そして事故物件で一夜

 はたと目が合うなり、おじいさんの姿が煙のように溶けて消えてしまったのだ。まるで白昼夢でも見ていたような心地に、私は言葉もなく固まった。


「い、今の……っ? ええ?」


 おじいさんがいたはずの場所に手を伸ばしてみる。なにもない。なにも触れない。ぶんぶんと手を振ってみても、指先は宙をかすめるばかり。


 幻覚、幽霊、4DX。そんな単語が頭のなかを飛び交う。


「し、時雨さん、おじいさんがいたって言ってください。見ちゃったのは、私だけじゃないって。いましたよね、今ここに?」


 まるで青サバのように青ざめた時雨さんは、私からさっと目を逸らす。その態度が、なにより雄弁に答えを物語っていた。


「…………嫌な予感はしていたんです。貴女を、巻き込むつもりはなかったんですが」

「……あの。それってどういう……」


 意味ですか?


 それを聞くより早く、ドタドタと響く足音が近づいてきた。


 私と時雨さんは、思わず一緒にびくっと飛び上がって振り返った。


 そして勢いよく扉から飛び込んできた、般若のように目を吊り上げたしずくちゃんを見て胸をなでおろす。よかった、おばけじゃなくて……なんて。


「あああ! ちょっとあなたっ、なんでお兄ちゃんの作業の邪魔してるのよっ!」

「いえ、これには理由が」

「早く出て!」


 ぐいっと肩を掴まれ、私はしずくちゃんによって作業場から引きずり出された。


 彼女は器用にも、後ろ手でぴしゃりと襖を閉めた。作業場に、絶望的な光を目に宿した時雨さん一人を残して。


「こんなところで油売ってないで、早く部屋で休んだらぁ? もう遅いんだから、営業時間外でしょっ」

「はあ、じゃあ……休ませてもらいます」


 もろもろ気になりすぎることはあったけれど、私はしずくちゃんに背中を押されて階段を駆け上がった。


 そのまま、六畳間へと押し込むように私の背中を押す彼女を振り返る。


「あの、時雨さんって着物のお仕事をしているんですよね? 霊能者とかじゃなくて」

「霊能者? 意味わからないんだけど。お兄ちゃんは悉皆屋よ」

「……しっかいや?」

「えっ、うそ。悉皆屋も知らないの? それくらい自分で調べたらぁっ」


 そして、ピシャリ。彼女は勢いよく私の部屋の扉を閉めた。


 私はしばらくなにが起きたのかもわからず、扉を見つめて立ち尽くす。


(しっかいや……。しっかいや?)


 その言葉に、答えのよすがはあるだろうか。


 私は枕元を振り返り、放置してあったスマホを手に取って、検索画面に文字を入力してみた。


 ――悉皆屋。着物の専門家。


 悉皆とはつまり、『すべて』『ことごとく』の意味を持つ言葉。


 彼らはクリーニングから、仕立て直しまで着物に関する万事を承り、各地にいる専門の職人の仲介をしてくれる。時には、直接手をかける人もいる、……らしい。


 まぶしい画面に羅列された情報を、ひとつずつさらっていく。


 洋服が世間を席捲する今時分。悉皆屋の数は年々減少するばかりである。


 けれども、日本古来の着物という文化の保護を考えた時に、けっして消滅させてはならない仕事でもある、とな。


 そこまで調べて、私はスマホを枕元においた。それから布団に入る。


(じゃあ、あのおじいさんはどういうことだったの……?)


 誰だったのだろう?


 どこへ行ったのか。どうして消えたのか。

 私の幻覚? それとも……。


 気にかかることばかりで、私は結局またスマホに手を伸ばした。


 今度は検索画面に『鎌倉 心霊スポット』と入力してみる。


 その結果、思った以上にたくさんの心霊スポットがあって、ちょっと怖くなって見なかったことにした。たしかに、鎌倉時代にはすでにあった街なのだから、過去にいろいろあったのはわかるのだけれど。


 ちなみに西御門邸の近所にもホラースポットがあった(こちらも見なかったことにしていいかしら)。


 でも、きっとそういうことではないはずだ。


 明日、朝になったら時雨さんに話を聞いてみよう。


 教えてくれるかはわからない。


 もしかしたら、もしかしなくても家政婦が立ち入るような問題ではないかもしれないけれど、見てしまったからにはどうにも気にかかる。


 これ以上ひとりで考えても、答えは出ないはずだ。私はまぶたを閉じて、今度こそ睡魔が訪れるのを待ったのだった。

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