子を食う魔女とメアリィ

レライエ

魔女とメアリィ

 事実として。

 ハルツ地方には魔女の伝説が多く残っていて、ミステルの森もまた、人食い魔女が住んでいたとまことしやかに語り継がれている。

 曰く、魔女の森には子供しか入れない。

 曰く、魔女の森から子供は出てこない。

 故に。

 ミステルの森の魔女は、子供を食う魔女である。

 記録上子供がいなくなったという事実こそ無いものの、その噂は戦争で森そのものが焼けるまで続いていた。









 メアリィは親の顔を知らずに生きてきて、おおよそ十八を越えたであろうという頃合にちょうど良くプロポーズしてきた男と結婚した。


 実を言うとメアリィは彼に告白されるまで男を知らず、それどころか同年代の友人さえいない孤独な少女だった。

 もう少し正確にいえばメアリィは、結婚するまでに少女が持つべき多くのものを持っていなかった。孤独故に持参金も無く、ドレスも宝石も、そして思い出も――彼女が持っていたのは癖の強い金髪と愛嬌、ヒバリのような歌声だけだった。他には何も無く、何が足りないのかさえ解らなかった。


 男とメアリィはミステルの森の側で出会った。

 それ以前のことは良く覚えていなかった、それは男の方も同じで、きっと飲み過ぎてたんだと笑った。男の大口を開ける笑い方がメアリィは好きだった、彼の行儀良く並んだ歯を見ているのが好きだった。だからメアリィも同じように笑い、それを見て男は更に笑った。


 男は多くの素敵なものをメアリィに与えた。金、旅、家、名前。酒の味と煙草の煙は好みじゃなかったけれど、歌に合わせたフルートの音色は好きだった。

 メアリィは出来る限りの素敵なものを返した。愛情、薬草の知識、あらゆる持ち物。何も無かったメアリィが初めて触れる世界の感動を、男と共に味わった。


 それはメアリィにとって初めての恋だった、身体が奥から燃えていくような感覚に浮かされて、火花のような愛を捧げた。だが――メアリィは知らなかった。愛も恋もいずれは覚める儚い夢幻に過ぎないのだと。


 男がメアリィに最後に与えたのは一つの傷と一つの教訓と、そして一つの新たな命だった。もしかしたらメアリィが身ごもったことが最後の決断を後押ししたのかも知れない。

 いずれにしろ男は別な恋の船に乗ってメアリィの下を去り、輝く愛情の日々は跡形も無く消えていった。


 当然メアリィは途方に暮れた。森を離れて以来彼女は多くのことを学んできたが、それは一人の男から得られる程度のもので、赤ん坊を抱えて生きていくのに充分な知識ではなかった。

 男の残した良心の欠片が一月分の食費にしかならないと悟った時点で、メアリィは赤子を背負い町を出た。あてどなく歩いているつもりだったが実は、心の何処かにその答えを持っていたのかも知れない。気が付くとメアリィは森の入り口にいた。自分と男が出会った場所、メアリィが始まった場所、ミステルの森。


 そこが何と呼ばれているのか勿論、メアリィは知っていた。子供しか入れない森、子供が出てこない森。子供を食う魔女の住む森。そこにメアリィはやって来た、生まれて間もない我が子を背負って。


「ごめんなさい」

 メアリィは泣きながら赤ん坊を強く抱きしめた。「ごめんなさい、ごめんなさい。可愛い子。あなたは何も悪くない、ただただ、私が何もかも悪かったの」


 赤ん坊は泣かなかった。全てを悟っているのか、何も知らないのだろうか、毛布にくるまれて大人しく眠っていた。


「私は何も持っていないの、私の子。あなたに何も与えてあげられないの、愛しい子。私の愛はあの男と共に飛び立っていって、もう、一粒さえも残っていないの。何も持たない私の子、それでは私と同じ、きっとどうにもならなくなるの。だから」


 その声は、森の奥から聞こえた。しわがれた声、少女の声に年齢を足して喜びを抜き去った声だ。

 その姿は、森の奥から現れた。蔦の絡んだ毛皮のローブ、曲がった腰を追い越す長い白髪の上にはとんがり帽子。森で一番の古木の精霊だと言われたら信じてしまいそうな老婆だった。


