三毛猫、黒猫、化け猫
その日の空に茜色が混じり始めるころ、やってきたお客さんが持ち込んだのは一枚の羽織だった。
お茶を供するために、作業場に入った私の目に飛び込んできたのは黒地のシンプルな羽織。裏地には松と葵の絵図が施されている。
「なかなか粋な品だろう? 見えないところが華やかなのが気に入っていてね」
お茶に口をつけて、壮年の男性がにこやかに声をかけてきた。私は着物から顔を上げて、頷く。
「はい。すごく素敵だと思います」
「そうだろうそうだろう? ははは、若いのに、わかってるね! せっかくだから、お嬢さんも相談に乗ってもらおうか」
突然の指名に、私は思わず「えっ」と言葉をもらした。
彼は終始にこにこ笑顔で、助けを求めて視線を移した時雨さんは「先方がおっしゃるなら、よいのではないでしょうか」とでも言わんばかりのおすまし顔だ。
「いえ、でも、私じゃあお役に立てるかわかりません……」
「いやいや、女性の意見がほしいんだ。実は、この羽織は喧嘩別れした妻が残していったものでね」
のっけから重かった。
彼の物語はその後も続く。
「私はね、長いこと仕事に明け暮れていて、妻を顧みなかった。情けないことに、彼女がこの羽織を仕立ててくれていたことにすら気づかなかった始末でね。先日、これを見てせめて一言謝りたいと思ったんだよ。これを着て、頭を下げに行こうってさ。お嬢さんはどう思う?」
ぐいっと顔を覗き込まれて、私は返事に窮した。こればかりは奥様本人でないとわからない。
「私だったら……、嬉しいと思います」
お茶を濁した私にも、彼は嬉しそうに笑った。
「そうか! じゃあそうしよう。でも問題があってなあ。ほら、ここ。長いことしまい込んでいたから、シミができちゃってたんだよ。時雨くん、どうにかしてよ」
彼が指さしたのは松の木の傍ら。たしかに、そこには点々と茶色のシミが浮かび上がっていた。
「ああ、これなら落とせますよ。クリーニングでよろしいですか」
「ああ……、いや待て、やっぱり柄を重ねようかな。男の姿なんてどうだろう? 松からこっそりと顔をのぞかせて、待ち人を探している感じの」
「ああ、それなら奥様のお気持ちにも重なるので、よろしいんじゃないでしょうか」
時雨さんの後押しで、彼は心を決めたらしい。それから詳細な打ち合わせを始めたふたりを残して、私はそっと作業場を出た。
お客さまと直接話す機会はそう多くないので、少しの緊張が残っている。
そのせいか、なおさら私の答えは正しかったとは思えなくなってきた。本当に口下手なのが悔やまれる。せめて願わくは、時雨さんの仕事の邪魔になっていませんように。
それからほどなくして、お客さまがお帰りになった後、私は湯呑を片付けるべく作業場を訪った。
時雨さんは、預かった羽織を広げて眺めているところだった。
「時雨さん、その羽織に柄を足すんですか?」
私は開いた湯飲みをお盆に乗せながら、彼の視線を辿る。
「そうですね。さすがに柄足しはうちではできないので、これから職人に頼むんですが。誰に連絡をすべきか考えていたところです」
「外注さんに出すってことですか?」
「ええ。京友禅などは特に、染めや色差しも全て別々の職人が担当するくらい専門性が高いんです。一介の仲介業者には手に負えませんから」
「たしかに柄を足すって、なんだか難しそうですもんね」
そもそも、着物というと、もうそれ自体が完成されたイメージがある。後から手を加えるという発想がなかった。
そんな私に時雨さんは人差し指と中指をたてて、Vマークを作る。
「意外とそうでもありませんよ。そもそも着物は大きく二種類にわけられるんですが、ひとつは染め糸を使った先染めの着物。もうひとつが白糸で仕上げた反物に友禅染や小紋染を施した、後染めの着物。手描き友禅に代表される、図案を白生地に直接描き込んで糊と染料で色差しをしたものがこれにあたります」
つまり、後染めで図案を入れることは可能ということだろう。
「シミ隠しに図案を乗せること自体は、珍しいことじゃないんですよ」
「そうだったんですね。たしかに、テレビとかで絵図を描いているところは見たことある気がします。個人的には、刺繍とか織物のイメージが強かったんですけど……」
私はこれまで見てきた着物を思い浮かべてみた。
成人式なんかで着る華やかな振袖も手描きなのだとしたら、きっと途方もない時間と手間がかけられている。そう思うと、着物それ自体がひとつの芸術作品のように思えてきた。
「でも、どうしてさっきは男の人の柄を足すってことになったんですか? さっきのお話だと、私にはぴんとこなくて」
「ここに葵と松が描かれていたからです」
時雨さんらしいさっくりしまくった物言いに私は首を傾げた。正直に言うと、ちんぷんかんぷんだ。
だけど、今日はすぐにはっとした。
「もしかして、掛詞ですか? 松には「私は待つ」っていう奥様のメッセージが込められている、とか」
「はい、正解です。先方もそう思ったようですね。では、葵は?」
勢い込んで答えた私に、時雨さんはさらに問いかけてきた。
松に秘められし想いを導き出した私は、飛ぶ鳥を落とす勢いをそのままに新たな謎に挑戦する。
そして、すぐさま撃沈。
