憑き物おとし
「寿葉さん。……寿葉さん、大丈夫ですか」
いつの間にか、視界は時雨さんの顔とその向こうできらめく星空でいっぱいになっていた。猫のように細い爪が夜の空に引っかかっている。月あかりに透ける花霞に似た雲が風に押し流されて見えなくなった。
(……背中、痛い)
どうやら、私は縁側でひっくり返っていたらしい。
「大丈夫ですか」と再度問われる。
時雨さんは、夜空を溶かし込んだような黒い瞳を私に向けていた。
なぜ再三の確認を受けたのかは、むくりと起き上がってから気づく。
私の頬は涙に濡れていた。
悲しかったわけではない。ただ、幸せで胸がいっぱいだったのだ。
遠い昔になくしたはずの宝物を今、取り戻したような……。それはけっして、私のものではなかったはずだけれども。
「あの、どうなったんでしょう……?」
「憑き物は無事に落ちましたよ。あとは、職人に引き渡してシミを落とせば、ただの着物に戻るはずです」
時雨さんはそう言って、自らが纏う極万筋の着物に触れた。
はらはらと、その手元にも桜の花弁が降ってくる。
立ち上がろうとすると、時雨さんは手で私の動きを制した。
「すぐに立たないほうがいいです。少し、そのまま休んで」
「……今、夢を見ていたような気がします」
「……ええ」
時雨さんは、私の言葉に短くそう答えただけだった。
代わりに、私の羽織の裾に乗った薄紅の花弁を指先でつまみあげる。そうして、話を変えた。
「桜の柄は縁起物なんです。桜は一斉に散る。桜吹雪になって。その時に、悪いものも一緒に散らすと考えられたというわけでして」
「へえ……。きれいなだけじゃなくて、そんな意味もあったんですね」
もしかしたら、桜は、悪いものだけでなく、秘密の美しい恋や、夢も、なんでも隠してしまうのかもしれない。彼がそう思って教えてくれたのかはわからないけど。
時雨さんは指先につまんだ花弁を、再び風に乗せた。その軌道をたどって、やがてたどり着いた八重桜の大樹を私たちは見つめる。
かつてこの木を愛して、この木のそばで愛を育んだふたりはもういない。
けれどもきっと、来年も桜は咲く。この羽織と着物のかたわらでずっと。
私はなんとなく、そんな確信を得た。
そんな私を丸ごと包んで、花残月の夜は密やかに更けていく。音もなく花弁は舞い続ける。最後のひとひら散りゆく時まで。
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