第5話 年末の令嬢大売り出し

 共和制時代のローマ人は、妻が犯す最大の罪は不貞であると考え死罪に処した。男性が身分の低い他の召し使いや娼婦をパートナーとすることは問題がなかったのに、だ。

 妻の不貞は社会秩序に対する犯罪であり、宗教的犯罪だった。

 しかし言い換えると宗教サークルに組み入れられていない女性は自由に振る舞える。


 ユリアは貴族という身分を付加価値にして奴隷となり、対価として大金を手にいれようと目論もくろんでいた。貴族の結婚では女性側が相手に見合った持参金を用意するので、彼女が結婚した上に12月までに身代金を用意するのは不可能だと判断したのだ。



「また行かれるのですか、お嬢様ってば本当に凝りませんねぇ…私呆れましたよぅ」

「あら、嫌ならばパンピリウスに付いてきてもらいますからあなたは来なくていいのよ?しかし今日こそ売れるかもしれません。アガサは協力してくれていますが、本当はわたくしが売れるところを見たくないのでしょう?」

「ぴゃっ…なんでわかったのですかっ?」


 アガサは動揺して思わず自分の太いおさげを引っ張った。


「『アガサ』は本当に名前の由来通り『善良な人』ですね。表情でまるわかりです」とユリアは笑って言った。


 昼寝のあと、アガサはうなだれながらユリアの用意を手伝っていた。今日は12月最後の週末だ。つまりは、ユリアの思惑通りにはいかず、今日彼女が売れなければこの土地屋敷を売って身代金を用意することに決めていた。

 ユリアにとっては最も不本意な方法だが、アガサとパンピリウスは当然それを望んでいた。3人で密に過ごした3か月で、この少しお天然でお人好しな女主人をますます好きになってしまっていた。

 土地がなくても当主ガイウスが帰ってきたらまた土地を購入して屋敷を建てたらいいじゃないかと、2人は考えるのも当然だった。

 しかしローマでは土地が不足しており、大邸宅を建てる貴族はどんどん郊外に押しやられていた。今のカエサル家の規模の土地家屋を再度ローマ市内の中心部に建設するのは不可能だ。

 ユリアはこの土地家屋を所有することがカエサル家の未来にとって有用だとわかっていた。それに、口ではおまえの好きにしたらいいと言っていたが、父ガイウスは愛する妻との思い出が詰まったこの家を捨てるのを望んでいない。


「…ユリア様が奴隷にだなんて、私たちは我慢できませんっ!今すぐにでもお嬢様をこの部屋に閉じ込められるなら…」


 アガサは泣きそうな顔でユリアの髪をゆるく巻いていた。今流行りの髪型なのだ。

 ユリアは自分の為にアガサを悲しませているのを見ない振りをした。そうしないと負けてしまいそうだ。


「そうですか…アガサ、苦労をかけて申し訳ありません。しかし、それも今日で終わりです。わたくしが売れるかどうかは神々のみぞ知る、ですわ」と冷徹に言い放った。迷ってはダメだ。


「…わかりました…」


 いつもより念入りに用意し、一番上等な絹の衣服に装飾品を身に着けてユリアとお付きのアガサは家を出た。



「さあさあ、もう週末の名物となった貴族の美しいお嬢様だ!20歳ハタチだが、まだまだ子供も産めるよ!なんと今日が最後の競り参加だそうだ!!さ、誰か5万セステルテイウス(※注約1000万円)を用意できないかい?俺もだんだん情が移ってきた、さあっ、誰か手を挙げておくれ!!」


 毎週ユリアが奴隷市場の競りに押しかけて自ら自分を売ろうとしていたので、ここでは有名になっていた。わざわざ評判を聞いて遠方から見に来る人までいた。 

 それほど清楚で美しいのだが、いかんせん高額過ぎる。

 平民はもちろん、普通の商人では難しい額だ。かといって、ガイウスの知り合いの貴族は今が盛りのユリアを見知っていて欲しいと思っても手を出しにくかった。彼の娘を奴隷にしてしまうとなると、ガイウスが帰国したら合わせる顔がない、ということだろう。

 奴隷商人が会場を盛り上げるが、誰も名乗りを上げない。そこでユリアは司会者に目配せした。値下げの合図だ。奴隷商人も彼女が売れないと報酬をもらえない。


「仕方ないね、4万だ!年末大売り出し、特売だよ!!さ、誰かこの不憫な奴隷志望の貴族の娘の願いを叶えてくれまいか?!人助けだ!!」


 すると、値下げが効いたのか、初めて声が上がった。ユリアの顔がぱあっと明るくなる。1万セステルテイウスなら先月と今月の農場からの収入で払えるので、合わせて5万で身代金に出来る。


「本当に奴隷でいいんだな?俺には本妻がいるから側女そばめにするが」


 その声の主は恰幅のいい男性だった。商人で40歳くらいだろうか?苦労してきた経営が落ち着いてきたので、ハタチの娘をそばに置いて残りの人生を楽しみたくなったのだろう。

 司会者がその質問に困っていると、


「もちろん大丈夫です、お金さえ払って下されば殺されても文句は申しません」とユリアは笑みを浮かべながらはっきり言った。可哀想な舞台のそでにいたアガサの頬が醜く歪む。


