葵と松
夏の始まり
梅雨前線の訪れが、今朝のニュースを騒がせていた。
この時期、視界を埋めるのは藍青色の空を覆い隠す曇天と降り止まない雨。湿っぽい空気は、鎌倉の街を丸ごと青く染めるようだった。
そして、雨の色を浴びて真っ先に色づく花が、紫陽花だ。このあたりには長谷寺や明月院など名所も多いため、見物の観光客が今日も津々浦々からやってくる。
買い出しに出た先でも、ごったがえす人々の列は途切れることなく、段葛を埋め尽くしていた。
ほんの僅かなひととき、雲間から覗いた広い空を燕が悠々と泳いでいく。
私は、ふと足を止めて頭上を仰いだ。燕が見えなくなるまで見送って、再び歩き出す。
あの青く美しい空を思わせる美しい色のカワセミは、まだ戻らない。
「ただいま戻りました」
私が西御門邸に帰り着いたのは、まだ日も高い午後二時のことだった。
玄関の扉をくぐると、作業場の入り口が少し開いているのが見える。
私はダイニングに向かいがてら、室内に目をやった。
留守なら閉めようと思ったが、部屋の中央には時雨さんが黙って腰かけている。壁側に虫干しするようにかけた着物を眺めて、なにやら考え込んでいる様子だ。
(……今日はずっとおこもりしてるけど、休憩しないのかな)
もうすぐにおやつ時だ。声をかけてみてもいいかもしれない。私は買ってきたばかりの和菓子とお茶を出すことにして、ひとまず台所に立ち寄った。
今日の和菓子には水無月を選んだ。京都発祥といわれている、白いういろうの上に甘く似た小豆を乗せて三角形に切り分けたお菓子。
かつてのこの時期、宮中では暑気払いに氷を食べていたらしい。だけど、庶民には氷菓など高嶺の花の時代だ。そこで、見た目だけでも涼やかなお菓子を作って涼をとろうとしたのが、この和菓子の発祥だといわれているそうな。
お皿に水無月を乗せて、それから出がけに準備しておいた急須をそっと覗き込む。
茶葉の上に乗せておいたブロックの氷は、すっかり溶けていた。
こちらは玉露を使った、氷出しのお茶だ。
氷から出る水滴で少しずつ抽出したお茶は、冷たさのなかに甘みが強調されて、蒸し暑い日のおやつ時にぴったりだと思う。
時間はかかるけれど、その分、味わい深いのだ。
私はさっそくお茶を切子硝子のコップに注いだ。きらきらとグラスのなかでお茶が輝く。まるで、採掘場から切り出されたばかりのエメラルドのように。
私はお茶とお茶菓子をテーブルにセットして、作業場の外から時雨さんに声をかけた。
「時雨さん、お茶を淹れたのでいかがですか?」
「ええ、今行きます」
時雨さんはすぐに顔を上げたものの、まだなにかを悩んでいる様子で腕を組んでいる。この人がこんな風に悩んでいるのは、少し珍しい光景に思えた。
「なにかあったんですか?」
気になって尋ねると、時雨さんは神妙な面持ちを私に向けた。
「……貴女は、屏風から夜な夜な抜け出す虎に迷惑しているから捕まえてほしい、……という昔話を知っていますか」
「えーっと、一休さんじゃないですか? 昔、絵本で読みましたよ。アニメでも見た気がします」
ぽく、ぽく、ぽく、ちん。お定まりのBGMを思い出す。
このお話は依頼人のお殿様より、一休さんのほうが一枚上手。少年はお殿様を相手に、「もちろん、おおせのとおりに私が虎を捕まえてしんぜます。さあ、私が縄をもってここに控えておりますから、殿様はどうぞこの屏風から虎を追い出してくださいませ」とのたまうのだ。
これを聞いたお殿様は一本取られたと笑って、一休さんにご褒美をくれる。
……たしか、そんな筋書きだったはずだけど。
「それがどうしたんですか?」
なぜ一休さんの話になったのか、さっぱりだ。
私がさらに問いかけると、時雨さんは無言で広げられていた着物に手を向けた。
それは銀鼠色の単衣だった。袖口には、招き猫のように片手を挙げてじゃれつくポーズをした黒猫の図柄が施されている。可愛らしい柄だ。
シンプルだからこそ、普段着にちょうどよさそうだと思っていると、時雨さんはいかにも困り果てたようにつぶやいた。
「これはアンティーク着物なんですが。知人の呉服屋から、夜な夜な猫が抜け出て気味が悪いから、絵図を抜いてくれと頼まれたんです」
「……それはトンチを期待されているわけではなく?」
「至極大真面目な依頼ですね」
時雨さんは難しい顔をしたまま、「三毛猫ぶち猫黒猫がいるなら、化け猫くらいいるでしょうが……」などとこぼしている。
いやいやいや、それは猫の足と猫足くらい、ジャンルに差がある。
そうつっこみかけた私は言葉を飲み込んだ。
なにしろ、着物に憑いたおじいさんや女の人、さらには着物から抜け出してしまったカワセミがいるのだ。それなら、化け猫がいたって不思議ではない。
そんな風に納得できてしまうあたり、私も随分と西御門邸に馴染んできたのかもしれない。
「でも……、こんなにしっかり描いてあるものをきれいに消せるものなんですか?」
