聖者に山梔子

霊能者のプレゼント

 いつの間にか、薄紅色の桜の季節は過ぎ去り、往来の木々の梢には若葉が芽吹き始めていた。


 梅雨の前のひとときということもあってか、空には雲ひとつない。入り組んだ低層住宅の続く路地から見える衣張山きぬばりやまは緑に覆われていた。もう少し暑くなれば、ひっきりなしに地に染み入る蝉の声があたりに響き渡るだろう。


 だけど、今はまだ時折鶯の声が聞こえるばかりだ。


 買い物ついでの散歩がてら、遠回りをしながら、私はだいぶ慣れてきた路地を探検していた。


 とおりかかった道の端には幅一メートルほどの水路があり、地面を覆う程度のわずかな水がさらさらと流れている。


「——あ」


 生い茂った藻に今、もぞもぞとなにかが隠れた。沢蟹だ。


 往来で遭遇した野生動物に、私はついつい目を惹かれて立ち止まった。

 沢蟹といえば、素揚げが好きだけど、唐揚げも捨てがたい。とはいえ一匹だけ捕まえてもしょうがないか、と諦めて顔を上げたところで、目があった人がいた。


「ああーーっ!」

「あ、こんにちは」


 声を上げたのは、幸村さんだ。人力車の車夫さん兼霊能者だという摩訶不思議な経歴を持つ人だ。初対面からかなりのインパクトがあった上、一度は俥に乗せてもらっているのでよく覚えている。

 彼も私のことを覚えていたのか、目が合うなり両手を上げて駆け寄ってきた。


「寿葉ちゃあん! まさかこんなところでお会いできるなんて、やっぱり運命ああああ!」

「あっ!」


 ぽろっと彼の手から吹き飛んで、アスファルトの上で華麗なスケーティングを披露し――今、溝に見事なダイブを決めたのはスマートフォンだ。


 水深が浅いとはいえ、勢いよく水面下に沈んだスマホに、私たちは同時に声を上げた。


 すぐさま飛び降りようとした雪村さんを慌てて止める。


 なんといっても、車夫姿の彼は足袋を履いている。そのまま飛び降りて足元を濡らしたら、この後の仕事で難儀しそうだ。


「私がとりますよ。もう帰るところですし、このパンプス、雨天兼用のやつですから」


 つまり、少しくらい濡れたところで私の靴は痛くもかゆくもない。


「へっ? いや、それは……あああっ、滑ったら危ないよ!」

「大丈夫です。体育の成績はいまいちでしたけど」


 私は地面に手をついて、そっと溝に降りた。なんとか無事に着地すると、ぱしゃんと跳ねた水しぶきが跳ねる。水晶の欠片のように日差しにきらめいて、足の甲に散った水の珠はまだ冷たい。


「どうぞ。早く拭いたほうがよさそうですよ」


 最近のスマホは数十分くらいなら水没しても平気なものが多いけど、そこはやはり電化製品だ。

 拾い上げたスマホを幸村さんに手渡して、溝をよじ登ろうとしたところで目の前に手を差し伸べられる。


「掴まって」

「あ、ありがとうございます、……っわ!」


 ありがたく大きな手を取らせてもらうと、幸村さんはぐっと私を引き上げてくれた。体力勝負のお仕事をしているからか、見た目よりもずっと力があるみたいだ。


「力持ちなんですね。助かりました」

「今朝、力餅を食べてきたからかな」


 そんな風に幸村さんは鎌倉銘菓の名前を出して、茶化すように笑った。

 無事に地上に生還した私は、ぺぺっと足を振って靴についた水気を払う。幸村さんは申し訳なさそうに大きな身体を小さくした。


「ごめんよ、寿葉ちゃん。せっかくの綺麗な靴なのに泥が……。責任はとるので安心して嫁いできてください」

「いえ、気にしないでください。これくらい、拭けばすぐに落ちますから」

「じゃあこれを使って! 手も汚れちゃったでしょ?」


 幸村さんが渡してくれた手ぬぐいは、白地に薄紫の花らしき模様が描かれていた(どうやら藤らしい。デフォルメ調の花が十個連なり、優美な蔓が風に舞っているようだ)。3つの房が風に揺られ、なんともいえない優美さを醸し出している。


 手はともかく、靴を拭くにはあまりに忍びない可愛らしさだった。


「ありがとうございます。お言葉に甘えて手を拭かせてもらいますね。これは洗ってお返ししますから」

「ううん、もらっちゃって。これくらいじゃお礼にもならないからさ。……あ、ちなみにこっちがお礼です」


 ススッと差し出されたのは黒い皮のお財布。いやいや、もっともらえないし。


「本当に、お礼とか結構ですから」

「そんな! それじゃあせめて送らせて! なんとタダです!」

「だめですよ。幸村さん、仕事中でしょう?」

「ぐううっ、仕事が憎い……!」


 真面目なのかなんなのかよくわからない反応だ。義理堅いのは間違いない。


「じゃあ、仕事以外の時間は二十四時間体制で対応するので! いつでもアシにしてください! 俥背負って飛んでいきます!」

「ええっ?」


 ぐっと手に握りしめられた紙には、電話番号が書かれている。きっと、というより、まず間違いなく幸村さんの連絡先だろう。


 だから、困りますって。


 ……と、言う前に、幸村さんは仕事に戻るべく俥を引いて駆け去ってしまった。


 なんて足の速い人なんだろう。それから、律儀な人だ。ちょっと変わっているけど、それでも悪い人ではないに違いなかった。


 初対面の時は逃げ出したりして、悪いことをしたなと思う。


 そんな私の足元を、どこからか飛んできた桜の病葉がさらさらと流れるように転がっていく。


(桜……)


 今日のおやつは、作り置きも残りわずかとなった桜の塩漬けを使ったスイーツにしようと私は決めた。


 そうと決まれば善は急げ、私はさっそく西御門邸へと舞い戻ったのだった。


 晴天の土曜日の午前のことだ。世間は休日とはいえ、私は今日も平常運転である。


 昼食づくりや掃除、庭の金魚の餌やりに追われて午後も深まる三時を迎える頃、私はおやつの仕上げに取り掛かっていた。


「……、もういいかな」


 私は固くなった真っ白の生クリームを最後にひと混ぜして、様子を見る。それから、オーブンから取り出して粗熱を取っていたケーキを切り分けてクリームを添えた。


 今日のおやつは、桜のシフォンケーキ。これはホットケーキミックスと桜の塩漬けを使ったお手軽品。行程はいつものとおり、材料を混ぜて、焼くだけ。おかげでプチティーパーティーの用意はあっという間に済んだ。


(あとは時雨さんとしずくちゃんに声をかけるだけ)


 窓から見える初夏の片陰ができた庭を片目に、私は廊下に出て作業場の前に立つ。

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