第6話 女主人から一転奴隷

「さあ、これで全てっスか?」


 ティトゥスはカエサル家の使用人のアガサとパンピリウスにニコニコしながら荷物がもうないか尋ねた。

 彼の嬉しくて仕方ないという様子にパンピリウスは不思議で首をひねっていた。いや、はっきり言うと怪しんでいた。


(雇用主の奴隷を連れて行くのがこれほど楽しいなんて、どう考えてもおかしいではないか!この話には何か裏があるのでは…お嬢様が決めたこととはいえ話がうますぎる。まさか、雇用主に渡さずにこのままどこかに高く売り飛ばす手筈とかなのか…?)


 そんなパンピリウスの心配も知らず、「はい、宜しくお願いいたします」とアガサが思い切り深く頭を下げて赤いおさげがぶいんと跳ねたのでユリアは噴き出した。着せ替え人形のように愛らしかったのだ。

 パンピリウスはこれほど鈍そうなアガサにユリアを任せることを思い、心労で深いため息をつきながら嫌そうに口の端を歪ませた。出来ることなら自分が付いて行きたい。


 ティトゥスの雇い主ボス、つまりユリアの主人になる人物はアガサを連れて行くことを許してくれた。

 金で買われた奴隷同然のユリアが侍女を連れて行くなんて滑稽こっけいかつ有り得ない話なのだが、ティトゥスのボスからの強い申し出であり、それをアガサが喜んで受け入れた。彼女は奴隷となるユリアのそばにいてともに新しい主人の使用人になることを選んだ。

 もちろんユリアも心強いのだがどのような境遇かわからず不安が残る。彼女に対して責任があるのだ。


「あの…ティトゥス様はなぜそのように嬉しそうなのですか?」とパンピリウスは不躾ぶしつけな質問だと彼に打たれるのも覚悟で質問した。奴隷身分とはいえどうしても黙っていられなかったのだ。

 アガサもユリアも言われてみたらという感じで不思議そうににやけたティトゥスを見る。しかし、パンピリウスほどは彼を疑ってはいないようだ。


「あれ、そんなに嬉しそうにしてましたっスか?すいません、別に他意はないので安心して下さいっス」

「いえ、そういうわけではなく、あの…」とパンピリウスは金髪の頭を揺らせて不安そうに首を前にかしげた。


 それを見てティトゥスはやっと彼がユリアを死ぬほど心配していることに気が付いたようで、褐色の頬を赤くした。


「えーっと、実はっスね、ちょっと恥ずかしいのですが、私の敬愛するボスが喜ぶ顔を見たいのです。ボスが笑う顔を私はもうずいぶん見ていないものですから…」


 ティトゥスは目を細め、雇用主の昔の笑顔を懐かしそうに思い出しているようだ。嘘を付いているようには見えないが、ユリアはそれを聞いて腑に落ちなかったようだ。しかし詮索は無用と先日言われたばかりだった。


「…わたくしが行くとご主人様が喜ぶのですか?」


 言外に貴方のボスは私の知り合いなのか、というユリアの質問には答えず、ティトゥスは眉間にしわを寄せたまま続けた。どうも頭はボスでいっぱいらしい。


「…以前は大地が揺れるほど豪快に笑い、怒り、大声で話す人でした。しかし、ある事件をきっかけに寡黙になり一切笑わなくなったっス。つねに沈痛な表情でおられます。だから私はユリア様が彼を変えて下さることを期待しているんス…」



 ユリアとアガサ、パンピリウス、ティトゥスの4人はカエサル家の前で最後の荷物の確認をした。ティトゥスの連れてきた御者とパンピリウス、アガサが少ない荷物を馬車に放り込む。


 この家は友人のポンポニアに貸さなくて済んだ。

 丁寧な断りの手紙に対して、友人は喜びと祝福の返答を返してくれた。最悪の状況での神の恩恵を感じると。

 しかし、友人が本当の事を知ったらどう思うかを考えると、ユリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。突然にローマから消えたユリアに対してきっと烈火のごとく怒るであろう。


 ユリアは家の鍵をぎゅっと握りしめてからパンピリウスに託した。もう二度と父や友人に会えない、と思いながら。

 近い親戚の男性はカルタゴなどとの戦争であらかた亡くなっていない。元老院の政治家としてだけでなく武勲の誉れも高い貴族パトリキのカエサル家の男たちであるから、ローマの為なら真っ先に従軍し、先頭で立って敵を恐れず戦うよう幼少から教育されていた。


(秋の収穫で農場からの収益も上がってきたので、父が生活に困ることはないわ。亡くなった先代の管理者の息子に農場経営は任せたから今度は大丈夫でしょう。素晴らしい管理者の背中を見て育った息子はきっと信用できます。この家はパンピリウスがいますので全く心配しておりません。そして父が新しい家庭を作ってくれるならば私も満足ですわ…カエサル家を潰すわけにはいきませんもの)


「パンピリウス、とても感謝しています。父を頼みますね。では参りましょう」


 金髪碧眼の彼の手をユリアはぎゅっと両手で握りこんだ。彼の青い目が涙で揺らいでいるのでガイウスが本当に帰ってくるのか不安なのだろう。でもそんな不安を吹き飛ばすかのようにユリアは微笑んだ。自分の選択に間違いがないと信じていたのだ。

 奴隷の手を放してユリアが安心させるように頷き、ティトゥスが御者に指示すると、ゆっくり馬車は動き出した。


 彼女を探さない事と、パンピリウスを解放奴隷にするようにというお願いをしたためた手紙をガイウスは見、きっと実行してくれるだろう。新しい家族を作って家を繋いで欲しいという思いでユリアがこうして身売りしたことは、ガイウスならば書かなくともわかるはずだ。


(もうここには二度と帰ってこられないのだわ…わたくしが育った家…お母様、お兄様…そしてお父様やポンポニアとの美しい思い出の家…)


 そう考えた瞬間、ユリアはぐらりと眩暈めまいがして馬車の床に座倒れ込んだ。ティトゥスが慌てて前方のドアをたたいて御者に合図した。


「大丈夫ですか、ユリア様!御者、止まれっ!!」

「だ、大丈夫です、申し訳ございません。気疲れが一気に出たのでしょう」


 アガサが二つの赤毛のおさげをぎゅっと握って眉間に皺を寄せて心配そうに見守る中、青い顔のユリアはティトゥスの助けを借りて椅子に座りなおした。手には嫌な汗がべっとりとついている。今更ながらだが、今後自分が奴隷となり、大金の対価を払うためにこれからするだろうことを考えて、空恐ろしくなってきたのだ。


 借金のに奴隷になる。


 都市部ではよくあることだが、半年前まではまさか自分がそうなるとは思ってもみなかった。殴られても蹴られても殺されても、つまり何をされても文句が言えない身分である。高く売れる金髪の奴隷を作る為に延々と子供を産まされるという話もある。


(果たしてわたくしはご主人様が望むような奴隷になれるのでしょうか?このように甘やかされぬくぬく育ったわたくしなどが耐えられるのでしょうか…!?)


 そんな疑問と不安が胸を満たして少しずつこぼれ、涙となってしまいそうだ。しかしアガサにはそんな気持ちでいるのを知られないよう、ユリアは目を閉じて寝たふりをしてぐっと我慢した。ひざ掛けの下の両手の拳はぎゅっと痛いほど握られたままだった。

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