第8話 わたくしのご主人様
「入るぞ」
ユリアたちがここに来て1か月、昨夜やっと主人に会えた。
いや、あれは会えたと言えるのか疑問だった。寝る支度をしているユリアの部屋に、彼は帰宅したそのままで訪れたのだ。
彼はドアをギリギリに通るくらいに大きく、暗くてあまりわからなかったが旅装束のままのようだった。頭にはフードをかぶっている。身分が高い者は顔をあまり見せびらかさないものなので、やはり彼は貴族なのだろうとユリアは思った。
驚きつつも慣れない動作で床に平伏しようとする彼女を太い腕で押しとどめて椅子に誘導して座らせ、自分はベッドにどかりと腰をかけた。重量でベッドが
改めて見るととても大きい。それにとても均整のとれた美しい身体をしているのは服の上からでもわかる。
部屋には燭台の灯り一つしかなく、フードの奥の主人の顔は伺い知れなかったが、若々しい声はピンと張っていてよく通る、どこかで聞いたような乱暴で投げつけるような話し方をした。
「どうだ、慣れたか」
「はい、お陰様で随分慣れましてございます。初めてお目にかかります、ガイウス・ユリウス・カエサルの娘、ユリアでございます。この度はご主人様にお買い上げいただき救われました。身代金を清算した父も無事にカルタゴからローマに戻っていると執事のマルクス様から聞き及んでおります。これでカエサル家も安泰、誠に感謝しかございません。わたくしはご主人様の為ならどんなことでもする所存でございますれば…」
彼女は今、何のためにここに主人が来たのかを理解したつもりだった。身売りを決意するに当たり、夜の
心臓が破裂しそうにドキドキしながらもすっくと立ち上がり、ベッドに座る彼のそばに行こうとすると、彼はふいっと空気を揺らして無言で部屋を出た。
バタンと閉められたドアをユリアは呆然と見ていた。
(え…なぜ?…わたくし
初めての性的奉仕を覚悟していただけにユリアはホッとしたような拒否されたような複雑な気持ちになっていた。
そして夜が明けて今日だ。
家屋にいるはずのご主人様は姿を現さない。朝も昼も食後テーブルでご主人様を待ったが、全く来る気配がない。そして今はディナーコース最後のデザートが運ばれてきた。
イチジクのパイ。
このような時でも脳がとろける程美味しくて、ユリアは主人に対してますます申し訳ない気持ちになるのであった。
「あの…執事様、わたくしご主人様にお会いしたいのですが…」
ユリアは無表情の老執事に思い切って夕食後に聞いてみた。女性から聞くとははしたない行為でマルクスには軽蔑されそうだが仕方なかった。会えねば職務も全うできないのだ。
「…わかりました、伺ってまいります。少々お待ちくださいませ」
肩眉を少し上にあげ、やはりそうきたか、という顔で執事に言われた。どうもユリアの性格から行動を読まれていたようだ。
(やはり屋敷にいるのね。じゃあなぜわたくしと一緒に食べないのかしら?嫌っているのでしょうか?いえ、嫌いなら家に入れたりはしないはず。では…なぜ?)
ユリアがぐるぐると考えていると、執事が戻ってきた。いつもの無表情だが、どこかほんのり嬉しそうに見える。ユリアは不思議に思ったが、老執事は主人の健やかな顔を一瞬見ただけで頬が思わず緩んでいた。
「ご主人様は仕事中ですので、仕事と夕食を済ませて落ち着いたらユリア様の部屋に参るそうです。それまでお部屋でお待ち頂けますでしょうか?」
ユリアの顔がパアアと輝いた。
「はい!お待ちしております、とお伝えくださいませ」
「なんだか久しぶりにユリア様が明るい顔をなさっていて嬉しいです。何かあったのですか?」
ユリアの長く美しい金髪を優しく最高級の
(ご主人様をお誘いしたのですよ、なんて絶対に元女主人として言えないですわね…どういたしましょう…えっと…)
「あのね、今夜のイチジクのパイがものすごーく美味しくて、思わず足踏みしてしまいました。それを思い出していたのよ」と誤魔化した。実際走りたいくらい美味しかったのは本当なのだ。
「あら、それは私が料理人に教えてもらいながら作ったのでございます!お嬢様ったら…」と頬をぽっと赤らめたので、ユリアは胸をときめかせた。
(なんでこの子は…もうっ!アガサのそういうとこがとても可愛いわっ)
「アガサ、腕を上げましたわ、本当にローマのお店で出せるくらい美味しかったです!というか、『お嬢様』は、ご主人様が帰宅されたので宜しくありませんわねえ…わたくし今は買われてここにいる身なわけですし…」
すると少し思案顔になったアガサは恥ずかしそうに赤いお下げを両手で引っ張った。
「で、では、ユリア様、ではいかがでしょうか?」
「…良いと思いますわ!」
「ではユリア様、了解いたしました!」
「フフフ」
「あはは」
二人の笑い声が屋敷に響いた。
「久しぶりでございますね、この屋敷に笑い声など」
「そうだな…」
この屋敷の主人、ルシウス・コルネリウス・スキピオは書類から目を離さずに執事マルクスの感想に答えたが、耳はユリアの声に釘付けで、書類など全く見ていなかった。
ユリアの部屋はルシウスの部屋の下で、マルクスにはなるべく窓を開けるように言ってある。今は冬なので火鉢を用意させてまで窓を開けさせていた。
ローマより125マイル(※約200キロメートル)ほど南東にあるこのカンパーニア地方の海辺は冬でもあまり寒くない。それをいいことにこの大男は彼女の声を聴こうとしている。
昨夜カルタゴからこの別荘に帰ってすぐに、居ても立っても居られず本物のユリアがいるのか確認をしに彼女の部屋を訪れた。暗くてもわかる愛らしさ、軍人の娘らしく背筋を伸ばしたキリリとした姿を目の当たりにして動揺して何を話したのか全く覚えていない。彼女の青い目が自分のすべてを見通しているようで怖くなってすぐに部屋を出た。
彼女がこの屋敷にいるだけでも信じられないのに、その彼女が鈴が鳴るように笑っている声を聴くにつれ、洪水のように押し寄せる多幸感に襲われてめまいを感じる。幸福の鈴というものがあったら、まさにこれだ。
「ユリア様はルシウス様に強く感謝しているご様子で、とても会いたがっておられます。先ほどはルシウス様にお会いしたいとおっしゃっておりました。このように遠回しに楽し気な様子を伺うのでなく、今すぐ普通に部屋を訪ねればきっと喜ばれると思いますが」
「…」
経験から言い過ぎたと肌で感じた老執事は、無言の主人に深く頭を下げて部屋を出て行った。残されたルシウスはすぐにベランダに出て下の部屋の声や物音に聞き耳を立てた。
彼は耳がとてもよく、二人が食べ物の話などをしている部屋の様子がありありと目に浮かんで思わずニヤニヤするのだった。
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