第4話 獣人との出会い

「うーん、今さらですがこの家は広いですね。二人で管理するのは大変ですわ…よいっしょ!」


 作業用の真新しいトゥニカ普段着を着たユリアは、華奢な腕でリンゴが入った籠をキッチンに運んだ。邪魔な長い金髪は、作業するときは自分でてっぺんで丸くたまにするのが定番だ。

 珠からほつれた髪の束が動くたびにぷらぷらしている。


「そうでございますよぅ、お嬢様。カエサル家は名門中の名門ですから!」


 貴族の娘の割には力強いなと感心しながら、屋敷の唯一の侍女、アガサが威張って答えた。長年働いているカエサル家に愛着があるのだ。彼女はややくたっとして肌に馴染んだトゥニカを着ている。



 二人は朝日が昇ると共に活動を始める。

 パンとチーズ、牛乳で簡単に朝食をとったあと、せっせと中庭の果樹の収穫をしていた。パンとはいってもアガサが焼いてくれるものなので美味しいことこの上ない。毎朝ユリアは幸せの予感とともに起きられる幸せに感謝するほどだ。

 リンゴ・梨・プラム・イチジク・アーモンド・栗などが広々とした中庭に植わっている。天気のいい今日はリンゴと梨を収穫し、パンピリウスが言うには明日は雨が降るそうなのでジャムに加工するつもりだ。

 畑もあるので、そちらの手入れも計画的に行わなければならない。使用人が作ってくれた畑・果樹の管理ノートを見ながら、二人で計画を立てて家じゅうを走り回る毎日だ。

 庭園はまったく手をまわせないのできっぱり諦めた。秋で助かったと二人は密かに思った。


 いつもユリアのような貴族はトゥニカのうえにパッラというドレープ付きのコートを羽織るのだが、作業が多すぎてそんなもの着ていられない。

 二人でリンゴをせっせと磨いていると、食いしん坊な女主人のお腹がぎゅるりと鳴った。いつも同じ時間でタイマーのようだ。慣れてきたユリアはもう恥ずかしがりもしない。


「お腹が減りましたね、気が付かず申し訳ございません。今すぐ用意してまいりますぅ」


 アガサはやってもやっても終わらない作業に切りを付け、朝に焼いたパンと牛乳、いつものキャベツのスープにベーコンが申し訳程度に入っている昼食を温め、食堂に女主人を呼んだ。2人は向かい合って一緒に食べる。

 パンピリウスの分はいつものように隣の部屋に用意した。彼は一緒に食べたがらないので、都合のいい時にいつでも食べられるようにしておくのだ。

 本当は3人で食べたいのだが、パンピリウスは忙しいし、ひどく奴隷であることを恥ずかしがって一緒に食べようとはしなかった。誘うたびに困り果てた様子で灰色の瞳を乙女のように恥ずかし気にふせて俯くので、アガサもユリアもきゅんとなるのだ。それくらい可愛らしい金髪のくせ毛の奴隷だった。

 広大な土地家屋に男手が1人きりなのは思ったよりも大変で、彼は毎日車輪のように駆けずり回っていた。その様子を見るにつけ、ユリアはガイウスが戻ってきた暁には必ず彼を奴隷から解放すると決めていた。

 そして、アガタとパンピリウスのスープにはいつも一切れもベーコンが入っていないことにユリアは気が付いていた。不甲斐ない思いをしていることを悟られないようにいつも二人には面白い話をして笑わせるようにしていた。笑っていたら何とかなる気がするのだ。


 昼食のあとは二人とも少し昼寝する。

 その後は作業の続きをし、昼食より少しだけましな夕御飯は空がすっかり暗くなってからとる。明るい時間に夕食をとるのは、放埒ほうらつな生活の象徴としてカエサル家では禁止されていた。




