家政婦は来た

 そして、職を失った私。

 最悪なのは、解雇と同時に住まいも失ったという点に尽きる。就職以来、私は料亭の寮暮らしをしていたからだ。


 泣く泣く都内某所の実家に帰ったところ――、「それなら」と、母から勧められたのが住み込み家政婦の仕事だ。


「今ね、ちょうどお母さんの習い事先のお友達が、家政婦さんを募集しているの。料理とか、洗濯とか、家事ができる人を探しているんだって。渡りに船じゃない? うふふ。あんた、料理は得意だし、簡単な家事ならできるでしょ? だから、さっき電話でうちの娘はどう? うふふ。今これこれこうでって事情を説明したら、内定もらっちゃったわ。明日から来てほしいって。うふふ」

「いやいやいや、ちょっと待って」


 うふふじゃない。私は勝手に次の職場を決められて、はいそうですかと頷けるほど柔軟ではない。


 たしかに渡りに船かもしれないけれど、前職の経験もあり、私の警戒心はマックスだ。そもそも、この不景気に家政婦を募集するお家なんて珍しいにもほどがある。

 なにもかもが怪しい気がしてきて、私はさらにためらった(なにせおいしい話には裏があるというのが通念なもので)。


「……ちなみに、習い事ってなに?」

「射撃訓練」


 その一言で疑惑は決定的なものとなった。家政婦を募集できるお家の奥様で、射撃訓練に通っている人とは、いったいどこのCIA諜報員なのか。


 私の疑念を感じ取ったらしい母は、朗らかに笑うばかり。


「鎌倉の地主さんでね、旦那さんはもう亡くなっているけど、あんたと年の近い息子さんと娘さんがいらっしゃるそうよ。なんでも家事が苦手らしくてね。うまくいったら玉の輿なんだし、頑張ってきなさい」


 母のなかではすっかり決定事項になっているようだ。


「待ってよ、私まだ受けるなんて一言も……」

「あら、えり好みをする余裕があるの?」


 じっとりと見つめられて、私はぐっと言葉を飲み込んだ。


 貯蓄がゼロというわけでもないけれど、税金だって毎月情け容赦なく引かれている。食費だって馬鹿にならない。

 すでに成人しているからには、親のすねをかじる選択肢もない。


 それならせめて、次の仕事が見つかる間まででも働かせてもらうべきなのかもしれない。


 私は覚悟を決めて、母の提案を受け入れた。


 旅立ちの前夜だ。その夜は、昔使っていた自分の部屋で休むことにした。

 本棚には懐かしい高校の参考書やレシピ本が今もまだ詰まっている。


 私は和食レシピの本を引っ張り出して開いてみた。どのページを見ても、豊富な写真が料理の手順を事細かに教えてくれる。


 初めて見た時は、わくわくしながら自分なりのアレンジを考えてみたりしたものだった。


 だけど、今はなにも浮かばない。もしかしたら、料理への情熱がすっかりなくなってしまったのかもしれない。


 そう思うと、少しだけ悲しくなって、私は少しだけ泣いた。


 ずっと料理ばかりしてきたから、いざそれを失うと、寄る辺を失くした迷子になったような気分になったのだ。


 それでも、うじうじと落ち込んでばかりいるのも悔しくて、気を逸らそうとなにげなくスマホを見る。


 すると、着信が一件入っていることに気がついた。


 ……恩師、橘さんだ。


 私は折り返しかけなおすべきか悩み、結局行動できないまま夜更けを迎えてしまった。


(出られないよ、今の私には……)


 あれだけ可愛がって育ててもらった結果がこれでは、どんな顔をして話をすればいいのかわからなかったから。


 * * *


 翌日、私はさっそく新しい職場のある鎌倉へ向かうべく準備を済ませた。


 鎌倉は、東京の品川駅からJR横須賀線に揺られること一時間程度でたどり着く、首都圏の古都だ。『いい国作ろう鎌倉幕府』なんて歴史の授業で習った街でもある。


 そんな歴史の教科書にも載るような街が、今日から私の住処になる。


 一週間用の大容量キャリーケースを引きずって、私は出陣する武将の気分でマンションを出た。


(そういえば、鎌倉なんて学生の時に友達と遊びに行ったきりだなあ……)


 産地の生シラス丼を食べたのが懐かしい。

 透明感のあるぷりぷりのシラスを、炊き立てのふっくらご飯の上に乗せて、醤油をほんの少し垂らしていただくともうたまらないのだ。


(……いやいや、シラスを食べる妄想している場合じゃない)


 現実逃避を兼ねて、うっかりご当地グルメに意識をとられてしまったけれど、私はこれから遊びに行くわけではなく、仕事に行くのだ。気を引き締めないと、と気合を入れなおす。


 まずは品川駅まで出た私は、さっそく横須賀線に乗り換えた。

 武蔵小杉、新川崎、横浜……よく名前の知られた町を、電車は飛ぶように過ぎていく。


 次第に、窓の外の景色から高層ビルが姿を消し始めた。

 やがて増えていく緑に覆われた、のどかな住宅街をガタゴトと揺られて目的地の鎌倉駅に到着する。


 私はキャリーケースを引っ張りつつ、流れる人の波にのってレトロな雰囲気の駅舎を出た。平日のためか、観光客の姿は少ない。


 久しぶりに降りた街だけど、抱く感想はいつも同じだ。


 ここは空が広い。東京のような高層ビルは見当たらず、落ち着いた街並みが広がっている。ロータリーに停まるバスの大群を横目に、私はスマホの地図アプリを開く。


(住所は……、小町通のほうかな)


 鎌倉駅東口を出て、左手に商店街のゲートがある。

 その入り口に大きく『小町通』と掲げられた看板に向けて、私は吸い寄せられた。


 地元民や観光客でにぎわう通りは魅惑と誘惑の地だ。


 なぜなら、軒を連ねるカフェやお土産屋さんから、焼き立てのお煎餅や甘いパンケーキの香りがあちこちから漂ってくるのだから。


 寄り道したくなる気持ちをぐっとこらえて、戦場へと向かう。直後、私は知らない男性に顔を覗き込まれた。

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