第3話 ハタチの決断

「ふう…とりあえず、お金の算段をしましょうか。しかし、あの執事ってば本当にやってくれましたわね…これでは今月末に払う賃金も危ういですし、来月は絶望的ですわ…」



 カエサル家に長く仕えていた奴隷身分の農場管理者ウイリクスが急病で亡くなった。

 彼はガイウスの代理人であり、カエサル家が祭る神の前でも代理人であるとの誇りをもっており、有能で実直、主人の代わりに家長の名で神に対して供犠くぎを行い、農場を整備して管理した。

 しかし亡くなった彼の息子が若いから無理だろうという理由で後任に雇った男が曲者だった。ガイウスの友人の知り合いである自由身分の者だ。

 彼はカエサル家の雇ったばかりの執事と結託してガイウスとアウルスが遠い戦地にいるのを幸い、金庫に保管された財産と家畜を奪って逃亡したのだ。



 友人ポンポニアが帰ると、ユリアは金髪をぐいっと頭のてっぺんでまとめ、ぐりぐりとまわして金の珠を作り、気合を入れた。そして台帳を開いて現状を確認しながら冒頭の弱音を吐いた。

 なんとかユリアはカエサル家の女主人として破産しかけの家と農場の采配をしなけれはならない。

 

「思い切って支出を最大限減らすしかありませんわね…」


 皆で手分けして手元に残った金目のものを売り払った。なんとか雀の涙の退職金を用意し、屋敷の使用人ほぼすべてにいとまを申し入れた。残るのは若い下男のパンピリウスと料理上手のユリア付きの侍女、アガサだけだった。


 若い下男パンピリウスはギリシアから連れてこられた奴隷だ。

 碧眼・褐色の肌に金色の短髪くせ毛の彼は、1年ほど前にカエサル家に買われたばかりの17歳だ。医者の家で育ったために学があり、字が読める。その上食料品・日用品の買い物から訪問客の対応、掃除などほぼすべてにおいてそつなくこなすので父ガイウスを始め皆に頼られて気に入られていた。

 彼がいれば、ガイウスが帰ってきてもなんとかなりそうだった。


 侍女アガサは右足の膝から下が獣化している元奴隷の侍女だ。鮮やかな赤毛に褐色の肌、キラキラと光る黒い瞳の彼女は常に元気をまき散らしており、周りの人間を明るくした。

 あと少しで貧民と呼ばれるギリギリ平民の家で使用人のように育った彼女は、家庭内でも差別されていた。そして働ける年齢になったらすぐに親に売られて奴隷になった。兄が二人いたので、持参金を持たせないと結婚できない娘は邪魔だったのだ。実際、産まれたばかりの女児が街のゴミ箱の前に置かれているのはよく見かける光景だ。


 ローマではムダ毛の処理が盛んで、成人男子・女子は特に入念に手をいれていた。つるつるの肌がよしとされていたのだ。それもあって、獣化で処理できない体毛がわさわさ生えていると気持ち悪がられた。

 しかしおおざっぱなガイウスは全く気にせずに12歳の赤毛に黒目のアガサを買った。生来のおおざっぱさと、母が亡くなり寂しがっているユリアに年齢の近い明るそうな使用人が欲しかったのだ。

 買われた直後は従業員内で明らかに孤立していたが、彼女に目をかけて厨房ちゅうぼうで料理を学ばせたのはユリアだ。

 獣化した人間は嗅覚が鋭くなるので料理上手が多い。料理が得意だと仕事場では重宝され、給料も良くて引く手あまただ。その上、ユリアは甘いものが好きだったので、料理の勘がよくて自分の好みをわかってくれるアガサに何かとスイーツを作らせた。美味しいとチップを貰えるのでますます彼女は頑張って研究した。

 彼女は黙々とお金を貯めた。カエサル家は訪問客からもらえるチップが多く、奴隷でも殴られたり酷い目にあったりすることもなかったので逃げ出すこともなかった。何より行くところもないのだ。

 そして去年やっと他の使用人と同じくガイウスに自分を購入した分のお金を返して解放奴隷となった。そのまま住み込みで勤めてお給金をもらっている。もうカエサル家に来て7年、今は19歳だ。



「だってぇ、新しい主人に仕えるのは嫌なんですよぅ…この獣足のせいでいじめられます!いえ、この足では働き場所も見つかりませんって!ご飯と寝る場所さえあるのならお嬢様のそばにいます。いや、いさせて下さいよぅ、お願いしますぅ!」


 喪中用の黒い侍女服を着たアガサはユリアに頼み込んだ。癖の強い赤毛を2本の太い三つ編みにし、褐色の肌にはそばかすがたくさん浮かんでいる。

 いつもニコニコしており瞳は宝石のように黒くて輝いている。とても幼少に発症して差別されてきたとは思えない明るさに感心し、ユリアは常に侍女ユリアを側においていた。

 そして、アガサは恩に報いるとかそういった高尚な意識は全くこれっぽちも持っておらず、単純に他の屋敷に行けばひどい目に合うのでユリアのそばを離れたくないと言った。そういうあけすけなところもユリアにとっては好ましかった。彼女は父と同じく人の心の裏を探るのが苦手なので、わかりやすい人間が近くにいるのは安心だった。