 週末、ユリアは生地のいいトゥニカに上品なパッラを羽織って髪を後ろで優雅に巻き、二人は少し離れたローマ中央の市場に向かった。午後から奴隷の競りが市場の中央広場で始まるというので、買い物がてら偵察にいくのだ。どうしたら高く売れるのかを知りたかった。

 いつもカエサル家は購入するほうのお得意様だったのに、まさか自分を売る日が来るとは思っていなかった、と思わぬ皮肉に笑ってしまう。しかしこれも家の為だ、ユリアは考えても仕方のないことを頭から追い払った。


 市場の入口脇に並べられたテーブルの上にはローマ全土から集められたハーブやスパイスが積み上げられている。サフラン、胡椒、塩の大きな塊、パプリカ、ハッカ、ニンニク、魚醤、アリサ、香草が香気をもらたす。

 スパイスゾーンの次は壺や鍋、ランプなどの生活用品が、次には山積みの果物や野菜がある。

 奴隷たちが主人に命じられて肉や野菜、魚売り場に群がっていた。

 葡萄酒の樽の横には物乞いや、戦争で手柄を立てたり足や手を治療できずに腐らせた話などを聞かせる元兵士などが座り込んでいる。


「まあ、いつもの市場より広いし人が多いですねぇ。お嬢様、私の後ろから離れないで下さいませっ!」

「市場とはなんと刺激的で不思議な場所なのね…目が離せませんわ!」と飲料水を大きな皮袋にいれて売り歩く者がすれ違うのをじっと見ながら、のんきなユリアは言った。緊張いっぱいのアガサは気が抜けてすっ転びそうになる。


「もうっ、お嬢様ったら!」


 アガタは女主人を危険な目に合わせることのない様にきょろきょろとしながら前に進む。その様子はさながら迷い子のようで、パンピリウスを連れてこれば良かったとユリアは後悔したくらいだ。

 両側には店舗が並び、衣装や衣装飾り、髪飾りなど若い女性が見たくてたまらないものがたくさんあるが、彼女は忠犬宜しくユリアを守っていた。

 衣類・服飾のゾーンを出て、また食料品コーナーにはいるとさすがのアガタも安い乾物に目がいってしまう。


「あ、お嬢様!スープに入れる干し肉が欲しいです、見に行きましょう!」と言って、女主人の手を柔らかく引っ張りながら進む。

 ユリアが、この小さな手に自分が大きな負担をかけていることに罪の意識を感じていると、すぐ近くで大声が上がり、大柄の男性が地面に転がされて男性4,5人に囲まれ蹴られ始めた。


「…どうしたのでしょう?」


 ユリアは関わりたくなさそうな表情のアガサの手をぎゅっと握り込み、人の輪に加わった。


「おい、獣人のくせに市場にきてんじゃねーよ!伝染うつったらどうしてくれるんだ!!」

「そうだ、こいつもう頭が半分狼みたいになってやがる!こんなのくせに、人が集まるとこに来るなんて…死ね!この疫病神めが!!」

「おい、奴隷商人からおりを借りてこい、ちょうど今から奴隷の競りが始まるから引き渡そう」

「そうだな。よし、俺が見張っててやる」


 彼らが檻を探しに行くと、一番が大きい男が見張りで残った。

 足元には踏まれ蹴られてぐったりした大柄な男性が転がっている。立ったら見張りの男など吹っ飛ばしそうなほど筋肉が美しくついた均整の取れた体躯だ。軍人のようだ。

 身体に痛みを感じているというよりは、精神的にひどく打ちひしがれているように見える。


 ユリアは頭部が変化した獣人を見るのは初めてだった。頭を抱えているのでよく表情は見えないが、ローマ建国神話にでてくるロムルスとレムスの双子を育てたという狼を思わせる。

 ふと震える手を感じて横を見ると、涙目になったアガサが身体をブルブルと震わせながら無意識で盛んにスカートのすそを直し、獣化した足を周りに見せないようにしている。ユリアはアガサの背中にそっと手を添えて撫でたらびくりとした。


