山梔子の柄
「まさかこれ、亡くなった人が着る……?」
恐る恐る尋ねる。
「それは経帷子です。これはただの袷ですよ」
時雨さんはあっさりと私の予想を否定してくれた。おかげでほっとする。
とはいえ、私は着物に明るくないため袷と言われても違いがよくわからない。
「経帷子は、真言や経文を記した単衣もののことを指すんです。単衣というのは、裏地のない夏用の着物ですね。そのなかでも、生地が透けるくらいに薄いものは薄物と呼ばれていますが、逆に袷は裏地のある着物を呼びます。こちらは十月から五月の間に着るのが一般的とされているものですね」
「いろいろとあるんですね……」
馴染のない単語ばかりで、説明を受けてもなかなか想像しがたいものだけれど。
そのせいか、なんとも間の抜けた感想になってしまった。時雨さんは気にした様子もなく、話を進める。
「あの小鳥は、この着物から抜け出した憑き物ですよ」
「え?」
また随分と突飛な話になって、私は目を白黒とさせた。
「ええと……、あれって人間だけじゃなくて、動物の姿にもなるんですか?」
「ええ。この場合は憑き物というよりは、付喪神に近いかもしれませんが。この着物は、もともと美しい翡翠色をしていたんです。それを気に入って、とある故人が大切にしてきたのですが……。これを引き継いだ人間は——つまり、今回の依頼者は、この着物の色を変えたがっていまして。あの小鳥は、このままでは染めなおされて自分が失われるのを忌避して、抜け出したようですね」
「……? でも、なんで小鳥なんですか? 小鳥柄だったとか……?」
「翡翠はカワセミとも読むでしょう? 貴女が見たのは、カワセミだったんだと思いますよ」
カワセミ。
きれいな川のそばでごくまれに見かける、青い羽根を持つ美しい野鳥だ。
屋内にいるイメージがないのと、あの時の玄関が薄暗かったので、すぐには結びつかなかったものの、言われてみるとそんな気がしてきた。
「つまり、着物自身が染められたくないって拒否したってことですか?」
「端的に言うと、そういうことになりますね」
私は真っ白になった着物を見おろして、そんなことがあり得るのか頭を悩ませた。
そして、その疑問はすぐに解決する。
着物に亡くなったおじいさんの念がついているくらいだ。色が抜け出て小鳥になって飛びたつことも、……たまにはあるかもしれない。
「それじゃあ、この着物はこれからどうするんですか? やっぱり染め変えちゃうんでしょうか」
おずおずと問えば、時雨さんは訳知り顔で腕を組んだ。
「そこが悩みどころですね。抜け出したのをいいことに染め変えたところで、カワセミが戻ってきたら着物はもとの翡翠色を取り戻してしまいますから。つまり、元の木阿弥になる。実際、以前別の店で処理した際はそうなったそうですよ。ですから、人づてに僕のもとに持ち込まれたわけですが。この着物の扱いについては、今はひとまず保留しています。あのカワセミが諦めて、ほかに居場所のいい住処を見つけるか、……あるいは依頼人が諦めて翡翠色の着物を引き取るか、結果はふたつにひとつしかありませんが」
私は時雨さんの手のうちにある、真っ白な着物を見おろす。
「あの小鳥、すごく綺麗な色でしたよ。染め変えちゃうなんて、もったいない気もします」
「こればかりは好みですから」
おっしゃるとおり。私にも、時雨さんにもどうしようもないことだ。
けれども、こうして事実が発覚すると私はいよいよあの小鳥を捕まえられる気がしなくなってきた。
だって、憑き物の小鳥なんてどうやって捕まえろと?
それにあのカワセミを失わせるのは、なんだか可哀想な気もする。そうすると、時雨さんのいうカワセミが心地いいと思う別の場所を見つけてやる必要がありそうなものだけれども。
「うーん……。カワセミが思う居心地のいい住処ってどこでしょう?」
やっぱり――川?
「あるがままを愛してくれる人の持ち物です。このタイプの憑き物は、みんなそうですよ」
けれど、それが一番難しい。
そう言いたげな、時雨さんの口調だった。とはいえ、ひとまず謎は解決した。
「……わかりました。教えてくれて、ありがとうございます」
「いえ……」
カワセミ問題はひとまずさておき、もう間もなく夕食の準備を始めなければならない。
「それじゃあ、私、そろそろご飯の準備しますね」
そう思って作業場を後にしようとした私は、壁際にかけられていた一枚の着物に目を引かれた。
それは、美しい白い花の描かれた薄桃色の着物だった。
今日はよく美しい着物を見る日だ。先ほど教わったばかりの知識をフル動員して尋ねる。
「これは……、単衣ってやつですか?」
「そうですね」
「可愛い花の柄ですね」
「山梔子ですよ」
相変わらず、時雨さんの知識はものすごい。さらっと教えてくれたけれど、どことなく表情が険しい気がして首を傾げる。
「時雨さん?」
「……?」
気のせいだっただろうか。振り返った彼の顔に険は感じられない。
「どうかしましたか」
「いえ……。山梔子って、たしか甘い香りの花ですよね。夏になると、どこかから香ってくる……」
「ええ、その花です」
私は大好きな香りを思い出しながら、誤魔化した。
山梔子は大分県の郷土料理で利用されていたはず。黄飯という料理で、色づけと香りづけに山梔子の実を利用するとか、しないとか。
まだ食べたことがないけれど、興味がある。
そして、着物にも興味が出てきた。
意外と身近なものが題材に選ばれている上に、美しく、由来が面白いものが多い。
色々と不思議なこともあるようだけど、せっかく日本人に生まれたからにはいつかは私も特別な一着がほしい。
……なんて、淡い夢を抱きつつ、私は作業場を後にした。
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