老爺と着物
その夜。……といっても、七時を半分過ぎた頃合い。
この辺りの住宅街は日が沈むと一気に水を打ったような静寂に包まれる。聞こえる音と言えば、庭の鹿威しの響きとときおりとおり過ぎるバイクのエンジン音くらい。
まだ学校から帰らないしずくちゃんを待ちつつ、先に夕飯をいただいてしまった私と時雨さんのお皿を洗っていた時のことだ。
作業場から、泥酔しながらヒップホップにでもチャレンジしているような物音が響いてきた。
これは間違いなく時雨さんが発生源だと予想し、私は手を拭きながら様子を見に行くことにする。
「時雨さんっ? 大丈夫ですか?」
作業場の襖の前から声をかけるも返事はない。先ほどと打って変わってしんとしている。
だけど、なんとなくなかでは布団か着物の山にくるまって身を隠している時雨さんの姿があるはずだと思った。箪笥にでも頭をぶつけていたら大変なので、もう一度声をかける。
「時雨さん、返事をしてください」
「……はい」
どうやら無事だったようだ。弱々しいものの返事はすぐにあった。
「入っても大丈夫ですか?」
「……お願いします」
「じゃあ、失礼します」
そっと襖を開くと、案の定、部屋の隅にこんもりと積まれた布団に頭を突っ込んでいる時雨さん(最初は仮眠用かと思っていたけれど、もしかしたら避難場所なのかもしれない)。その奥に広げられた着物には、やはり例のおじいさんがうつむき気味に寄り添っている。ここ数日、すっかり定番となった光景だ。
「あの、時雨さん……、大丈夫ですか?」
時雨さんが怯えまくっているおかげで私は幾分冷静だった。
とはいえ、やはり怖いのはたしかなので壁伝いにおじいさんから距離を取りつつ、時雨さんに近づいてみる。布団からそっとはみ出た背中に触れると、大げさなくらいびくっと震えられてしまった。
(やっぱり苦手なんだろうな、怖いの……)
たしかに部屋に突然、さっきまでいなかったおじいさんが現れたら驚くのも無理らしからぬことかもしれないけれど。彼の場合、あまりにも普段とのギャップがありすぎて、にわかには信じがたい気分になってしまう。
「……さくらのお茶……」
そして、老爺は今日も今日とて『さくらのお茶』をアピールして姿を消した。
煙のように。陽炎のように。もうそこには誰の気配もない。
「時雨さん、もう見えなくなってしまいましたよ。大丈夫ですから、顔を出してください」
「…………」
返事はない。ただの屍のようだ。
固まること数分。時雨さんはようやく、恐る恐るといった様子で布団から顔を出した。ちょっとだけ泣いてしまったのか、睫毛が涙に濡れているのがまるで子供のようで、私はやはり気が抜けてしまう。
(こういうところなんだろうな……。初対面で辛辣なこと言われたのに、毒気を抜かれちゃうのって)
あれ以来、この人が真摯に応じてくれているのもあるけれど。つい、じっと見つめてしまえば、時雨さんもなにか言いたげな顔で私を見た。
「……僕の顔に、なにか?」
「いえ、別になにも」
「絶対にそんなことないでしょう。大の大人、それもいい年をした男があんな老人に怯えて布団のなかに引きこもってみっともないとか、あまりの情けなさに臍で茶が沸きそうとか、まだミミズのほうが勇敢なんじゃないかとか思っているに違いありません」
「そこまで思ってませんったら」
「そこまでということは、少しは思ったんですね?」
そら見ろ、という顔をされた。相変わらず自己評価が低いというか、マイナス思考というか。
「いいですか、僕は怖がってなんていません。突然出てくるのが心臓に悪いだけです。どっきりを仕掛けられるのが好きな人間はいないでしょう? そういうことです」
続けて、食い気味に否定される。
彼曰く、西御門時雨という男は怖がりなのではなく、驚かされるのが苦手なだけとのことらしい。
毎度物音に驚いて様子を見に来るたびに繰り返されるこのやりとりに、どこか子供っぽい意地すら感じる。当初感じたこの人の大人びた印象はとっくに覆りつつあったけれど、私はいつの間にかそんなところに親しみすら覚えていた。
「……おじいさん、今日もお見えになったんですね」
