第10話 乙女

「ご主人様…ですか?」


 ユリアは何度目かの目を覚まし、上半身をベッドに起こした。ドアが開いた気がしたのだが、果たして今度こそはドアの前に大きな黒い影がぼんやり見えた。


「お、起きていたのか…」というぶっきらぼうな声の主が、だんだんはっきり見えてくる。


「約束通り、来て下さったのですね…嬉しいです。わたくしうっかりうとうとしてしまい申し訳ありません…」


 ユリアは目をこすって現実か確認した。しかし、その黒い塊はドアのそばから動かないし声も発しない。


(えっ…幽霊…?なわけないですわね、返事もありましたしご主人様ですよね?)


「あの…」


 彼女は不安になって癖で今はない胸のネックレスの水晶を探しながら、急いでベットから出、立とうとして足に力が入らず床に崩れ落ちた。運動神経が鈍い自覚はあるのに焦ってしまった。


「ひゃっ!」


(こ、これは…せっかくご主人様が来てくれたのに恥ずかしすぎる!はしたない上に鈍臭い女だと思われてしまったかしら…)


 彼女は下着兼夜着であるリネンのトゥニカだけしか身につけていないので、夜でも月明かりで柔らかい身体の線がはっきりわかる。そのせいでルシウスは近寄るのをためらっていたのだが、彼女があわてて立とうとするのを見、たまらずルシウスは腕をグイっと持ち上げてベッドに座らせた。

 ふわりと彼女の金髪から漂ういい薫りが敏感な鼻腔をくすぐり頭の奥が強く痺れる。ルシウスは乙女のようにあわててすぐに手を離して彼女から離れた。


「も、申し訳ございませ…」「約束を思い出して一応来てみただけだ、もう部屋に戻る。夜中に邪魔をしたな」


 ぶっきらぼうに言い放った彼がさっさと背中を向けてドアに向かったので、ユリアは思わず「待って下さい!」と言って、彼のトガの裾を掴んだ。彼の身体がびくっとしたので、一瞬彼女は手を振り払われるかと思ったのだが、彼はそのままで固まっている。


(拒否、ではなさそうですわね。もしや待ってくれてる…?)


「あの、お引き留めして申し訳ありません。お聞きしたいことがあるのですが…」


「何だ」と彼は頭部だけ振り返って答えた。部屋が月あかりしかなくフードの中の顔は見えない。


「えっ…とですね、まずはご主人様のお名前と、どのようにお呼びしたら良いのか、教えて頂けませんか?」


 彼は少し考えてから「…ルシウス」と投げつけるように答えた。彼女の唇から自分の名前が出るなど想像も出来ない。


「え?ルシウス様、で宜しいですか?」


 彼女の口から出た自分の名前は思った以上に破壊力があり、ルシウスは眩暈めまいがした。声だけでこれほど心が揺さぶられるとは、何たることだと女々しい自分を叱る。小さな声で、


「…ルシウス、でいい」と言ってみた。彼女に呼びつけにされたらあまりの嬉しさに倒れてしまうかもしれなかったが、聞いてみたい気持ちに抗えない。


 しかし彼女は幼児のようにぶんぶんと首を振ったので、彼の口元が緩んだ。彼女の頬の肉が揺れてとても愛らしい。


「いえ、滅相もない。では、ルシウス様とお呼びいたします!」


 花が咲きこぼれるように微笑みながら言ったユリアが嬉しそうで、ルシウスの緊張がゆるんだ。しかし、そんな無防備になった彼にユリアは躊躇なく投石器バリスタで大岩を投擲とうてきしてきた。


「では、ルシウス様は…私をとして買われた、ということで宜しいのでしょうか?私は大金を払って買って頂いた身です、何かしら対価を払わなければならないのは了解しておりますのでご遠慮なさらないで下さいませ。…さ、こちらにいらっしゃって下さい、ご奉仕させて頂きます。初めてなので上手くはないと思いますが、精いっぱい頑張りますので宜しくご指導くださいませ!」


