胸が焼けるように熱くなる。
「対する貴方がたはどうやら小魚のように、集団になって自分を大きく見せようとしているらしいですが……醜悪極まりないですね。辞書の矮小という言葉の項目に、貴方がたの名前を載せたいほどだ。……恥を知ったらどうです?」
彼がひと息に言い切ったのはたしかに私を守る言葉だった。相手の人数など気にもせず、怯むこともせず、今も私を背中に隠しながら堂々と前だけを見つめて紡いだその言葉が、胸のうちに染み入る。
「……あのさ、俺たちはおまえに話してねえんだけど? 誰なんだよ、おまえ」
「ああ、紹介が遅れましたね。僕は西御門時雨と申します」
「…………」
――いや、聞きたいのは名前ではないのでは……。
時雨さんは、やっぱり時雨さんだった。おかげで、私は内心とはいえつっこむ余裕を取り戻した。
むしろ、そのつっこみは全員の心を統一してしまったらしい。
「名前なんて聞いとらんわ!」
すぐに、関西出身の次板が声高に指摘してくる。続いて、「あっ」と声を上げたのは、その隣にいた仲居だ。
「待て待て待て、鎌倉の西御門って、……ああっ、もしかしてよく、会食でいらっしゃってる……」
「おや、ご存知でしたか? 僕が小松で食事をしたのは、ほんの数度ですが。母は常連でしたからねえ。……しかし残念ながら、たった今、母も今後の食事の機会を無くしたようですよ。程度の知れた料理人のいる店など、人をもてなすには不向き極まりないですから」
老舗料亭は、客同士のつながりも太い。彼等は気に入った部下や商談相手を紹介しあう。そのため、悪評も広まりやすいのだ。つまり、ひとりが去ると、同時に大口の顧客を何人も失いかねないのである。
だからこそ、彼らは絶句した。
私もまた、初めて知った事実に唖然とする。
(時雨さん、小松に来たことがあったの?)
そんな気配はおくびにも出さなかったのに。
それなら、彼はどこまで知っていたのだろうか。初めから、私が必死に隠してきた秘密も知っていたのか。
「……おいで、寿葉さん。もう行きましょう」
時雨さんは、動けずにいた私の背をそっと押して歩き出した。
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