良き事聞く
正直、困る。見られても困る。私にもさっぱりわからない。なにせ着物初心者なもので。けれども、なにも言わずにもいられない雰囲気に、私は直感を信じることにしてみた。
「おろし器だと思いました。だいこんとかゴリゴリ削る……」
「…………」
どうやら外れだったらしい。
珍答に困惑した様子で兄を見たしずくちゃんと、珍しく目を真ん丸にした時雨さんの表情がなにより雄弁に結果を語っている。
私は先手を打って、答えを求めてみた。
「本当のところはなんなんですか?」
「琴……ですね」
まさかの琴。私は改めてまじまじと着物の柄を眺めた。言われてみると面影があるような気もしなくもない。無理に納得しようとする私の隣で、しずくちゃんは腰に手を当てた。
「絵が下手すぎない? わかるわけないよ、こんなんじゃ!」
けれども彼女のブーイングに表情ひとつ変えず、時雨さんはきちきちと帯を畳んでしまう。
「これは『松竹梅』と同じ、みっつ揃えることで意味を持つ文様です。この花は菊。斧と菊が来たら、絵の良しあしに関わらず、おのずと答えは明らかになりますよ。おまえは着物の勉強をしているんだから、絵について文句をつけられる立場でもないでしょう。これくらいわかりなさい」
斧と菊と琴。松竹梅と同じと言われても、やっぱりなじみがないものに思えて、私は首を傾げた。
「斧と菊と琴ってどういうくくりなんですか? 共通点がなさそうですけど……」
松竹梅は植物という属性があるけど、こちらはバラバラだ。
「斧は「よき」と読むんです。つまり、『よき、こと、きく』、良き事聞くという掛詞からくる吉祥文様ですね」
「ああ、なるほど」
駄洒落みたいだ。面白い言葉遊びで。考えているだけで脳年齢が若返りそうな気がする。
「琴は今回のように絵では判別しづらいので、漢字で書くこともありますよ」
「それはそれで素敵ですね。外国の人なんかは日本のお土産に喜びそうです」
自分が着こなせるかと言われると、少しためらってしまうけれども。
それでも、謎をひとつ解き終わった爽快感に浸っていると(私の予想が大外れだったことはさておき)、しずくちゃんがぷいっとそっぽを向いた。
「たしかに今の話は知らなかったけど……。少なくとも、この人よりあたしのほうが着物のことをわかってるもの」
「なにを当然のことを言っているんですか? 彼女は悉皆屋ではないでしょう。そんなことで勝ち誇るんじゃない」
「っ、なんでお兄ちゃん、この人の肩ばっかり持つの?」
「おまえの言動は目に余ります。僕の後を継ぎたいなら、ふさわしい教養を身に着けて襟を正せと言っているんです」
「話がそれてる! あたしはどうしてこの人ばっかり持ち上げるのって聞いてるの!」
突如、始まってしまった兄弟喧嘩に私はなすすべもなくうろたえた。
口を差しはさむ隙もないけれど、原因が私ともなれば黙って立ち去るわけにもいかず。猛烈に気まずい空気のなか、おろおろしていると時雨さんが爆弾発言を投下した。
「嫁なら大切にすべきでしょう?」
「はあああっ?」
これにはしずくちゃんが大爆発。
「信じられない! 本当に結婚するつもりなの? 本気の本気っ?」
「ないです、そんな気」
さすがに黙っていられない。だけど、それが火に油を注いだらしい。
「なんでそこであなたが断るのよ! まさか、お兄ちゃんに不満でもあるわけっ?」
「不満はないですけど、そういうことではなくてですね」
「じゃあなんなのよ!」
そうして、この一か月で百万回くらい繰り返しているやりとりが始まった。
この口論はいつだって激怒したしずくちゃんが部屋を飛び出していくことで幕を閉じる。今日も今日とて、「あたし、おやつなんていらないから!」と彼女が二階に駆け上がっていったことで、一時休戦の時を迎えたのだった。
時雨さんはなにを想っているのか、相も変わらず涼やかなまなざしを妹の背中に向けるばかり。
私は少しだけ悩み、思い切って時雨さんを見上げた。
「あの、時雨さん」
「はい」
「嫁とかそういう冗談は、本当にやめてください。困りますから」
「そうですか」
そして、私は会話の接ぎ穂を失くす。
少し、きつく言いすぎてしまったかもしれない。そう、すぐに後悔した。
捻くれた言葉選びだったり、人を食った物言いをしたり、わかりにくいところもあるけれど、なんだかんだ時雨さんは優しい人だ。
一か月を一緒に過ごしてきたので、それはよくわかっている。
彼は私が困っているといつもさりげなく助け舟を出してくれるし、しずくちゃんと一触即発になった時は仲裁してくれる。仕事がない時は買い物を手伝ってくれて、荷物だって持ってくれた。
それでも語気が荒くなってしまったのは、大井さん事件の影響で私が未だに男性への苦手意識を払拭できていないためかもしれない。
とにかく、痴情のもつれや恋愛沙汰はごめんこうむりたかった。
そう思ってしまった時点で——、やっぱり悪いのは私だったのだと気づく。
なぜならこの人はあの件には関係ない上に、すべては私の心持ちの問題だったから。
「すみません。……あの、お茶の時間にしましょうか。今日は桜のシフォンケーキを作ったので」
だけど、それを説明するわけにもいかず、私は話題を当初の目的に戻した。
「そうですね。ちょうど小腹も空いてきたところです」
「お茶は温かいのと冷たいの、どっちにしますか?」
「貴女と同じものを」
それなら温かい煎茶を淹れよう。今日はいつもより少し涼しい。
私は着物を片付ける時雨さんに先んじて食卓に向かって、桜色のケーキと鮮やかな緑が美しいお茶を準備した。
抽出時間を少し長めにしたお茶は、ほんのりと苦くて、甘いケーキによく合う。
そこへちょうど彼がやってきたので、さっそくお茶会を始める。
「ああ、今日もおいしいですね」
「……ありがとうございます」
テーブルに着いた時雨さんは、ケーキを一口食べるなり表情を緩めた。
やっぱり、優しくて、それからまめな人だ。
彼はいつも言葉を尽くしてくれるのに、私が受け止めきれていない。それをありありと感じた。
どうにもうまくいかない。それが歯がゆくて、もどかしくて、まるで水の底で足掻いているようだった。
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