純白の着物

 おやつを食べ終わる頃、玄関の開閉音が聞こえた。どうやら、しずくちゃんが家を飛び出していったらしい。


「だ、大丈夫でしょうか」

「友達の家にでも転がり込むだけですよ。へそを曲げるとすぐあれです。放っておいて構いません」


 時雨さんはそう言うものの、なんだか、彼女には悪いことをしてしまった気がする。


 私が余計なことを聞いてしまったせいで、しずくちゃんの自尊心に傷がついていないといいのだけれども……。


 ぼんやりと考え込んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げれば、いつになく真剣なまなざしの時雨さんと目が合う。


「……? どうしました?」

「……なぜ、貴女はこの家にいるのか考えていました」

「それは……」


 そうして、唐突に投げかけられた問いに私ははたと当惑した。


 どんな答えを求められているのかわからなくて、結局、質問で返すことになる。


「やっぱり、辞めたほうがよかったでしょうか」

「違います。そうではなくて……、僕が不思議に思ったのは、貴女が嫁入りするつもりもないと言うので。それでは貴女がここにいるメリットがなにもないのでは、と純粋に疑問に感じたにすぎません」


 もともと、なにを気にしているのかわからなかった時雨さんの問いは、この言葉でさらに謎めいた。メリットもなにも、私は仕事をしているだけだ。


 それともまさか、本気で私が嫁入りしたがっていると思われていたのだろうか。


「そんなつもりないの、当然じゃないですか。だって、私は家政婦を募集しているって聞いてきたんですよ。婚活のつもりなんて、ぜんぜんなかったんです。だから、急に嫁なんて言われても……」

「……困りますか?」


 傾き始めた西日が、窓から差し込む。夕日は、こちらに向けられた時雨さんの端正な顔に柔らかな影を落とした。


「ですが、よくよく考えてみると、未婚の男女がひとつ屋根の下で生活をしているというのは、体裁が悪いような気もしまして」

「て、体裁」


 あまりにも、今更だ。


 すると、なんだろう。この人は、責任を取るつもりで私を嫁に取るとでも言うつもりなのだろうか。


 いっそ時代錯誤にも思える発想に、私はなんとか「今はシェアハウスとかもあるので……、そんなに気にしなくても……」という言葉を繰り出すので精一杯だった。


「と、とにかくですね。今時そんなことを気にする人はほとんどいないので、大丈夫ですよ」

「……そうですか」


 それでも、時雨さんはまだ納得がいかないらしい。


 なにかが引っかかるような顔をして、視線を彷徨わせている。その先にある窓を見れば、ふと西日が途切れた。遠い山の向こうに日がすっかり沈んでしまったらしい。


 硝子越しに見える空は、薄紫色に染まりあがって、もうすぐにでも夜に飲み込まれてしまいそうだった。


 すぐに続いた時雨さんの声も、夜の気配を含んで染みいるように空気に溶ける。


「貴女は、とてもよくしてくれている。料理はうまいし、家事もそつない。扱いづらいだろうに、しずくも邪険にしないで相手をしてくれています。……あの態度は目に余るのでしずくについては、もう少し僕としても対応を考えたいのですが。それを除いても、ここが貴女にとっていい環境とは思えません」

「それは、どういう……」

「気味が悪くはありませんか」


 時雨さんは、私を真正面に見据えた。


 薄暗くなった縁側では、その表情に宿る真意は読み解きがたい。彼の瞳には、ただ夕日の残滓がほろほろと輝いていた。


「……寿葉さんは、ここに来て早々に憑き物を見ています。それも、一度や二度ではない。憑き物落としにまで僕はつき合わせました」

「ああ……」


 どうやら、時雨さんが気にしていたのは『さくらのお茶』にまつわる事件だったらしい。


 あの経験を経てなお、私がこの家に残る理由を考えた結果、彼の答えは私が嫁入りしたがっているため我慢をしているというものだったらしい。


 些か、突飛すぎる考えの気がしなくもないけれど。


「大丈夫って前に言ったとおりですよ。私、あれくらいのことならぜんぜん……」

「普通は、怖がるものです」

「そうかもしれません。時雨さんは怖いんですよね?」

「僕はまったくもって怖くありませんよ」


 今日も食い気味に答えられた。


 あまりのレスポンスの早さに、私は少しからかいたくなってしまう。


「本当の本当に怖くないんですか?」

「本当ですったら。わからない人ですね!」

「この間は、かなり怖がっているように見えたんですけど……」

「怖がってません!!」


 どうやら、これが時雨さんの譲れないポイントらしい。いつもの大人びた彼とのギャップがやっぱりおかしい。


「じゃあ、私もそうなんです。怖くないですよ。たぶん……、あの着物の憑き物が優しかったからかもしれませんね」


 物悲しいほどに美しい桜月夜を思い出す。切々となにかを語り掛けるような月明かりと、風に散る薄紅の花弁。その光景に纏わる憑き物の見せた夢はあまりに甘く、忌避するに忍びなかった。


「……わかりました。では、そういうことだと思っておきます」


 話がついて、時雨さんはゆったりと立ち上がった。


 私はそんな彼に、ふと気になっていた問いを投げかける。


「あの、それはそうと、初めて私がここにお邪魔した日に見た小鳥なんですけど。ペットじゃなかったんですか? しずくちゃんは、小鳥なんて飼っていないと言っていたので少し気になって」


 だけど、あの日の時雨さんの焦りようは野鳥に対するものではなかった。


 そう思ったからこそ確認した私に、時雨さんは静かに頷いた。


「しずくのいうとおりです。あれは僕が飼っていたわけじゃありません」

「じゃあ、野鳥だったんですか?」


 いまいち納得できず、さらに尋ねると、時雨さんは少し考えるそぶりを見せた後に私を手招いた。


「少し来てください。貴女に見せたいものがあります」

「見せたいもの……?」


 私は誘われるがまま、時雨さんの後を追って作業場に足を踏み入れた。


 今夜は三日月だ。月明かりを頼るには心許ない暗闇のなか、作業場の電気を時雨さんは手探りにつける。そして、すっかり片付けられた和室の桐箪笥から、畳紙たとうしにつつまれた一枚の着物を取り出した。雪より白い着物だ。


 真っ白の布地を見るなり、なんだか嫌な予感がしてくる。だって、真っ白な着物といえば思い当たるのは二パターン。結婚式と、お葬式。さらに言うなら白無垢にしてはすっきりとしているので、残る選択肢ははひとつきりだった。

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