 しかし確かに彼女の言う通りだった。どうしても獣化した人間は差別の対象となっていおるので、次の職場にはあまり期待が持てないと言うのも責められないのだ。それにまだ19歳なので不安なのだろう。しかしユリアも手元不如意なので致し方ないのだ。


「アガサ…貴女は奴隷でもないのに本当にここに残るのですか?当分お給金もあげられないのよ…わたくしは父の身代金を作らないといけませんから」

「いいんですよぅ、だってお嬢様お一人ではあまりにも《悲惨》ですもの。お料理も裁縫もお出来になりませんよねぇ?どうされるおつもりでしたか、パンピリウスにさせようと?」


 アガサは年下のくせに主人の痛いところを突いた。ユリアが本ばかり読んで、裁縫も料理も出来ないのは皆が知っていた。そして、万能とも言われるパンピリウスの唯一の弱点は料理だった。彼の作ったものは食べられたものではないとある意味評判だ。



 ちなみにユリアはハタチ20歳だ。本当であれば貴族の娘は結婚も済んで子供もいる年ごろなのだが、適齢期をとっくに逃していた。普通は家長が12歳ごろに結婚相手を決め婚約式をする。

 しかし彼女は全く結婚に興味がなかった。そもそも恋愛さえもどういうものかよくわかっていない。

 その理由は明らかだった。

 父ガイウスと兄アウルスがユリアを溺愛しており、男性がいかに乱暴で横暴で身勝手か、結婚がいかに女性に不利でせっかくのいい性質を悪く変えてしまうかを小さなころから吹き込んでいた。間違ってはいないがすべての結婚が不幸だとは決まっておらず、誇張されていたのは否めない。実際ユリアの両親は仲が良かったのだ。

 要するにユリアを好きで仕方ない二人は、家で待っていて欲しいがために無意識に彼女を洗脳してきたのである。


 ユリアの父は妻を強く愛しており、10年前に亡くなってからというもの戦争と政治にのめりこんでいた。めとった妻をすぐに亡くしたユリアの兄は、そんな心に深い傷を負った父を心配していつも戦場ではそばにいたと聞く。

 ガイウスは自由な考えを持っており、普通は受けさせない兄と同じような教育を家庭教師を雇ってユリアに与えた。カエサル家では体罰は禁止であり、読み書き数学という基本から、哲学者の著作やローマの識者の思想を本人が好きなだけ勉強させた。

 そのかわり、普通の貴族の娘が母親から習う裁縫と料理はからっきしだ。


 嫌がるパンピリウスに頼もうと企んでいたことを見抜かれたようで彼女は声を失った。


「くう…っ!」


「ほうら!まともなものを食べないと今のお嬢様の美貌もあっという間に崩れますよぅ。このアガサをそばにいさせて損はさせません」と彼女は三つ編みにした二つの赤毛を両手でぐいと引っ張って勝ち誇ったように胸を張った。鼻息も荒い。


(いえ、アガサが損しますよ、という話なのですが…まあ、実にありがたいことですし心強いですわ。このには飛びっきりのお礼をしないと…)


 ユリアはいつも首にかけている母様の形見の氷のように透明な水晶を指で触りながら、パチパチと頭で算盤計算機をはじいて彼女に損をさせないように考えた。一つくらいは宝石も売らずに残せるだろう。

 奴隷でもないアガサに無給で働いてもらうようなフェアでない関係は、ユリアは絶対に嫌だった。誇りあるカエサル家の人間なのだ、ご先祖様や父に恥ずかしいことは出来ない。


「ありがとうございます、ではお言葉に甘えます。ではアガサ、いきなりですが今年の末までにわたくしはこの屋敷を出なければなりません」

「ぴぇっ、あと3か月しかないじゃないですかぁ?!」


 アガサの素っ頓狂な声にユリア慣れっこで、平然としている。


「そうなのです。それまでにわたくしを高く買ってくれる人を探します。週末は奴隷市場通いですわよ」

「ま、まさか…!お嬢様は身売りされるのですかぁ?」


 さすがにアガサも顔が青くなった。自分が12歳の時に奴隷市場のセリにかけられた時の屈辱はまだありありと思い出せる。

 首にはプレートをかけられ、下着同然の恰好で市場の聴衆の嘲り、憐れみの奇異の目にさらされた。死にたい気持ちとはこういうものかとさすがのアガサも心が冷えた。

 購入前に市場の壇上で服を脱がせて隅から隅まで調べるという買い主もいたが、運良くガイウスに買われたのでそのような事にはならなかった。しかし商人には病気などがないかなど細かく調べられた。奴隷商人も信用第一、お得意様に病気持ちの奴隷を売るわけにはいかない。


「そうです。どんな人でもどこの国の人でもいい、父の身代金5万セステルテイウス(※約1000万円)を出してくれる人ならば誰でもいいのです。この家屋を売ればすぐに手に入る金額ですが、父が帰ってきて母との思い出の家がないのは困りますので」


 ユリアはぎこちなく笑った。その青い瞳に恐れはあっても迷いは一切なかった。

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