「ここのところ毎晩ですよ。まったく……山田さんが嫌気をさすのもわかります……。今日は彼女が桜を届けてくれたんでしょう。お茶にはいつできるんです?」
「六日……と言いたいんですけど、明日から雨の予報ですから……。天日干しをするので、余裕をもって八日は欲しいです」
雨と時の流れが、ソメイヨシノの花をすべて押し流してしまうだろう。次にあの淡い桜色に出会えるのは来年の春だ。それでも、八重桜はまだまだ見ごろが続く。お花見には間に合うはずだと確信をもって私は答えた。
「わかりました。それでは八日後、桜茶ができ次第、憑き物落としを試します。その時は貴女も手伝ってくださいね」
「……え、私もですか?」
想定外の質問に、私は目を瞬かせた。
「でも、私は着物のことなんてぜんぜんわからないですし、ご一緒してもなにもできません」
「構いません。桜茶の案を出してくれたのは貴女だからです」
「……ちなみにひとつ聞きたいんですが、それは、護衛的な意味での同行ですか? それはちょっと……」
「出張手当もつきますよ」
そういう問題じゃない。
「契約外業務ということで、時給は割増です」
そういう問題じゃない。
私が黙ったままいると、時雨さんは根負けしたように長息した。
「……手伝ってほしいだけです。僕の淹れるお茶はなぜか茶葉が大量に混入してまずいので、憑き物の求めるものにはならない」
どういう淹れ方をしたら茶葉が大量に混入するのか、ぜひ一度詳しく話を伺いたい。
「それにひとりでは……いえ、……駄目なら、無理にとは言いませんよ」
「いえ……。そういうことでしたらご一緒させてください。お茶くらいなら、いくらでも淹れますから」
「……そうですか」
そう呟きつつ、時雨さんは着物に視線を移した。
「さっきから、着物を見ていたんですか?」
時雨さんは私の質問に頷いた。怖いのなら仕舞っておけばいいのに、ここのところ毎晩のように彼は着物を眺めては、憑き物と遭遇して怯えている。
彼なりに考えあってのことなのだろうし、私が口をはさむべきではないかもしれないけど、少し心配だ。まだ若いから心筋梗塞の心配はいらないかもしれないけど、心臓にはあまりよろしくなさそうだ。
「よくよく見ることで、見逃していたものにも気づけるかもしれませんから」
そう言って、注意深く着物に近づいた時雨さんの後ろから私もそっと生地を見てみた。
紺の無地の着物かと思いきや、よく近づいて見ると細い紺の線が無数にひかれた白地の着物だとわかる。
「私、着物のことってよくわからないんですけど……、なんだかおしゃれですね。近くで見るのと遠くで見るのとで模様が変わって見えるというか」
「これはいいものですから。極万筋と呼ばれる柄で、万筋というのは一幅のなかに万本もの縞があるという意味ですね。千筋もあって、こちらは万筋より筋と筋の間隔が広いんです。さらに、近くに寄らないと無地に見えるほど細いものが極万筋と呼ばれます」
「同じ柄でも太さによって名前が違うんですね。そういうのも全部覚えてるんですか?」
「当然です。僕は悉皆屋ですよ? 貴女が料理や食材の名前を覚えるのと同じです」
私は彼ほど知識があると誇れなかったので、着物にそっと目を落とした(そもそも着物よりも日常に即した知識なので、比較対象ではない気もする)。裾の部分にははっきりとしたシミが残されている。
「……このシミ、ちゃんと落ちるといいですね」
「それは問題ありませんよ。超音波を使って汚れを落とせますから。ただ、憑き物がついていると、落としたシミがもとに戻ることもあるので……、先に僕が手を入れる必要はありますが」
「戻っちゃうんですか? どうして?」
「それはわかりません。科学的には解明できないので。おそらく、想いが染みついてしまっているから……」
それは、落としたほうがいいものなのだろうか。そのままにしておいてはいけないのだろうか。
ふと浮かんだその疑問を、私は結局口に出すことができなかった。
ただ、門外漢なりに思う。抱いた苦しみを永遠に抱え続けるのは、きっと苦しいだろうと。
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