 ユリアからそれを直接聞けて、商人は破顔した。

 これだけの証人がいるのだ、万が一にも奥さんが嫉妬で彼女を殺してしまっても問題ないだろうし、まず奴隷なら裁判にもならない。にんまりしながら、これから10年は太った奥さんを仕方なく抱く必要もなくなると考えていた。


「よし、じゃあ…」


 男が立ち上がった瞬間、


「満額の5万セステルテイウス(※注約1000万円)を出すっス!」と会場の後方から張りのある声が上がった。会場に来たばかりのがっちりした肉体を持つ黒目黒髪の若い男性に皆が一斉に注目した。

 しかし彼は戦場帰りの兵士のようで、とても大金を持っているようには見えない。会場からブーイングが起こる。皆ユリアに同情しており、もしや彼女がこの若い兵士にだまされてお金をもらえないんじゃないかと心配して声を上げた。

 しかしその男は舞台の彼女と司会者の前まで歩み進んで大きなズタ袋の口を開けた。そこには大量のセステルテイウス銀貨が入っている。

 観客が銀貨を確認しに集まった。先ほどの商人は銀貨の山を目にしてこそこそと羞恥心にまみれて会場を出て行った。

 奴隷商人は現金を目にして態度がころりと変わり、商機を逃すまいとすぐさまその若い男と契約書を交わしている。金額が大きいだけに彼らの手に入る手数料も半端ない金額になるのだ。その様子を見てユリアは不安に感じて聞いた。


「…あの、わたくしをチェックもせずに買って宜しいのですか?みな奴隷を裸にして欠陥がないか隅々まで調べるとお聞きしました。歯や髪、足の指先まで見るものだとこのセリの方に覚悟を教えて頂いたのですが…」


 会場の皆もそう思ったのだろう、すぐにお金を払う若者にざわついている。ユリアはその若者が検査もせずに買うなんておかしいから夢かと思ったのだ。


「もちろんっス。私は雇用主ボスに頼まれ、代理で来たのです。間にあって良かったっス!」


 それを聞いてユリアはようやくほっと胸を撫でおろした。


「本当ですか!嬉しい…皆さま、ありがとうございます!これで父の身代金が用意できます!!」


 彼女が3か月間週末に奴隷市場で自分を身売りする姿を見てきた観客は、喜びでどよめいた。


「良かったな!」「頑張れよ!!」「父親を大事にするんだぞ!」


 横を見ると司会者までお金を数えながらもらい泣きしているではないか。


「司会者様、あなたの素敵なのおかげですわ、ありがとうございます」


 ユリアが礼を言うと、会場が大きな拍手に包まれた。司会者は礼など言われたことがないのか戸惑ってにへらと笑った。

 奴隷会場から拍手など聞こえてきたことがないので、市場の皆は目を丸くして鳴りやまない拍手を聞いていた。本当であれば貴族令嬢である身を落として奴隷になるという悲愴な場面なのに、なぜかさっぱりきっぱりしたユリアにかかると彼女が目的を達成したようで嬉しく感じていた。




「では、明後日の早朝に改めてお迎えにあがりますので、荷造りをしておいて下さいっス。我がボスは貴女がすでに売れてしまってないかと酷く心配しておりますので、急いで連れて戻りたいのです。この銀貨はお父上の身代金になさるとお聞きしました。ボスが責任をもってカルタゴに運んで身代金の支払い手続きをし、お父上を連れて帰国すると申しております」


 若者はユリアとアガサを馬車で屋敷まで送り届けてくれた。そこでの余りな申し出にユリアは声が裏返りそうになった。


「ま、まぁ…。とても過分なお申し出で驚いております。わたくしはそこまで甘えてしまって宜しいのでしょうか…」

「はい、ボスの商用のついでなので気になさらないで下さいっス。ただ、ひとつ条件がございます。ユリア様が我がボスのもとにいることは、内密でお願い致します。詮索も一切なしっス」


「…」


 確かに、金で買われて奴隷として彼のボスのモノとなるのだ、ガイウスやポンポニアが知ったらユリアに激怒するのは間違いない。

 平時であれば家族会議で家名に泥を塗る行為だと家長に打ち殺されても文句が言えない行為だ。それに、奴隷ならばいつ主人の逆鱗に触れて殺されるかもわからない。


(相手は大金を用意できる貴族パトリキか大商人の可能性が高いのだから、父と揉めると困るのね、きっと…)


「はい、わかりました。父が無事に帰ったならば、一切詮索せず殺されても文句はないと家名と我が家の守り神、マルス神に誓って約束致します」


 彼女がそう言うと、彼は芯から驚いたように目を見開いた。軍人上がりだと立派な体躯ばかりに目がいっていたが、よく見ると愛嬌のある黒目黒髪の男性だ。


「こ、殺されっ…?!いや、私のボスの下ではそのようなことは万が一つもございませんので、ご安心下さいっス。使用人に対してとても慈愛に満ちた方です。あ、申し遅れましたが私はティトゥスと申します、以後お見知りおき下さいっス。ではサルウェまた!」


 彼は調子よく笑ってから、丁寧に頭を下げて馬車に乗り込み車輪の音とともに闇に消えた。

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