「だ、だれ?」

「お前こそ誰だい、愚かなヒトの子。あぁ、名乗らなくて良いよ、名前くらい解ってる。あたしは何もかも全部ぜぇぇんぶお見通しさ」


 何しろ、と老婆は続けた。あたしは魔女だからね、と。


「ま、魔女……?」

「そうともヒトの子。知っていただろうヒトの子。ここはミステルの森、子供を食う魔女の森さ」

 よっこらせと魔女は手近な切り株に腰を下ろした。「そのつもりで来たんだろう? 何もかも無くしたっていうアンタは、そのちっちゃなご馳走をあたしに捧げに来たんだろう?」

 アンタも座りなと、魔女は言った。「怖がるこたぁないよ、怯えるこたぁないよ。手土産を持ってきたヒトの子を、魔女は手荒く扱わないもんさ」

 離れたままで座らないメアリィに、魔女は肩を竦めた。「まあアンタの自由だけどね。話を聞くのに立ったままじゃあ疲れるだろう」

「話? ……お説教ですか、魔女なのに、神父様みたいなことをするのですか?」

「勘違いするんじゃあないよ。魔女はヒトの善悪なんか気にしない、好きか嫌いかだけさ。アンタの事情に興味は無いし、アンタの決断に異議も無い」

「じゃあ、何の話ですか?」

「アタシの話さ、当たり前だろ。アタシの森に要らないものを捨てに来たんだ、話くらい大人しく聞くのが礼儀ってもんだろう?」

「要らないものだなんて……そんなこと……それにさっき、あなたはご馳走って言ってたじゃないですか」

「アタシにとってご馳走であることと、アンタにとってゴミであることは別に矛盾しないだろう。まあ聞きな、さあ聞きな。魔女の森で魔女の話を聞く機会なんて、この先アンタには二度とない」









 この森が何で『子供を食う』なんて言われてるかといえば勿論アタシ、『子供を食う魔女』がいるからだからだが、では何故アタシがそう呼ばれてるのかといえば、アタシに子供を食わせるヤツがいたからさ。

 昔から森に要らないものを捨てるヤツは多かったが、この百年ほどかねぇ、最も多いのは子供になってきた。身体の何処かが他の子供と異なってる者、病気の者怪我をした者、とにかく働き手にならない子供が先ず捨てられてね。それから徐々に歳が若く身体が小さくなっていって、それでとうとうこの前――二十年前か二百年前だったか――いくところまでいった。


 わかるかい、わかるだろうね。そう、赤ん坊さ。

 アンタみたいなヤツが、アンタよりお上品に小さなご馳走を置いていった。森中に

 響くような泣き声に駆けつけてみれば親は影も形も無くて、アンタが抱えてるのに良く似たしわだらけの小猿がアンタみたいに泣き喚いていたのさ。


 巻いてある毛布はアンタのより汚かったね、だからその子は泣かないし、あの子は泣いていたんだろう。


「あぁあぁ全くうるさいねぇ」

 随分と軽かった。こんなのが重荷になるとは全く、ヒトの世は生きづらいねぇ。「泣くんじゃあないよ、意味が無い。お前の声を聞いて憐れんで助けに来てくれるヒトはもう、この世の何処にも居ないんだから」


 言葉が通じることは無いだろうと思ったがね。思った以上にあの子は馬鹿な子だったよ、あれほど騒がしく泣いていたのに、アタシが持ち上げた途端にピタリと泣き止んだ。アタシの顔を見て、アーモンドみたいな目をまぁるく大きく見開いて、それからにこりと笑ったのさ。

 魔女を見て笑うヒトはいない、だとしたらこの子はヒトじゃあないかもしれない、アタシはそんな風に考えた。


「良いともさ、おチビちゃん。アタシもアンタもしわだらけだ、似てると思うのもしょうがないさね。ものは試しだ、アンタがヒトかそれとも魔女になるのか試してみようじゃあないか」

 その時にふと、嗅ぎ慣れない香りに気が付いた。「これはラベンダーラヴェンデルかい。ふん、魔女の森に置き去りにするには面白いお土産だろうさ」


 その子の名前が決まった瞬間だった。ラヴェンデル。同時にその子が呪われた瞬間でもある、魔女に名前を握られたらもう、魔女が手放すまで呪われるものなのさ。

 運命は定められた。アタシはラヴェンデルを魔女として育てることにした。なぁに慣れたものさ、樹液に蜂蜜、獣の血。藤花蝶の鱗粉と月明かりのしずくを一垂らし。どんな病気もどんな怪我も流れ星だ。月日も同じ。アタシはいつまで生きるけれど、ラヴェンデルはどんどん大きく美しくなっていったよ。歌声なんかまるで、ヒバリの仲間になったようだった。

