第7話 海辺のお屋敷

「お嬢様ぁ、夕食のお支度が整いましたぁ」


 スキピオ家のユリア付き侍女となったアガサがパタパタと柔らかいスリッパサンダルの音を鳴らしてユリアの部屋に来る。そしてドアをノックして食事を明るい声で告げる。 ローマ人は玄関で外靴を脱ぎ、家の中ではスリッパ代わりの柔らかいコルク底のスリッパに履き替えるのだ。


「はい、すぐに伺います」


 暗くなったので本を読むのを止めて暇をしていたユリアはウキウキを隠さずにすぐに返事をし、1階に与えられた部屋から出た。カエサル家の自分の部屋に負けず劣らずの豪華な部屋だ。

 シンプルだが天蓋付きベッドに机、ソファー、ドレッサー、トイレにお風呂まである。モザイクタイル張りのお風呂は特に凝っていて、砂浜からは高くなっており見えない半露天となっており、海が目前という最高のロケーションだ。もちろん部屋からも冬の海が一望できる。


 ユリアはアガサと共に建物の一階ど真ん中にあるペリステュリウム回廊で囲まれた中庭の横の食堂に着いた。そしてマウレタニア北アフリアで採られたクロベ材の重厚なテーブルに一人着席する。

 クロベはとても高価な木材で、ゆうに長さが5メートルはあるサイズの一枚板のテーブルだ。ユリアの父の身代金5万セステルテイウス(※注約1000万)以上はするだろう。

 そう、この屋敷の美しい家具調度はすべて控えめにギリシャ風の装飾が施されており、家主の趣味が伺える。

 燭台にはいい香りのするろうそくが燃えている。日によって違うが、今夜はハチミツだろうか?ゼラニウムも混ざっているかもしれない。昨日はレモングラスだった。

 とにかくすべてにおいてとても贅沢で、彼女の育ったカエサル家では考えられない。


「前菜でございます。お飲み物はワインで宜しいですか?」

「はい、ありがとうございます…」


 目の前のハチミツ入りのグラスに慇懃無礼な老執事が持ってきたワインがなみなみと注がれ、次々とアガサによって並べられる卵や冷魚の前菜とサラダがテーブルに並んだ。料理の美しさに目を奪われつつも、奴隷として来たのになぜこんなことになっているのかと混乱する。


「あの…このように毎日宴会のような食事が続くのでしょうか?」

「はい、主人から最大限にもてなすよう言われておりますので」としれっと執事マルクスは答える。明らかに金で買われたユリアを侮っているのがわかるが、ユリアはそれどころではないのだ。


「くうっ…しっ、しかし、わたくしの育った家ではごく簡単な食事、野菜をハーブやスパイスで味付けしたものや、小麦粉のお粥などを食しておりましたので…ありていに言えば、大変もったいなく、心苦しいのですが…」


 執事のマルクスはそんなユリアの気まずさからくる異議申し立てを理解したが、対処する気持ちはひとかけらもなかった。


「そのような食事をお嬢様にお出ししたと主人に知られましたら、料理人たちは主人の怒りに触れて仕事を失くしてしまいます。どうかご容赦下さいませ」


 1か月前にユリアが来た当初、マルクスは慇懃ではありながらもユリアとアガサに強い警戒心を持って見ていた。優しい主人に取り入る害虫のたぐいだとはなから決めつけてなんとか機会があれば追い出そうとさえ思っていた。

 しかし、ユリアの派手でなく謙虚で優しい人となりと品の良さが伺える言動、侍女アガサの裏表のない正直さと天真爛漫さを知った後は、切り替えてユリアに仕えるようになった。もちろん完全には認めてはおらず、仕方なくだ。

 マルクスは医者の父とともにギリシアから来たのだが、医学の教育を受けていたおかげでスキピオ家で高給で雇われ重宝された。そしてあっという間に使用人のトップとなった。

 そして小さなころから今の主人を見守ってきており、歴代のスキピオ家で最も優秀の誉れが高い主人を自分の息子のように深く愛しているのだ。


 

 ユリアが年末にこのカンパーニア地方の海辺にあるスキピオ家の別荘に連れて来られたときは、死ななければ上等、カエサル家の為なので死んでもこの際仕方ないくらいの覚悟でいた。そういうところはさすがガイウスの娘である。

 ニコニコしたティトゥスが言うことをまるっと頭から信じていたわけではなかった。ローマ人が奴隷にどれほど酷い扱いをするかは、今まで生きてきて嫌というほど見てきた。

 父ガイウスと兄アウルスは比較的公正に奴隷に接していたので、ユリアは奴隷を気まぐれに殺すようなローマ人の存在を幼い頃に知ってショックで寝込んだことがある。


 しかし実際は別荘に着いてすぐに素晴らしい香りの風呂に入らされ、真新しい絹のトゥニカと肌触りのいいたっぷりドレープのあるトガに着替えさせられた。もちろんそれほど複雑なトガに着替えるのは自分では無理なのでアガサに手伝ってもらった。

