第11話 夜の散歩

「ルシウス様、お時間です!さあ、参りましょう」


 毎日夕食後にユリアがルシウスの部屋を訪ねてくるようになって1ヶ月が経つ。ユリアはいつものようにノックして彼を呼んだ。


「待て、少し待て」

「わかりました、失礼致します」


 ユリアがずかずか部屋に入ると、ルシウスがフードを深く被り直して慌てて立ち上がる。


「待てと言ってるのに、なぜいつも入ってくる」


 ぶっきらぼうな声とは裏腹にあたふたと困ったような雰囲気を漂わせており、ユリアはなんだか可愛いなどと思ってニヤけてしまうのを抑えるのが大変だった。


「ルシウス様を待っていたら、ずっと廊下で立たされるのですもの。さ、運動不足解消に参りましょう」


 浮き浮きと言うユリアにルシウスはため息を付き、右手で机に置いてあるいつもの燭台を手にした。反対の腕にはユリアががっしりとつかまっている。


 二人がやっと並んで歩くようになったので執事のマルクスはひそかに喜んでいた。

 主人は獣人となってから人嫌いになり、触られたり近寄られるのさえも嫌がるようになっていた。特に女性だ。しかしあの天然鈍感娘ユリアは恐れ多くもルシウスに怖いもの知らずで正面からぶつかっていく。全くもってマルクスはユリアを認めたわけではないが、その努力は尊敬に値すると考えていた。


 ティトゥスはルシウスの戸惑いと混乱の表情を思い出しては頬が緩む。ボスはまだ以前のように大声で笑うことはないがとても雰囲気が柔らかくなった。

 それは年末に名門貴族パトリキ令嬢のユリアが奴隷市場で自ら身売りをしているのを知って焦ったルシウスから、『今すぐに彼女を購入したいのだ』と相談をもちかけられる少し前からの変化だった。

 二人の間に何があったのかは知らないが、ローマでどん底にいたルシウスを救ったのはユリアなのだろう。ティトゥスには見守る以外何もできなかったのだ。


 その散歩だが、当初はルシウスが勝手にずんずん先に行ってしまい、ユリアがいそいそと追いかける、という奇妙なものだった。

 しかし、ユリアも馬鹿ではない。

 対策を練り、部屋に迎えに来て腕を握って離さない作戦に出ていた。さすがにユリアを振り払ったり引きずってまで早く散歩を終わらそうとはしない。

 育ちが良くておっとりしている割にはやたら強引なユリアをティトゥスは大層気に入ってしまった。


 ユリアはルシウスの太い腕につかまって夜の浜辺を歩いている。毎日少しずつだがルシウスが慣れてきて二人の距離が縮まり、ゆったり歩く時間が増えていた。

 暗くて足元が見えずにユリアが流木につまづき、ルシウスが彼女のお腹に手を入れて支えると、彼女は彼の身体にもたれるように両手を当てて動きを止めた。


「あ、ありがとうございます…あの…」


 初めて彼と接近し、もう少しこのままでいたいと感じていた。そして彼のことを知りたいとおもったが、詮索しない条件だったのを思い出して口をつぐんだ。


 ルシウスのほうもユリアの柔らかい腹部に思わず触ってしまい、その手を抜いたとたんに彼女がピタリと両手を自分の腹にくっつけたので硬直していた。緊張で血液がいつもの倍以上に早く流れているのがわかる。抱き着く直前のような状態をどうにかしたくて、しかし離れがたくてそのままの姿勢で聞いた。彼女を抱きしめたいが、思えば女性とこのような状態になるなど久しぶりだった。


「どうした」


 このままでしばらくいたい、とか、ご主人様の事をもっと教えてくださいませ、などとは言えず、彼女はなんとなく話し始めた。


「ルシウス様…最近はちょっと日が長くなり暖かくなってきましたわね。朝も起きるのが早くなりましたし、夕食の時間でも少し空が明るくなりました。ルシウス様に助けて頂き2ヶ月以上経ちましたが、兄が戦死し、父が捕虜となっていたあの辛い時期がうそのように幸せで、毎日が夢のようです。すべてルシウス様のおかげでございます。感謝の表しようもありません、本当にありがとうございます。しかし…」


 ルシウスの心臓が跳ねた。


(しかし…?もしやここが嫌になったのか?それとも俺が嫌になったのか…?)


 戦場で四面を敵に囲まれたとしても、これ程怖くはない。瞬時に弱い個所を見つけて突破するだけだ。しかしユリア相手ではそうはいかなかった。

 恐怖を押し隠すように彼女を自分から剥がし、砂浜に立たせた。


「なんだ?」


 ユリアは離してなるものかと元の彼の左腕にしがみつき、意を決してこの1ヶ月考えていた願いを告白した。


「わたくしはルシウス様のお役に立っていないのがとても辛いのです。強欲な女だとお嫌いになるかと思いますが、わたくしもっとご主人様の為に何かしたいのです…毎日おそばでお世話などさせて頂けませんでしょうか?」


「…」


 押し黙ったままのルシウスにユリアは短期に追い打ちをかけた。困らせているとわかっていたが、この屋敷での自分の役立たずさ加減が怖かった。彼の腕を握りしめ直し、ユリアは尋ねた。


