東京 二人の波形。

まきや

第1話


 お台場海浜公園の人工の砂浜に座る俺。時間は22時。ライトアップされたレインボーブリッジが美し明滅を繰り返している。


 スマホの明かりに照らされ、メッセンジャーの画面を開いたまま固まっている自分がいる。この前、連絡ができたのが奇跡だっていうくらい、いま俺の指は動かない。文字を打って「送信」をタップする。そんな簡単な作業がまったく出来ないのはなぜだろう。


 彼女と別れたのは今年の夏だった。場所は港区立芝公園。数々のドラマで撮影スポットになっている名所だが、俺たちにとっては勤務地の近くの公園でしかなかった。


 つきあって、同棲して、愛を育んだ。短い期間で燃え上がった炎が激しかったぶん、すれ違いで生じたお互いの意識の相違は大きな溝になった。よくランチを共にしたこの公園で話し合い、解決したかったけれど、無理だった。結局、最後はどなりあいの喧嘩になって終わった。ライトアップされた東京タワーを背景に、お互い反対方向に歩き去って行くシーンこそ、ドラマみたいだった。


 恋愛という束縛から解き放たれた俺は、そのあとの一週間を自由に過ごした。何にも邪魔されず、自棄糞気味に仲間と飲み歩いた時間は、俺を最高にアップにした。けれど友人たちが去り、一人になった俺に訪れたのは途方も無い虚しさだだった。


 ワンルームのリビングに座り、酔い醒ましのミネラルウォーターを飲み干す。ふっと息を吐いてテレビをつけてみても、意識は番組を観ていない。ちょっとでも気を抜くと、視線がテーブルの端に放置されたある物に引き寄せられている。あいつが激昂して出て行った日、忘れていった物。ピンクのペンホルダーが付いた手帳だった。


 もちろん中身を見ることなんて絶対にしない。むしろ早く返すべきと思ってる。相手の住所も知っているのだから、さっさと郵送してしまえば簡単な話だってこともわかる。けれど俺は未だにためらっている。


 できれば相手に直接、渡したいんだ――。


 スマホを手に取り、メッセンジャーの画面を開いて、安堵のため息を付く。まだ俺はあいつのフレンドにいる――自分が完全に拒否されていないという担保が俺の最後の救いになっている。けれどこのままじゃ何も進まないってことも分かっている。


 だから俺は最後の決意を文字にしたためないといけないんだ。


”お前の手帳を返したい”


 ついにその言葉を送った。既読が付くまでの合間が怖くて仕方ない。けれど案外早く、相手からの返信はやって来た。


”いらないから”


”こっちが困る”


”あなたが捨てて”


”俺にまかせるな。お前が確認して捨てろ”


 沈黙。どうしてかわからないが、彼女はそこで黙ってしまう。


”なら……”


 俺は震える指でその文字を打った。


”会ってみないか?”


 返信までのわずかな間が、相手の動揺を悟らせた。


”それはむり”


”なぜ?”


”イヤ、だから”


”渡すだけ。それ以外は何もない”


”……”


 俺は最後にそのメッセージを送った。


”これから伝えるのは俺の勝手な予定で『来い』って意味じゃない。今週金曜日の21時。俺たちが好きだったあの海にいるから。ただそれだけを伝えとく”



 それだけ。それだけで通じると思ってた。だから敢えて詳しい場所を伝えなかった。こうして砂浜にあるベンチに座っていれば、彼女は来てくれると思っていた。


(わたし、ここから見る東京がいちばん好きなんだよね)


 すでに一時間が過ぎている。約束にきっちりしているあいつが、何の理由もなしに遅れるわけがない。


「はは……」


 俺は自虐的に笑った。何を期待しているんだ。そもそも約束すらしていなかった。言い出す度胸すらなかったくせに。


 視界の大半を占める巨大なレインボーブリッジとそのライトアップ。客を乗せた屋形船や、ナイトクルーズを楽しむ客を乗せたクルーザーが、東京湾の夜の海に優しい波を立てる。


 あいつが絶対に来ると思っていたこの夜景に賭けたんだけれど、駄目だったか……。


 もう一度、彼女と直接会って、目を見て話せれば、やり直せるかも知れない。そう思って仕掛けた計画だったけれど。


 そのゲームにも負けてしまった。もう仕方ない。けれどこれでいい。ようやく諦めがつく。


 俺は砂まみれの椅子から立ち上がり、新橋に向かうゆりかもめが停車する駅へと歩いていく。けれど立ち止まり、最後にもう一度だけ振り向いて、静かな夜の海を見た。


 あいつとの関係は消え去ったが、この思いは一生残るだろう。


 それが、君が好きだと思っていた、僕の信じた波のかたち。




 ここじゃなかった。


 時間は22時を過ぎたあたり。天王洲アイルの複合施設にあるレストランの運河にせりだしたテラス席で、ひとりテーブルに座る私がいた。


(俺ここから見る、落ち着いた夜景にハマっててさ!)


 その言葉が忘れられなくて、来てしまった。彼の家に手帳を忘れたのはわざとじゃない。本当に偶然だった。でも、もしかしたらと期待していた。その思いが奇跡を呼び、彼が私にチャンスをくれた。だからこそ、最後のチャンスだと思って天王洲まで来た。けれどまたしても、想いはすれ違ってしまった。


 ワイングラスに残った赤い液体を見つめ、深い溜め息をついた。


 東京湾の少し生ぬるい汐風が私の髪の間を通っていく。LED光の疑似ランタンの揺らめきは、私にもう時間が無いと催促しているようだ。


 私は最後にスマホの画面を撫で何も変化がないことを悟ると、チェックの為に片手をあげて店員を呼んだ。


 だいぶ前から彼と終わっていたのは間違いない。そうだとしたら、結局ここに来た意味は無かったかもしれない。


 でも……ようやくこれで先に進むことができる。


 グラスのワインを飲み干し、ふうと息を継いだ。運河の間を屋形船とクルーザーがすれ違い、お互いに水面に軌跡を描いていく。過剰にライトアップされた街灯の下で、黒い海が滑らかな絹のように盛り上がって、互いの波を打ち消しあい、消えていった。


 私たちは終わってしまった。けれどこの光景は忘れない。


 だってこれが、あなたが好きだと思っていた、私の信じた波形だから。


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