「柄足しで元の絵図を誤魔化す程度なら可能ですね。ただ、きれいに抜くというのは、なかなか……」
難しいものがあるらしい。
「そもそも憑き物だった場合、小手先の処置を施したところで無駄になります。だから、どうしたものかと頭を悩ませていたんですよ」
時雨さんはすっかりまいった様子で着物から目を逸らした。
まずは気持ちを切り替えてお茶にするらしい。
いそいそと作業場を出た彼は、「今日はなんですか?」と少年のような目をした。おやつの話だろう。この人が楽しみにしてくれているのを見ると、私も嬉しくなる。
「水無月です」
「ああ、ちょうど今時分にいい和菓子ですね」
「せっかくですし、縁側で食べますか? 今日は風が気持ちいいですよ」
「では、そうしましょう」
そういうわけで、私はお茶を縁側に運んだ。
一足先にたどり着いていた時雨さんは、縁側に座布団を敷いて陣取っていた。
開け放たれたガラス戸の向こうには、青々と茂るもみじの木。その下には、池に繁茂する蓮の花。その丸い葉に乗る露の珠が、たおやかな風を受けてころころころりと水面へ転がり落ちる。
すると、さゆらぐ水面から小さなアオガエルが驚いたように飛び出てきた。
清涼感がある、のどかを絵にしたような光景だ。
庭を眺めながらぱくりと食べた水無月は、どこかほっとする懐かしい甘さを帯びていた。私はお茶を一口飲んでから、話を戻してみる。
「それにしても、着物っていろいろな柄があるんですね。和柄のイメージが強かったんですけど、さっきの猫の柄はモダンだったというか」
「ええ、もともと着物の柄に決まりはありませんでしたが、最近は特に自由が尊ばれる風潮なんですよ。展覧会では、抽象画の生地やヒエログリフの帯なども見られます」
「ヒエログリフってエジプトの神聖文字でしたっけ?」
「ええ。和洋折衷もここまで来たか、と話題になりましたね」
なんでも魔改造して取り入れてしまう日本らしさに溢れている。いつか見てみたい。
「私、これまで着物に縁がなかったんですけど……。最近、すごく興味が出てきました。いつかとっておきの一着がほしいです」
「そう難しく考えないで、とりあえず目に留まったものを着てみたらいいんです。きっと似合いますよ」
「そうですか?」
お世辞だとしても嬉しい一言だ。ちょっと真剣に探してみようかな、なんて思えば、時雨さんと目があった。
「……僕でよければ、選ぶのを手伝いますし」
おずおずと切り出され、私はぱっと時雨さんを見た。まさか、彼が申し出てくれるとは思っていなかったので、嬉しくなる。
「ぜひ! 楽しみにしてます。手に入ったら、着て出かけられそうな場所を探しておきますね」
時雨さんは着物を普段から着ているけど、私は特別なものという意識が抜けずに言った。着物なら、落語とか、美術館なんかに着ていくのがいいかしら、なんて。
「それなら、まずは浴衣はいかがですか。着物より着付けも楽で、とっつきやすいですから。しずくも着物は怪しいですが、浴衣なら着付けのお手伝いができるはずですよ」
「ああ、いいですね。浴衣といったら夏祭りですし。もう何年も行ってないので、今年は挑戦したいです」
縁日の喧騒を思い出す。
お囃子の音色に、子供たちの笑い声。浮き立つような色とりどりの提灯が照らす人込みを、夜店を冷かしながら人の波に流されていくひととき。
「ちょうど鎌倉の花火大会が、たしか来月開かれますから。そこに着ていくのがいいでしょうね」
「えっ。鎌倉って花火大会開催されるんですか?」
「毎年ニュースでも話題になる程度には、盛大に。僕もしばらくは出向いていませんでしたが……」
言われてみたら、そんなニュースを夏になると目にする気がする。
今年はせっかく鎌倉にいるのだから、顔を出してみるのもいいかもしれない。
「もしよけければ、案内します」
「でも、時雨さんは忙しいんじゃ」
「立て込んでいる作業も今はありませんし、構いませんよ」
嫌なら無理にとは言いませんが、とつけ足されて私は慌てて首を横に振った。
「とんでもないです。ぜひお願いします」
時雨さんはあからさまなまでにほっとした様子で、安堵の表情を浮かべた。
「あっ、それなら、しずくちゃんたちも誘ってみんなで行きませんか?」
「……………………まあ、別に構いませんけど」
「楽しみですね」
家族と出かけるのは気恥しいお年頃なのか、時雨さんはやや肩を落とした。だけど私としては初めてのそろっての外出予定に早くもわくわくしてしまう。
夜店グルメのチョコバナナや人形焼き、たこ焼きに焼きそば。お祭りは、子供のころから変わらない楽しみが詰まった場所だ。
「……ああ、この後は来客があるので。いらっしゃったらいつもどおり作業場におとおししてください」
「はい」
私は急浮上したテンションをそのままに、空になった湯呑とお皿を下げた。
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