「ルシウス様、まだわたくしめが気に入りませんか?」


 少しの沈黙が永遠のように長く感じた。


「…そうだ。俺はおまえを気に入ってない」


 ユリアは世界の終わりのような表情に一瞬なってから、「そうですか」と言って無理やり笑顔を張り付けた。暗くて良かった、と思いながら。


 二人はまた歩き出した。


 ふいにユリアは彼の腕をぎゅっと握ってから、ふわりと離れた。左側がすっと寒くなりルシウスの心臓がズキリと痛む。

 しかし彼女は彼の前に立ちふさがり、挑戦的に宣言した。月明かりもなく暗くてルシウスにはわからなかったが、彼女の碧眼へきがんはうっすら涙に濡れていた。


「わかりました。でもわたくしは諦めません。絶対に気に入って頂き、ルシウス様がわたくしを買って良かったと一瞬でも思えるようになって頂きたいです」


 ユリアは両手でルキウスの左手を握りこんで、フードの奥の見えない彼の顔を見上げた。温かい大きな手は敬愛する父と同じく誰かを守るための手をしている。


 反対にルシウスはあまりに柔らかい手の感触と彼女の言葉に頭の芯をくらくらさせていた。


(買って良かったなどと、すでに百万回以上思っている!そして百万回以上ここに閉じ込めている事を恥じている…いくら金で買ったとはいえ、俺の人生を救った恩人の自由を奪うなど神は決して許さないであろう。俺はどうしようもない下衆げすな獣だ)


 彼は柔らかい小さな手を今にも振り払いたい衝動と戦っていた。




「おはようございます、ユリア様ぁ。今朝はかまどがうまくいかず、まだパンが焼けておりません。申し訳ないのですが半ホーラ(※紀元前のローマでは日の出から始まって、日の入に至る時間帯を 昼間または日中とする不定時法だった。日中を12等分した長さを、時間hōra 「ホーラ」とした)ほどお待ちいただけませんかぁ?」


 日の出とともにアガサがユリアの部屋を訪れて、やたら楽しそうに赤髪を揺らした。

 調理場で料理をいろいろ教えてもらいながら手伝っているようだ。彼女の楽しさがユリアにも移って、昨夜ルシウスに『気に入らない』と言われてしまったショックも和らいだ気がした。ここでの彼女には救われてばかりだった。

 しかし自分はどうだろうか?


(誰の役にも立っていませんわ…その上ルシウス様はわたしくを気に入っておらず、きっとを引いたと思っていらっしゃる…とても役立たずですもの、当然ですわ!)


 服をいつものトガに着替えさせてもらいながら、


「もちろん大丈夫ですよ。ではわたくしは少し砂浜を散歩して参ります」とユリアが答えると、アガサは手を動かしながらも顔を曇らせた。


「あら、早朝のお一人は危ないですぅ。私も…」

「何言ってるの、アガサがいないとパンができませぬ」

「……でもっ」



 ユリアはしぶるアガサを置いて久しぶりの一人に内心ウキウキしながら建物を出た。マルクスがやたら心配してアガサを側につけるので一人で散歩が出来ないのだ。しかしそれくらいの不自由に文句を言えるような身分ではないので黙っていた。


 朝の砂浜。まだまっさらな産まれたての命のような、清清しい状態が目に飛び込む。


「わぁ、綺麗!あ、貝殻だわ。集めてルシウス様に差し上げましょう…喜んで頂けるかしら」


 ユリアは手のひらに薄くてピンク色の小さな貝殻を集めた。光を受けて輝いている。知人の赤ちゃんの爪がこんな風に綺麗だったなと思いながら、なるべく完全な形のものを探す。


(小さな穴をあけて紐をとおし、彼に渡そう。次にお仕事で家を空ける時に持って行ってはもらえないだろうか…やはり迷惑かしら…)


 彼がもしかしたら嬉しがってくれるかもと、夢中で集めた。



「おはようございます、精が出ますね。どこのお嬢さんですか?早朝の海岸でも1人は危ないですよ」


 声をかけられてユリアが振り向くと、薄茶色の髪と灰色の瞳、パエヌラ(ウールで作られたフード付きマント)を着た男性が優しい目でこちらを見ている。知らない人だが悪い人ではなさそうだとユリアはホッとした。マントを留めるブローチの形状から彼も貴族パトリキであることがわかる。


「あ、あの…わたくしあちらの別荘に逗留とうりゅうしている者です」

「ああ、偶然だね。僕もあちらに今日からお邪魔する、ルシウスの幼馴染みのラエリウスと申します。貴女は?」


 ルシウスの友人と知ってホッとしたのもつかの間、名前を聞かれて口ごもった。


「っ…」


(どうしましょう…ティトゥス様との約束がありますし、本名はまずいですわよね?)


「…コ、コーネリア、と申します。ルシウス様の遠縁でして」と苦しい自己紹介をした。そんなユリアに頓着せず、ラエリウスはニパッと笑った。灰色の瞳が楽しそうに揺れる。


「そっかぁ、宜しくね、コーネリア」


 屈託のない彼の笑顔は、朝の清浄な浜辺にとても似合っている。反対に、夜の浜辺が似合うルシウスの姿が頭に浮かび、ユリアは顔をほころばせた。

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