サクラサク

男体盛りの呪い

 ——料理人になりたかった。


 いつからこの道を志したのか、今ではもうはっきりとしないけれど。それでも、私の夢は板前になることだった。


 板前。すなわち季節の食材を使い、物語性のある一連の料理を作り上げる匠。


 このご時世になっても、厨房にはまだまだ女性は少ない。厳しい世界であることも承知の上で、調理学校を卒業した私はこの業界に飛び込んだ。


 第一関門は、修行先の店を探すことだった。


 あちこちの料亭で『お祈りメール』こと不採用通知を受け取りまくり、ついに橘さんという師匠に拾ってもらえたのは、かなり運がよかったのだと思う。


 彼は厳しいけれど、愛情をもって弟子を鍛え上げてくれる人だった。


「よく見て学べよ。見て盗め。言葉で伝えられるようなモンじゃねえんだからな。気が遠くなるくらい、同じことを繰り返して感覚を身体に叩き込め。そうしているうちに、自然と身体のほうから動くようになる。一流の料理人ってのは、そうじゃねえといけねえ」


 それが、橘さんの口癖だ。


 一人前の板前になるための修行では五報――つまり、生、煮る、焼く、揚げる、蒸すという調理の行程のこと――をすべて修める必要がある。


 これを直接、厨房という現場で学び始めることからすべては始まるのだ。


 下積み時代を始めた新人は追い回しと呼ばれ、掃除や調理器具の洗い物を中心に、厨房仲間のまかない作りや野菜の下処理を任される。


 雑務をこなしながら、まずは一日や年間をとおした調理場の動きや先輩たちの動きを身体に叩き込むのである。


 そして、一年か二年経つ頃に、今度は『先付け』と呼ばれる仕事を任せてもらえるようになる。


 ここでようやく、先輩たちが作った料理の盛りつけを担当できるのだ。実際にお客様の目に触れる仕事だ。とはいえ、まだまだ駆け出し。私はちょうど一年で、先付の仕事を任せてもらえるようになった。


 ここに至るまでも、決して順風満帆だったわけではない。理不尽なことで叱られたのも一度や二度ではなかった。それでも手ごたえを感じ始めていた、その矢先だった。橘さんが倒れたのは。


 ぎっくり腰だった。たかがぎっくり腰と思われるかもしれない。されど、ぎっくり腰。


 早朝から夜半まで厨房に立ち続ける板前の仕事は苛烈だ。とてもではないけれど、仕事は続けられないと判断した彼が引退をすると、私の人生はころころと転落し始めたのである!


 調理場の采配を任される板前が変わると、当然その場の雰囲気も変わる。

 たとえるのなら、小学校のクラスの担当教諭が変わるようなもの。


 そして、私と新しく板前となった大井さんの仲は、最初から最後まで最悪だった。


「おまえがオレのモノになれば、毎日あくせく働かなくたって飯を食わせてやるぜ」


 それが大井さんの口癖だった。彼は、女が厨房に立つことを反対していたので、私とはそりがあわなかった。からかっているつもりだったのかもしれない。


 それでもモノ扱いをされては、料理人のはしくれとしても、女としても納得がいかない。


「自分の食事くらい、自分で作れますから私のことは気にしないでください」


 当然、私はそうきっぱりと断った(なんなら私が食べさせてあげましょうか、くらい言えばよかったと、後にさらに後悔することになるとは思いもよらず)。


 私が大井さんに言い寄っているといううわさが流れ始めたのは、その直後だった。


 噂の出どころは大井さんで、その理由は嫌がらせだったのだろう。


 そして、噂は狭い厨房内ですぐに蔓延してしまった。いくら違うと否定しても、先輩には「職場はハッテン場じゃないんだぞ」と頭ごなしに叱られ、同期には「おれはどう?」とからかわれ。


 そんな日が続いて気が滅入っている間にも、この騒動は女将の耳にも入り、ついには勤務態度を正すよう言いつけられる始末。


 さてどうしたものかと思い悩んでいるところで、極めつけの事件が起きた。


 早朝から厨房で駆け回り、疲れた体を引きずって戻った寮の一室。

 暗闇のなか、私はいつものように手探りで電気をつけた。


 ぱっと明るさを取り戻したワンルーム、そのど真ん中にはレオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図じみた大の字を披露する男……大井さんがひとり。


 元ネタを意識したのか(?)、彼は全裸だった。


 全裸なのに、ちゃっかり自分の身体にお刺身を盛りつけている器用ぶりを披露していた。正直に言う。そんなもの、披露されたくなかった。


「近江、気をつけて食えよ。オレは熱い男だからな……。下手に触れれば火傷するぜ」


 彼のその言葉を聞いたが最後、私の記憶はすっぱり途切れている。


 後から聞いた話によると、深夜の寮内に女の悲鳴がひとつ響き渡ったそうだ。


 どうやら私ははだしで逃げ出し、パニック状態のまま警察に通報。すぐに駆けつけてくれた警察官によって大井さんはパトカーによって連れ去られ、私は事情聴取や手続きに追われることになった、ということらしい。


 そして、夕刻になってようやく解放されるも、寮や職場に戻る気にはなれず、カプセルホテルに引きこもった。修行を始めて初めてとった有給休暇だ。


 その翌朝、報告も兼ねて恐る恐る出勤した私にもたらされたのが容赦のない解雇通知だった。


 理由は勤務態度不良。あまりにも奇々怪々。いや本当に、どうして?


 それでも、調理場でもっとも重要視されているのは協調性だ。


 多くの料理人が息をひとつにして、お客様へ一連の食事をお届けする。

 私はその輪のなかに入ることができなかった。ただそれだけだった――



 ――などと、納得できるはずもなく!


 それはもう不満と未練たらたらだった。噴飯ものだ。だけれども、もう一度彼らのもとに戻ってやっていけるかと問われると……、その答えは否だった。


 結局、私は師匠である橘さんに守られていただけなのだろう。その庇護からはずれると、一人で戦い抜く力も気力もない。


 今ではもう、料理をするのも怖かった。

 特にお刺身なんて絶対に見たくない。こんな私が、料亭の調理場に戻れるはずもないのだ。


 こうして、私の料理人修行は不幸の盛り合わせのような最後を迎えた。


 やけ酒をして、お昼時の日比谷公園でちょっとだけ泣いたのが昨日のことだ。一番恐ろしいのは、料亭で過ごした二年間にはほかにも話のタネになりそうな事件が山ほどあったという点だろう。


 ……とりあえず。お酒の肴に、ひとくちいかが?

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