「…アガサ、大丈夫ですよ。あの、わたくしの首飾りを外してくれませんか?」

「ぴゃっ…はい…あ、はい、お嬢様」


 アガサはまだ少し震える手でユリアの首から母親の形見の水晶のネックレスを取り外した。氷室から切り出したばかりの氷のように透明度の高い水晶は母のお気に入りだったそうで、ユリアはいつも身に着けている。

 

「恐れ入ります、ちょっと宜しいですか?」


 見世物に飽きた観衆が周りにいなくなるやいなや、明らかに貴族パトリキ階級のユリアに話しかけられて、転がる男を見張っていた大柄な男性はおののいた。

 身分ある女性が平民に話しかけることはあまりない。階級が違うのはトーガの縁取りの色や、パッラコートに付けた留金フィブラではっきりわかるようになっている。厳然たる階級社会なのだ。


「この男性を見逃して頂けませんか?この水晶を売れば500セステルテイウス(※約100万円)にはなるでしょう」


 男は憎々し気に転がる獣化した頭をした男をにらんでから、差し出されたネックレスを奪うように手に取った。


「…ふん、檻が来ちまう前に逃げるんだな」


「ありがとうございます」「あ、ありがとう!」


 ユリアとアガサは走り去る男にお礼を言い、いそいそと膝を付いて男性に声をかけた。


「あの…起きて下さいませ!もうすぐ檻が来たら捕まって殺されてしまいます、早くお逃げ下さい!!」


 ユリアが遠慮なく身体を揺らして声をかけると、男はゆっくり血走った眼でぎろりと睨んだ。


(…まあっ!初めて至近距離で見ましたが…まさに獣人ですのね!!)


 頭が獣化した人間は獣人と呼ばれて不吉のしるしとして恐れられていた。

 しかし、フードが外れた男の頭は彼女が噂で聞いていたような恐ろしいものでは全くなかった。思った以上にフワフワでモフモフで、顔の上半分の鼻先まで少し先端が白い茶色の剛毛が生えていた。昔母と観たエトルリア人の演劇に出てくるお面のようで美しく、撫でてみたいとさえ感じていた。

 そんなのんきなユリアにいら立ちを隠さない彼は眼に異常に怒りを含んで叫んだ。


「触るな!憐れんで優越感を感じて喜んでいるのか?!いい趣味だな!」


 相手を射抜くような言葉にユリアは目が覚める思いだった。そんな攻撃的な言葉をかけられたことがなかったのだ。

 質量があるかのように重いその言葉は、哀しみの塊の冷たい槍になってユリアを貫き、体内から彼女を冷やしていった。生まれて初めて自分がとんでもなく傲慢なモンスターのように感じた。


(わたくしは彼を助けるどころかプライドを傷つけてしまったのですね…)


 ユリアがしゅんとしていると、アガサは主人に乱暴な口を聞いた男が許せなくて怒鳴った。


「なんですってっ!お嬢様が大切なお母様の遺品を譲ってまで助けたのに、その言い草はあまりに酷いです!!撤回して下さいっ」


 いつもは事を荒立てないアガサが自分の為に怒るところを見て、ユリアは冷えてしまった心の一部がふんわりと温かくなって軽くなるのがわかった。


「いいのです、アガサ。あれはただのモノです。貴方、大丈夫ですか?連れが言うことは気になさらないで下さいませ。確かにわたくしは傲慢でした、謝ります」


 自分の中にある隠れた傲慢を指摘され動揺するユリアと怒り心頭のアガサを、その男は血走った目でぎろりと見据えてすっと立ち上がった。思った以上に背が高い。

 均整の取れた筋肉質な身体は常に鍛えているのだろう、暴行されたにも関わらず全く痛むところがないようでユリアは安心した。そして、なぜかどきっとした自分に戸惑った。

 獣人はさっとパッラのフードを深くかぶって人込みに紛れ、あっという間に見えなくなった。

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