第9話 高鳴る獣人の胸
『ローマの平民は働かないで得た食糧で生活し、征服に参加したこともないのに帝国に寄生し、明日を心配することなく、すぐに血生臭い暴動をおこし、人気ある扇動者の従順な手先となる』
死に臨んだ祖父、大スキピオはそう言って先祖代々の墓に入ることを拒否した。
そしてローマから離れたこの海辺の土地で作らせた自らの墓石に『恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう』と刻ませた。
祖父はカルタゴのハンニバルとの戦いで何度も苦い敗北を味わい、その経験を糧に旧態依然としたローマ軍を無敵の軍隊に鍛え上げた。ハンニバルは稲妻のごとく行動し、即断即決と巧みな戦術でローマ軍を翻弄した。
そんなハンニバルを打ち破った第二次ポエニ戦争の勝利の立役者、ローマの英雄となった大スキピオは、元老院の裏切りに強い怒りを抱いたまま死んだ。
そして、今現在。
3度目のカルタゴとの戦争で活躍し、英雄と讃えられた自分をローマは
(愚かだ。人間とはどこまでも愚かだ。いっそすべての人間が呪われて死んでしまえばいい!)
彼は呪った。世界を。ローマという国を。一族を。
すべてを恨みながらローマの街をさまよった。
そして彼女に出会った。
獣人と知ってもなお彼女は自分を助けようとした。
財産を持つ者の気まぐれか情けか傲慢だと思っていたが、調べると彼女は困難の最中にあった。そのような状況で母親の形見を手放してまで全く見知らぬ他人を助けたのだ。それも人とは認知されない、忌み嫌われる獣人を。
彼女の水晶のネックレスは探させているがまだ見つからない。自分自身の為にもなんとかして見つけなければならなかった。
彼は彼女の失ったものを思い、自分の愚かさにやっと気がついた。
立場が違っていたら、自分もまた家を守る為に病気が発現した忌まわしきものに石つぶてを投げ追いやっていたであろう。
彼は大スキピオが隠遁した海辺の土地に住むことに決め、最近できた新しい道と海路を利用して塩を扱う商売を始めた。カルタゴとの長い戦争が終わる気配で景気が回復していたので、軌道に乗るのは早かった。景気に合わせて増えていく家畜には塩がよりたくさん必要だった。
すると、塩だけでなくいろいろ頼まれるようになった。彼は山だろうが道がない海沿いの国だろうが必ず契約通りに届けるのだ。
彼の軍隊で鍛えた身体と腕っぷしは海賊や山賊などものともしなかった。そして土地勘と船旅の経験、そして何より戦争で共に戦ったティトゥスなどの元部下が商売を手伝ってくれている。
彼らもまた、長引く戦争のせいでまともな職に就くことなく、若い頃から軍で戦ってばかりいた連中だ。
10代の頃に叔父と従軍したマケドニアで経験した大狩猟場をローマ郊外の所領に作り、スポーツや軍事訓練の場にする商売も上手くいきそうだった。
以前は狩猟は田舎者のスポーツとバカにされていたのだが、英雄である彼の趣味を真似て多くの若い貴族が
そしてローマでユリアが身売りしていると知り、すぐに買うことを決めた。5万セステルテイウスなど安いものだった。彼は新しい自分の人生を手に入れたのだ。
そして彼女を迎えるために別荘に手を入れた。
ユリアの為に危険極まりない陥落直前のカルタゴに赴き、身分を隠してカルタゴにガイウスの身代金を払った。
ガイウスには「ユリア様に頼まれました」とだけ伝え、カルタゴからローマの自宅まで送り届けた。
もちろんルシウスは、ユリアの父ガイウス・ユリウス・カエサル将軍を見知っていた。見知っているどころか、何度も一緒に戦場で戦った仲間だった。解放された時も以前のように鋭気溢れ堂々とした彼は、これからはローマを支える政治家として頭角を現すだろうと思わせた。
しかしガイウスは、彼が同じくローマの将軍であるルシウス・コルネリウス・スキピオだと気が付かないようだった。
なぜなら、ガイウスの要望で見せたルシウスの頭部はすでに大部分が獣化していた。
彼はルシウスへの恩から自分の中にある獣化に対する偏見を力技でねじまげ克服しようとしている。その精神力にルシウスが目を見張った。
なぜなら人とは自分が一番可愛いもので、普通はいろんな意味で恐ろしいとされる獣人に普通に接することなど出来ないはずなのだ。
娘であるユリアが我が身を売ってでも身代金を集めて助けようとする人物だと認めざるを得なかった。
そして、ガイウスからただ一人の愛娘を人知れず取り上げようとしている自分を
褒められる行いをしていないことはわかっていた。しかし彼女が奴隷市場で身売りしていると聞いた時、すぐに買うと決めていた。他の男のものになるなんて、考えたくもなかった。
(ユリア…化け物のくせにおまえを買って監禁してこれほど喜んでいる邪な俺はどうしたらいいのだ…これでは見た目だけでなく中身も獣ではないか!おまえの声が階下から聞こえる、それだけで死ぬほど幸せで震えるほどだ。しかし、この幸せがすでに罪深く、怖ろしい…)
ベランダで
約束はしたが、さすがに寝ているだろう。
彼女は朝日と共に起き、夕食のあとはアガサと少し話してから寝るという、ローマ建国当時の農民を彷彿とさせる生活をしていると執事から聞いた。
ルシウスの育ったスキピオ家は、常にギリシアから呼んだ哲学者が逗留しているのを誇るような家だった。市民の娯楽の為の戦車競技などの見世物をバカにし、よりよい軍人・政治家となるべく学問を治める先進的空気に自己満足・優越感を覚えて暮らしていた。暗い灯りの中勉強するものだから眼病を患うものも多かった。
しかし、ユリアは違うのだろう。空が明るくなると起き、暗くなると食事をして一日にあった事を話して幸せな気持ちで寝る。
そんなところも彼女らしく魅力的だとルシウスは考えていた。結局彼女がすることなら何をしても魅力的に感じるのだろうが、そこには気が付いていない。
「仕方ないな、約束をしたのだから行かぬわけには…」
『仕方ない』という言葉とは裏腹に、彼女の寝顔が見られると思うと胸が高鳴り、足早になるのを抑えられなかった。
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