さくらの見せた夢

 ――桜散る季節。ソメイヨシノがすっかり青々とした葉を茂らせる四月の半ば、その夕暮れのことだ。


 私は時雨さんと一緒に、出来上がった桜の塩漬けをお土産にして紗枝ちゃんのお家へお邪魔していた。


 彼女の家は逗子の海岸沿いにある、閑静な住宅街にあった。夏場は海水浴客でにぎわうのだという往来も、春先の夕べは静けさに包まれている。


「あっ、西御門さんと寿葉さんだ。待ってました待ってました。どうぞあがってくださーい」


 海岸線沿いに建つ家の門からは、目の前に広がる広大な水平線を眺めることができた。きらきらと夕日に輝く水面が眩いほどに美しい。すでに沈みかけている夕日を背に、サーファーたちが波に乗っているのが見えた。


 それから、私は時雨さんに続いて門をくぐった。そしてすぐに昨夜見せてもらった着物を思い出す。渋い着物を着たおじいさまが似合いそうな日本家屋と日本庭園の組み合わせが広がっていたからだ。


「お邪魔します。お話ししていたとおり、縁側をお借りします。寿葉さんは桜茶を」

「はい。あ、こちらお土産です」


 私は紗枝ちゃんに桜の塩漬けと鳩サブレを手渡す。


 タッパーにつまった桜の塩漬けはほんのりと薄桃色に美しく染まっていた。そして、鳩サブレは鳩の形をした甘味と塩気が絶妙な鎌倉土産のサブレだ。


 それから、私は紗枝ちゃんに台所まで案内してもらった。


「この間は八重桜をありがとうございました。これ、あの花びらで作った桜の塩漬けです。ぜひ使ってみてください」

「これってそのまま食べるんですか? なんか、めちゃくちゃ可愛いですね。女子力上がりそう」


 紗枝ちゃんは、きらきらした目で瓶を見つめる。


「お茶にしたり、お菓子に練りこんだりするともっとおいしいですよ。あと、桜の塩漬けとグリーンピース、それから和風だしと刻みハムをご飯と混ぜ合わせると彩りもきれいな混ぜご飯ができます」

「あっ、それやってみたいです。おいしそう」

「じゃあ、あとで詳しいレシピを書きますね。でも、その前に……」


 私はお湯を沸かしている間に、湯呑に桜の塩漬けを入れる。それからゆっくりとお湯を注ぎ淹れると、砂糖細工のようなやわらかな花弁がふうわりと開いた。


「わあ、いい香り。春って感じですね」

「そうですね。ええと……、これを縁側に持っていきたいんですけど、案内してもらってもいいですか?」

「はーい、こっちです! あ、これ着てってもらっていいですか?」


 その手には、桜色の羽織。彼女はそれを私の肩にかけた。


「な、なんですか?」

「これ、寿葉さんに羽織ってきてほしいって西御門さんが。おばあちゃんが一番お気に入りだった羽織です」


 それは美しい羽織だった。袂から肩にかけて桜色の生地に、白い花びらが舞い上がるように広がっている。


「おばあさまの……。私が着ちゃっていいんですか? すごく大事なものなんじゃ」

「祖母の思い出の品です。でも、だからこそおじいちゃんは喜ぶんじゃないかなって。……西御門さん、おじいちゃんにおばあちゃんのお茶を飲ませようとしてるでしょ」

「……そうかもしれません」


 紗枝ちゃんのお家にやってきて、『さくらのお茶』を準備する。それはすべて、あの憑き物のおじいさんのためなのだろう。


「さくらのお茶って、おばあちゃんのお茶じゃなくて桜茶ってことだったんですね。ぜんぜん気づかなかったな」


 紗枝ちゃんは桜茶を見おろして、ぽつり、零した。


「私は小さかったから、知らなかったんですけど。おばあちゃんは、よくおじいちゃんとこの時期には桜茶を飲みながらお花見をしていたんですって。夜にふたりだけでこっそり。……って言っても、お父さんたちにはバレてたんですけどね。ほら、八重桜って、花の時期が長いじゃないですか。咲いている間はずーっと、夜の縁側を陣取ってたらしいです。誘うのはいつもおばあちゃんからで、無口で不器用なおじいちゃんはされるがままだったみたい。でも……」


 もしかしたら、ずっと楽しみだったのかも。彼女は少し泣きそうな顔で笑った。


「……死んでからも、忘れられない味があるのってたぶん、すっごく強烈っていうか。幸せだったんじゃないかなって思うから。おじいちゃん、ホントに好きだったんだろうなって思ったら、……なんか、胸がぎゅっとしたっていうか」

