滞在初日のホラー体験
その後、しずくちゃんが帰ってくる気配はなく。時雨さんが作業場から出てくる気配もなく。
私は先に寝支度を整えさせてもらった。
洗ったばかりの髪をタオルで拭いてから、押入れに仕舞われた布団を一式引きずり出して、壁際に敷いてみる。真ん中にもスペースはあるけれど、昔からなんとなく壁際が好きだから。
ゴロリと寝転がり、充電中のスマホに手を伸ばす。目覚ましは朝六時の朝食に間に合わせるために四時半起きに設定しておく。
そして、近場のスーパーを探すべく、地図との格闘を始めた。
その時、隣の部屋に人の気配を感じた。すぐに階下の浴室から水の音が聞こえてくる。おそらく、しずくちゃんが帰ってきていたのだろう。
私は地図の読解を切り上げ、スマホを置いて電気を消した。あまり遅くなると朝が辛い。そのまま眠ってしまおうと、目を閉じた時だ。
階下から茶箪笥を壁に投げ飛ばして粉砕したような轟音が響いてきたのは。
「な、なに?」
私はカーディガンを羽織って、慌てて部屋を飛び出す。
そのまま階段を駆け下りて、リビングの明かりをつけた。
奥にあるダイニングテーブルは先ほど後にした時のまま。埃避けのために時雨さんとしずくさんのお茶碗がひっくり返っている。平穏そのものの光景が広がるだけだ。
それなら、きっとさっきの音の発生源は作業場だ。
私は固く閉ざされた扉に声をかけに行く。
「時雨さん? どうしました? 大丈夫ですか」
返事はない。
もしや、転んで頭でも打ったのでは? そんな疑問が胸をよぎり、私は猛烈な不安に襲われた。
今日のおやつ時にその思い違いで失敗をしたのも忘れ――
「時雨さん、開けますよ」
――私はひと声かけて、襖に手をかけた。開け放すと、煌々と灯された光が襖から暗い廊下にあふれ出る。
部屋には見覚えのない老爺が一人と、成人男性がひとり入るくらいの謎のふくらみと化した着物の山。いや違う。着物の山に籠城しているらしい時雨さんの姿があった。
頭隠して尻隠さず状態になっていて、いっそ強烈なほどにシュールな後姿だ。
どうやらひっくり返した箪笥のなかにあった着物に潜っているらしいのだけれど。
……これってつまり、どういう状況?
「あ、あの、時雨さん。お客様ですか? すみません、私……気がつかなくて」
「客じゃありません」
布団の山のなかから、幾分くぐもった声が返ってきた。
「でも、おじいさまが」
「いませんが?」
「いえ、いますけど」
「僕は知りません!」
突然のストライキ宣言をされた。
「そう言われましても」
「ああぁ、ですから、僕は知りませんったら……。へたを打ったんだ、ちくしょう……気づかなかった……!」
私は困り果てて、着物に頭を突っ込んでぶつぶつ呟き続ける時雨さんと老爺を見比べる。
老人は、紗枝ちゃんが持ってきてくれた着物の前にたたずんでいた。
さて、ふたりの間に一体なにが起きたのか。
一切合切が不明だというのに、時雨さんは全力で接客を拒否している。とはいえ、まさか私が仕事を引き継ぎできるはずもなく。
「……そうだ。私、とりあえずお茶を淹れてきますね。お客さまにお出ししますよね、やっぱり」
沈黙に耐えかねて一時撤退しようとしたところで、はしっと即座に伸びてきた手に腕を掴まれた。
大きな手のひらは意外なほど熱く、力強い。
見おろせば、時雨さんと目が合った。着物からのぞいた顔は相変わらず作り物のように整っている。
だから、その手も無機質な冷たさを帯びているのかと思っていたのは、どうやら私の間違いだったらしい
「……なにもいりませんから、僕から離れないで」
さらには、勘違いしてしまいそうになる言葉を繰り出され、私はますます混乱した。
「ああ、言っておきますけど、言葉通りの意味で他意はありませんから、思いあがらないでくださいね! ただ、置いていかれても困るんですよ。わかりますよね、不法侵入の不審者と密室で過ごしたくない気持ち!」
……と、今度は猛烈な早口で言われた。
「はあ、不法侵入なら警察に通報を」
「いいですから! 言葉の綾なので! 貴女はただ僕のそばにいてくださいっ」
わからない。西御門時雨という人がわからない。
それでも、電動マッサージ機かとつっこみたくなるほど震えている時雨さんの手を見ていると、胸を高鳴らせている場合ではないことくらいわかる(そもそも私は、今日出会ったばかりの人に高鳴る胸は持ち合わせていない)。
しかも、現状では手がつながっているおかげで、私の腕まで高速でぶるぶるしている。別の意味でドキドキしてきた。警察が駄目なら、救急車を呼んだほうがいいのでは……と心配になってきたという意味で。
「……お茶……」
ぶるぶるぶるり。
また一層激しくなった時雨さんの震え。
そのきっかけは、不法侵入だという老人の呟きだった。
消え入りそうなほど小さな声を、時雨さんはどうやら猛烈に恐れているらしい。
私は改めて項垂れている老爺を見やった。髪はすっかり白く染まり、その顔には無数のしわが刻まれている。穏やかな目元に滲むのは、ものかなしげな色だ。
見れば見るほど、恐怖の対象には思えない。
「……さくらの、お茶……。ちょうど時期だろう……。ああ、飲みたいなあ」
(……さくらのお茶?)
どこかで聞いた言葉だ。
ああ、そういえば夕暮れに来た紗枝ちゃんがそんな話をしていた気がする。おじいさまが、さくらさんという亡くなったおばあさまのお茶をしきりに飲みたがると。
思い出したところで、信じられないことが起きた。
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