葵。青い。あ、おい。いろいろ考えたけれどもさっぱりだ。
「わかりません、ギブアップです……」
「葵はおうひ、つまり『逢う日』と読むんです」
「それは……、松に比べてちょっと強引すぎるのでは……」
負け惜しみをこめて、ブーイング。時雨さんは、そんな私を見てほんの少しだけ口元をほころばせた。
「僕もそう思いますが。これは短歌でも使われるくらい、古い表現なんですよ。着物の柄にも葵はよく使われますね。たとえば、葵紋は徳川家の紋所として知られているでしょう。この花は茎がよく伸びて、葉をたくさんつける。だから、発展するという意味を持たされた、縁起のいいものというわけです」
「縁起……。『逢う日を待つ』ってことですよね? ゲン担ぎも込めていたんでしょうか」
その羽織を旦那さんのもとに残していった奥様の想いは、今いずこ。
「そうかもしれません。ここに男性の……先方の姿を足すことで、『今度はこちらが会いに行く』と気合を入れたいというわけらしい」
「ああ、なるほど……、ひゃっ?」
時雨さんの説明にぽんっと手を打った時。
なにか柔らかなものが私の足の間をするりと通り抜けた。見おろせば、いつからいたのか、そこには黒猫が一匹。
金色の瞳と目が合うなり、猫は「にゃあん」と高らかにひと声鳴いて走り出した。
時雨さんは飛び上がって、その勢いで壁に激突する。どんがらがっしゃんと響き渡ったのは、足元にあったおかげで蹴り飛ばされた湯呑の悲鳴だ。
私たちがとっさに見た視線の先には、時雨さんと一休さん談義をした着物。
その袖から、黒猫の姿が消えている!
「に、逃げました! 逃げましたよ、憑き物ですよね、あの子!」
返事はない。
抱き合う壁と一体化しようと試みている時雨さんは、正直それどころではないようだ。
(逃げちゃう!)
私はとっさに、にゃんにゃんと鳴きながら作業場を飛び出した黒猫を追った。
廊下を走り、階段を駆け上がり、二階に追いつめれば足の隙間を縫ってまた一階へ。とうとう玄関でその背中に指が届きそうになったところで、――ガラッと扉が開いてしまった。
そして、そこに立っていた学校帰りのしずくちゃんの足元から、黒猫はすたこらと逃げていく……。
「ああっ、猫……!」
「えっ、猫ぉ? どこ?」
「逃げました、今……!」
慌てて飛び出してみたけれど、夕闇迫る外のどこにも猫の姿は見当たらない。
どうやら逃げられてしまったらしい。
「……あたしが玄関開けたせい?」
「あっ、いえ……。私が捕まえられなかったからです」
カワセミに続けて、猫まで逃がしてしまって申し訳なさが募る。私は重苦しい気持ちで靴を履きなおした。
「あの、ちょっと探してきます」
「寿葉さん、いいですから」
背後から時雨さんに声をかけられた。何事もなかったような顔をして、私たちを見た。
「そのうち戻りますよ。カワセミと同じく、戻らなくても、それまでの縁だから仕方ない。しばらく様子を見ましょう」
「……って、なんだかよくわからないけど、お兄ちゃんが言ってるからいいんじゃない? それより寿葉さん、お腹空いたぁ。なにか作って、できれば牛丼系」
一日、学校に缶詰めにされていたしずくちゃんが上目遣いでリクエストしてくる。正直、とてもかわいくて甘やかしたい。だけど、行方不明になった猫に軽くパニックになっていた私の代わりに、時雨さんがちくりと指摘する。
「もうすぐに夕飯の時間です。こんな時間に食べると夕食が食べられなくなりますよ」
「子供扱いしないでよっ。フツーに食べられるから。成長期だし」
時雨さんはふっと鼻で笑った。
「子供じゃないですか。成長途中なんでしょう?」
「重箱の隅つつくのやめて」
兄妹のバトルは白熱する気配を醸し出していた。とはいえ、たしかにしずくちゃんは成長期なので、私としてはたくさん食べてほしい気持ちはある。そこで、折衷案を出すことにした。
「それなら夕食の味見をしてくれませんか? 今日はすき焼きですから」
「わっ、する! すき焼き大好き!」
しずくちゃんは目を輝かせて、「手洗ってくる!」と玄関に飛び込んだ。
すると、時雨さんがちらりと私を見る。
「…………」
「時雨さんもいかがですか」
「そこまで言われては仕方ありませんね。いただくとしましょう」
そこまで言ってないけど、どうやら誘ってもらいたかったらしい時雨さんもいそいそと廊下に戻っていく。
すき焼きの魔力に負けた兄妹に、つい笑みが零れてしまう。
私は最後にもう一度庭を振り返り、猫の姿を探し——結局見つけることはできなかった。
染めなおしから逃れたカワセミと同じだ。
人の手によって作られて、今また人の手によって消されそうになっている猫も逃げてしまった。
だけど、その気持ちはわからないでもない。
物ですら、魂が宿ればささやかながらも抵抗をするものらしい。
……私も、抵抗すればよかったのだろうか。
もっと早く。状況に身を委ねずに。
そうしていたら、今もまだ、厨房に立っていたのだろうか?
過ぎたことを悩んでしまうのは、きっと夏の夕が息苦しいほどに蒸しているせいだった。
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