 服をゆるく引っ張る彼女にハキハキと言われ、ルシウスの頭の回線がビチンと千切れる。彼女が不慣れな様子で自分にベッドで奉仕している姿を想像して頭が一瞬で沸騰してしまった。


「ち、違うぞっ!そんなことはおまえに望んでないっ!!」


 部屋が震える程の突然の大声にユリアは驚き、自分の勘違いに恥ずかしくて仕方なくて真っ赤になった。しかしひるんではいられない。自分が何をしたらいいのかわからないほど不安なことはないのだ。


「そ、そうなのですか?で、ではわたくしはこの別荘で何をしたら…」

「そ、それは…」


 ルシウスはこの屋敷でユリアが笑っていてくれたらそれでいのだ。それでなくても監禁していることに強い罪悪感を覚えている。

 しかし、それを言ったら愛の告白のようで、獣の顔をした化け物が何をバカなことを言っていると自分で思う。

 ふとそばの彼女から成熟した女性の香りがしていることに気が付き、飛び上がった。ここに居たい気持ちもあるが、嗅覚が敏感になっている今、すぐ彼女から離れないと彼女をどうしてしまうかわからない。もしかしたら完全に獣になって食べてしまうのかもしれないという恐怖に襲われた。


 獣化する伝染病には様々さまざまな噂があって、全く謎に包まれていた。マケドニアの空から降ってきた石に病がついていて調査兵から伝播したとか、エジプトでピラミッドの王家の墓から泥棒がミイラを盗み出した時に病気の呪いが一緒に外の世界にまき散らされたとかいろいろな説がある。

 もちろん治療法もない。どの国も人口に対する発症率が3%前後を保っていることだけはわかっていたが、後は全くの無知な状態だった。万が一彼女に伝染うつしてしまったら、と思うだけで自分の胸を剣で開いてがりがり切り刻みたいくらいの焦燥にかられる。


 「あ、明日っ、執事から指示を出す。それまで大人しくしていろ!」


 彼女はほっとして、ルシウスから手を離した。彼はユリアが離れただけで、そんな小さなことで心臓にくい穿うがたれたように酷く痛くなっているのを感じてぞっとし、フードの中の顔を酷く歪ませた。これでは自分がか弱い乙女のようではないか。

 ぐるりと顔をドアに向けると、ユリアの声が背後から聞こえた。


「かしこまりました。ルシウス様、お休みなさいませ」


 ふわりと空気が動く気配がする。彼女は床にひざまずこうとしているのを感じて振り向いて、やはりしゃがもうとしていた彼女の腕を掴んで立たせた。


「おまえは奴隷や使用人ではない。いちいちそういったことをするな、とても迷惑だ」

「は、はいっ…?わかりました、申し訳ございませんっ」


 ルシウスは言い捨てて素早く部屋を出て行ったので、昨夜と同じくユリアは呆然と立ち尽くした。

『ではわたくしは一体なんなのでしょうか?』という問いを発することも出来なかった。

 



「あの、執事様。昨夜ご主人様にここでのわたくしの仕事内容をお聞きしましたら、『明日執事から指示を出す』と言われたのです。何かお聞き及びではないでしょうか?」


 次の日、いつまで経っても仕事内容がわからないまま夕食となった。はしたないとは思いつつもしびれを切らしてユリアは二日連続で老執事に尋ねた。


「ユリア様の、お、お仕事でございますか…?わかりました、聞いてまいります。少々お待ちくださいませ」


 珍しく戸惑う執事に申し訳ないと思いつつも、ユリアは重ねてお願いした。


「お願いいたします」


 ユリアは不安だった。あれだけの大金と手間をかけさせたのだ、それを自分が払うのは並大抵のことではあるまい。そして、金額に応じた仕事でないと自分が納得できない。


「あ、そうですわ、執事様!簡単な作業では…」と彼に追加で言おうと顔を上げたら、パタンと静かに扉が閉められるところだった。


「お、お待ち下さいませっ…」


 ユリアは執事を追いかけ階段を上り、2階の部屋に執事が入っていくのを見た。なんだか悪い事をしている気分になり、こっそりとルシウスの部屋らしきドアの前に陣取って、ここであっているのか確かめるためにドアに耳をあてようとしたとき、「誰だ?」とドアが開いた。