「……そうですね」


 忘れられない味。それだけ愛されるのは、並大抵のことではない。


「縁側は廊下を曲がってまっすぐです。私はここで待つように言われているので、なにかあったら声かけてくださいね」

「ありがとう、紗枝ちゃん。行ってきます」


 私はおぼんに湯呑を二つ乗せて、縁側で待つ時雨さんのもとに向かった。


 今夜は月が明るい。窓の向こうでは月光が花を暗闇にほのかに輝かせ、浮かび上がらせていた。


 辿り着いた先で、彼はすでに庭に足を放り出して、ぼんやりと宵の八重桜を眺めている。


 時雨さんの肩には、例の着物がかけられている。極万筋の、憑き物落としを依頼された品だ。


 それをまとう時雨さんは、どこかいつもとは違う老成した雰囲気を漂わせているようで、私は一瞬目を奪われる。


「……寿葉さん?」

「あ……、お茶を淹れました。空茶で申し訳ないんですが」


 言葉は、それ以上続かない。


 ふいに夕の風がたって、桜を攫ったからだ。


 もしかしたらその風は、さくらさんの羽織の内から吹き上がったものだったのかもしれない。


 花弁が散る。視界をも埋め尽くす。羽織の柄か、八重桜の花弁か、もうわからなくなるほどの桜、桜、桜。


 視界を覆う桜吹雪に、とうとう目の前にいる時雨さんの姿も掻き消えた。


 そして――、気づけば私の目の前、つい先ほどまで時雨さんのいた場所に見知らぬ青年が腰かけていた。


 桜に埋め尽くされた視界にはいまだ霞がかり、夢でも見ているような心地だ。そのせいか、切れ長の目が印象的な、表情に乏しい彼の横顔が無性に愛おしくなる。


(会ったこともない人のはずなのに)


 それでも、知っている。


 この人は実は照れ屋だということも、お花見だと言っているのに、八重桜ではなくこの桜の羽織を着ている私の姿を見ていることも。


 なにせ指摘をすれば、「羽織のソメイヨシノの染めが気に入っているんだ。これだって立派な花見だろう」と言い、「あら残念、私を御覧なのかと思っていましたのに」と私が笑えば、「……君だって花みたいなものだ。名前がさくらなんだから」とさらに言い訳をするのだから。


 可愛い人。本当に、可愛い人。なにより愛おしくて、大切だった人。


 だから、もう着るには野暮な時期と知りながら、私はいつもこの羽織を着てしまう。


『さあさ、お茶も淹れましたから』


 喉から自分のものではない声が零れ落ちる。


 湯呑を差し出す白魚の指も、羽織の下に着こんだ新緑色の着物も、今見てしまった記憶も、なにもかもが私のものではなかった。


『ありがとう、さくら』


 返ってきた声も、時雨さんのものではない。


 それでも懐かしさと愛着を覚える、硬質な声。


 本当に、夢を見ているようだった。そう思う程、不思議な浮遊感のなかにあった。

私の差し出したお茶を飲んだ青年は、ほうと息を吐いて庭をじっと見つめる。


『おいしいよ、さくら。……おいしい。ずっと言いたかった。でも、言えなかった。私は口下手で、……すまなかった。君には苦労をかけたし退屈もさせただろうね』

『あら、そんなことないわよ。だってあなた、ものすごくわかりやすいもの。顔になにを考えているのか、全部書いてあるのよ。だから私、あなたのお嫁さんに慣れて幸せだったわ』

『どうして』

『あなたに愛されていたんですもの。だから本当の本当に、幸せだったのよ』


 ころころと、鈴の音にも似た軽やかな笑い声が口から零れる。


『でも、言葉にしてもらうのって嬉しいのね。ああ、どうしましょう。すごく嬉しいわ』

『……うん。ありがとう、さくら。私のところに嫁いできてくれて。僕も、幸せだったよ』

『嫌だ、そんなこれきりみたいなことを言って。これからはずぅっと一緒にいますよ。嫌だって言っても離れてなんてやりませんからね。だって私たちは夫婦なんですもの』


 胸に染み入る優しい声に、目頭が熱くなる。私の経験ではないはずなのに、懐かしさと愛おしさがあふれ出た。にじむ涙の向こうで、また巻き起こった桜吹雪が私たちを包む。


 甘い、甘い香りに幸せの気配は潜んでいた。

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