 ……ふん、なんだい。解ってることだった、魔女と同じものを食べて同じように生きてみても、魔女になれるわけじゃあない。見る見るうちに大きくなったラヴェンデルは少しずつヒトになっていった。


 そしてその日が来た。

 森の外側をうろつくようになったと思ったら、ヒトの男の臭いをぷんぷん臭わせてアタシの前にやって来た。『おばあさんおばあさん。私、恋をしたわ』。ふん、やっぱりねというところさ。


「恋とは厄介な病に罹ったものだねお前も。そればっかりはアタシの薬じゃあ治せないよ」

『病じゃないわおばあさん。彼に聞いたの、本も読んだわ。女は男に恋をするの、男が女に恋をするように。心の奥から熱くなって、指の先に火が点りそう』

「それを病だというのさラヴェンデル。小さな魔女。月に魅入られたら戻れない」

『戻る必要は無いわ、彼に来てもらえば良いのよおばあさん』

「それは無理だねラヴェンデル。この森はアタシと子供の森だ。大人はけして入れないし、大人は此処に居られない。ラヴェンデル、アンタはアタシの子供だから此処に居られるけれど、恋をするならヒトの子にならないといけないんだよ」

『そんな、そんなこと……選べない、私選べないわ』


 そうは言っていたけどね、アタシには全部お見通しだった。これまでどれだけの捨て子を育ててみても、皆最後はこうやって居なくなったものだった。悩むような素振りで、いや実際悩んでいたのかも知れないがね、最後には外を目指していった。大人になるってのはそういうことだ。


「気にすることは無いよラヴェンデル。アタシは魔女だ、これまで何度も同じように出会い別れてきた、もう慣れっこさ。ただ一つ忠告しておくがね、この森を出たらお前は魔女の子じゃ無くなる。ヒトの世は厳しいものだ、お前が持っていたものも、アタシがあげたものも、何もかも全部無くしてしまうだろう。そうなったら――いや、何でもないよ」


 さようなら、若過ぎる魔女よ。アタシには全部お見通しなのさ。









「――あぁ」


 メアリィは思い出した。メアリィじゃなかった日々を。

 老婆は魔女だけれど、けして子供を食ったりはしなかった。魔女の森には子供しか入れない、子供は出てこない。出てくるのは大人だけ。恋を知り、夢を知り、月に魅入られた愚かな大人だけ。


「あぁ、私、おばあさん、私、ごめんなさい、言ってたのに、おばあさんはずっと何度も言ってたのに、ごめんなさい、ごめんなさい」

「誰に何を言われたにしろ良いんだよ、アンタは自分で考えて行動しただけだ。こうなるとは知ってたし、そうなっても構わないと思ってた。言っただろう、アタシは魔女だ、こんなものは慣れっこさ」

 静かに眠る赤ん坊を抱き上げて、魔女は優しく笑った。「ふん、本当にそっくりだよ。お前ほど、泣き虫じゃあないがね」

「おばあさん、私、私は」

「帰りな、メアリィ。お前はヒトの子、森にはけして入れない。お前の重荷は引き受けよう、お前はヒトの世界でもう一度きちんとやってみな」


 さようならと、魔女は言った。まだまだお前は、若過ぎるよと笑っていた。

 気付けばメアリィは森の入り口に立っていた。その手にはもう、何の荷物も持っていなかった。









 その森にはそれからも、色々な身分のご婦人が訪れた。


 一説には、人生の長旅に疲れ果てた彼女たちは森の入り口で、粗末ながらも暖かい宿の女主人に出迎えられたという。重荷を抱えたご婦人はそこで荷物を下ろし、身軽になって帰って行ったという。

 子供だけが住む魔女の森の伝説は残り続け、その影でひっそりと、宿は存在し続けた。重荷を受け取り、希望を与えるように。


 ヒバリのように美しく歌う女主人は、魔女避けの花ラヴェンデルと名乗っていた。

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子を食う魔女とメアリィ レライエ @relajie-grimoire

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