 目の前にいたのは深くフードを被りなおしたルシウスだったので、ユリアは赤面して飛び上がった。


「なんだ?」とぶっきらぼうな声が頭の上でする。


「あの、身代金でお支払い頂いた金額が大き過ぎですのでわたくしなどが一生かけて償えるとは思えません。なので、簡単な作業では到底納得できません。それをお伝えしたくて…」

「…わかった。考えておくから安心せよ」

「はい…ありがとうございます…」


 二人がどうしていいかわからず無言で立っていると、


「ぶぶっ…あ、申し訳ありません、思わず…」と後ろからからかいを含んだ笑い声がした。


 後ろを振り向くと、ルシウスの従者、ティトゥスがニヤニヤしながら真っ赤な顔を手で押さえていた。


「まあ、ティトゥス様、お久しぶりでございます。お仕事の邪魔をしてしまい申し訳ありません。しかし、わたくしも困っているのです…」

「二人して入口でモジモジして、何かお困りでしょうか?」と彼は笑いをこらえて至極真面目なフリをした。


「あまりに身代金が大金でご主人様に何をしても償える気がしません。なので、なるべく困難な仕事がいいのです。付け焼刃ですが夜の勉強もしてここに参りました」

「よ、夜っスか…」


 ティトゥスは真剣なユリアを前に笑いを必死で噛み殺し、かつての軍の上官であるルシウスを盗み見た。


 間違いなく困っておろおろしている。


 苦り切った顔を見なくてもはっきりわかった。執事のマルクスも大事な大事なルシウスの困窮に助け船を出したほうがいいのか迷っているようだ。

 ティトゥスはこれからの別荘ライフが面白くなってきたなとわくわくしつつ、生真面目な顔を無理やり作って提案した。


「ユリア様もお困りでしょうが、ボスも大層困ってるっス。そうですね、では毎晩食後に二人で散歩などされるって仕事はいかがスか?ここに居ると運動不足でいけませんから、体調管理のお手伝いをして頂きたいのです。本当はユリア様がこの別荘にだけで充分なんスけどね」


 わざと最後を小声で尻すぼみにさせたティトゥスの言葉にルシウスが慌てた。勝手なことを言うなと声に出す前に、彼女が不満げな声を出した。


「さ、散歩ですか?歩く、だけのあの?」


 しかしユリアは今よりは全然前進だと判断してすぐに手を打った。


「わかりました。散歩をしてご主人様がわたくしを気に入って下さったならば、毎日そばにおいて身の回りのお世話をさせて頂けませんか?見たところ、ここには侍女がいないように見受けられますので」


 ルシウスはこの部屋に毎日ユリアがいる風景を想像した。嬉し過ぎて体温が急上昇する。きっと緊張で何もできなくなるのは目に見ていた。


「ふん、気に入ったらな。早く食事に戻れ」


 いかにも仕事が忙しいから早く打ち切りたいという空気を醸し出してルシウスが言うので、ユリアはすぐに引き下がった。

 そして、満面の笑みで「ルシウス様、ありがとうございますっ」と言って食堂に戻って行った。



「ぷーっ、ナニコレ?私がいない間にこの別荘はどうなってるんスか?夜の勉強って…ルシウス様のあの顔…あー、腹が痛いっス」


 ユリアがいなくなると、ティトゥスはとたんにひひひと大声で笑った。

 彼の大事な雇用主ボスであり軍の元上官のルシウス。あのカルタゴで鬼神のように戦って敵を打ち倒したスキピオ家の長男が、10代の清らかな乙女のようにおろおろ困っているのが面白くて仕方なかった。


「…ティトゥス、ナマコのエサになってみるか?」


 ルシウスは苦い表情で見下ろしていたが、正直この男がいて助かったと思っていた。ルシウスとマルクスだけでは彼女に押し切られて身の回りの世話をさせるようなことになっていただろう。そんな刺激には間違いなく耐えられそうになかった。

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