 トガを普段に着用する女性は貴族でもすでに周りにいないと言ってよかった。着ているのは明るいオレンジか青色に髪を染めた高級娼婦くらいだ。

 ユリアは父ガイウスが好んで彼女に着せていたので違和感はなかったが、要するに全く奴隷作業向きではない服装を毎日着せられている。


 そして今に至るまでの1か月間、三食十分な量の美味しいものを食べて飲み、図書室の本を読んだり海辺をアガサと散策している。

 肝心の主人はガイウスの身代金を払いにカルタゴに行っており、ティトゥスは仕事があると出て行ったきり顔を見せないのでどうしたらいいか聞くことも出来ない。執事マルクスには聞き辛い。

 というわけでいわゆる『お客さま』を一か月間している体たらくだ。


 一番ありがたいことは、アガサの足が獣化していることをティトゥスを通じて事前に告げてあったのだが、普通の人間としてユリア付きの侍女の扱いをしてくれることだ。

 さりげなくアガサにも探りを入れたが本当に意地悪はされていないようだった。それどころか調理場で親切にしてもらい、いろいろな料理を教えてもらっているとアガサが嬉しそうに言う。カエサル家にいたころより幸せそうで元主人として少し悔しいくらいだ。

 別荘だから家人はおらず、侍女のアガサ、老執事マルクスとティトゥス、料理人2人と庭師2人、馬車の御者1人と買い物・掃除などの雑用をこなす夫婦だけだ。もちろんこれはユリアの住んでいたカエサル家より使用人の数が大幅に少ない。


(しかしなんなんでしょう、このわたくしの状態は買われた奴隷とはとても思えません。この退廃的なギリシア風の服…私はもしや高級娼婦のような扱いなのでしょうか?しかしわたくしはその娼婦の仕事さえこなしておらず、高等なテクニックがあるわけもないですし…。仕事もないのにここにいて毎日楽しく飲み食いしていていいわけがないのです…が)


 しかしその疑問も今は目の前の美味しい料理の前にかすれた。とにかくここで出される食事が美味しいのだ。

 ユリアはローマ建国当時の美徳、質素倹約をモットーとしたカエサル家においては絶対に言い出せなかったが、たまに催された宴会で食べられるような美味しい食事が大好きだった。

 ぺろりと前菜を食べると、すぐに主菜の鹿肉のローストガルム風味、続けてウツボの揚げ焼きが運ばれてきてユリアは心ときめいた。淡白で弾力のあるウツボが大好物なのだ。口に入れると皮の下層のプルプルが溜まらなくて、ユリアは思わず美味しさに足踏みをした。


 この海辺のスキピオ家の別荘には家禽類(鶏・鹿・猪・リス・オオヤマネ・ガチョウ・カモ・ホロホロ鳥・キジ等)を飼育する農場だけでなく、海に養殖場を持っている。要するにかなり裕福だ。

 食卓には飼育しているものの他に、アヒル・ハト・ダチョウ・白鳥・ワニ・ヒバリの舌・孔雀・チョウザメ・鮭などが並ぶ。ユリアが食べたことのないものばかりで、いつも説明を受けて飛び上がらんばかりに驚く姿を使用人が楽しんでいるようにも感じていた。

 全ての料理には香りの高い香辛料や香草がふんだんに使用されている。種類も多く、ういきょうフェンネル・ニンニク・タイム・玉ねぎ・ヘンルーダ・パセリ・胡椒なとが惜しげもなく使われているとアガサも言っていた。中には料理人のリクエストで東方から高値で運ばれるものもあるそうだ。


 玄関から建物に入ってまっすぐ進むと、建物中央には明かり取りと雨水溜めのある立派なアトリウムがあり、ペステュリウム中庭はゆったりとした控えめなギリシア風のおおらかで温かい雰囲気で統一され、主人の趣味がいいことを表している。

 二階建ての田舎風の広過ぎない別荘の隅には海賊船来襲を見張る塔がある。

 そして別荘の入口には『スキピオ』と書かれてた大理石のプレートがかかっていた。


(スキピオ家って…まさかスキピオ家かしら?いや違いますわよね、そんな方なら戦争真っただ中でこんなローマの南東の辺鄙へんぴな場所に住んでいてわたくしをここにいるわけがございません…今夜こそご主人様に聞き、わたくしの職務をはっきりさせぬことにはお尻がむずむずしてダメですわっ!)


 彼女はあまりにも居心地のいい生活に慣れ過ぎないよう心に活を入れた。

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