第2話 奇妙な伝染病

 紀元前210年、ローマから海を挟んで東に位置するマケドニア王国の奥地に光が落ち、大地が震えた。

 アンティゴノス朝マケドニア王国の王・ピリッポス5世は、直ちに軍の部隊をやってその光の原因を探らせた。時はローマ・マケドニア戦争中であったが、決定的な交戦はなく、緊張状態ではあったが比較的穏やかであった。ローマは宿敵カルタゴと激しく戦争をしており、そちらに注力していた。



 下記がピリッポス5世が調査隊から受けた報告書だ。



『住民からの聞き取りによる光が落ちたとされる山の斜面には、大人3人が余裕で寝転べるほどの巨大な穴が穿うがたれ、中央には絶え間なくブスブスと煙を上げる漆黒の物体があった。大人の胴体ほどの大きさのコールタールの塊のような鉱物だ。とても重く兵士が5人がかりで運ばねばならない。

 その鉱物を首都に運ぼうと試みたが、運び出して数時間で直接触れた兵士たちの身体に異変が現れた。恐れをなした隊長の一存でその場に深い穴を掘り鉱石を埋め、入口に岩を据えた。

 その異変とは、触った部分から明らかに人間のものでない茶色の剛毛が草むらのように生え、酷い者は骨が変形する、というものだ。長時間触れてしまった2人の兵士は獣のように4足歩行をするようになり、頭部が狼のように毛むくじゃらで人語が話せなくなった。

 内1人は話せないだけでなく理解も全く出来ず、口よりよだれを流して他の兵士に襲い掛かる為、やむなく彼ら2人を打ち殺し、鉱物と一緒に遺体を処分した』



 これを読み終えたピリッポス5世は、


「何やらそら恐ろしい話だな。隊長によくやったと伝えろ」と指示を出した。


 未知のモノに対する恐怖を人一倍敏感に持つのが上に立つ者の務めだ。そして隊長はそれを遂行した。問題はない。


 事件はそれで終わったはずだった。




 しかし1年後、マケドニアに奇妙な伝染病が蔓延していた。

 身体の一部(足・腕・顔・腹部・背中)から異常な分量の剛毛が生えるというのだ。発症したものは未知の鉱物の存在さえ知らないしもちろん触れてもいない。

 王の命を受けた医者や学者がこぞって原因を調べたが、伝播の経緯も接触や飛沫ではなくどうも空気感染のようで防ぎようがないという結果が出ただけであった。

 もちろん治療方法もない。


『1年前に空から落ちてきたという物質アレが原因だろう…やはり人が触れてはならぬものであったか…』


 マケドニア王はそう思ったが、蔓延した今はどうしようもなかった。実際どうしたらよかったのだろう。調査に向かった部隊の隊長が最善の方法を取ったのは間違いないのだ。


 病を発症した者はどの階級の人間からも強く忌避された。

 古代から人類が恐れていたもの、それは『伝染病・戦争・飢饉』だったからだ。

 発症した者のうち、頭部が変形したものは『獣人』と呼ばれて最も恐れられた。

 それでも人語を理解する者は家畜以下の値段で売買され、酷い扱いを受けていたが生きられた。しかし理解しない者は容赦なく広場でみせしめに打ち殺されたり、男女を檻に入れて犬のように性交させるなどの見世物にされた。

 彼らは罪人・家畜以下の存在でありいかなる権利もなく、どのように扱われても仕方ない、という空気が出来上がっていた。国もそれを国民のストレス抜きとして役立つと判断し、放置された。


 伝染病で混乱したマケドニアは、ローマ・マケドニア戦争を早期終結させるために同じくローマと長期の戦争をしているカルタゴに共闘を申し入れた。そしてカルタゴはそれを受け入れたが、その1年後、マケドニアに行き来のあるカルタゴの商人や兵士に獣化する伝染病が散見されるようになった。


 強い感染力で瞬く間にカルタゴもマケドニアと同じ状態となり、獣化した人間が散見されるようになったが、病気が発症するのは両国とも人口全体の3%ほどを推移していた。しかも伝播の範囲が広くなるにしたがって重症化はまれとなり、死亡率も低くなっていった。

 爆発的に増えることなく減ることもない伝染病は、恐ろしいことにいつしか日常に馴染んで風景となっていった。人には生活があるのだ、病気を恐れ続けて家に籠っているわけにはいかない。外に出て経済活動を行い、生き抜かなければならなかった。


 そして勝者のなきマケドニア・ローマ戦争が終わり、ローマ対カルタゴの第二次ポエニ戦争ではローマが伝染病で混乱するカルタゴに最終的に勝利した。紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた10年にわたる戦争だった。

 しかし戦争で戦ってローマに帰国した兵士から伝染病はまたたく間に広まり、激しい混乱をもたらした。そしてマケドニアと同じく1年もすると病は日常化し、混乱は沈静化していた。




 時を経て紀元前147年。

 ローマ有力貴族パトリキであるユリアの父・ガイウス・ユリウス・カエサルは、敵国カルタゴに捕虜として囚われていた。

 その娘ユリアはカエサル家の存続の為に身代金を作らねばならなかった。なんせ兄も亡くなったので、どうしても父に帰ってきてもらわないと困るのだ。

 父が選んだ執事がもたらした災厄とはいえ、家を任されていたのにこの体たらく、情けなくて何度悔し涙を流したかわからないほどだ。


「まあまあ、いざとなったらうちの旦那に売ればいいのよ!言い値できっと買いますわ」


 ユリアの兄の葬儀に遠方から駆けつけてくれた一つ年上の幼馴染のポンポニアは、姉御らしく真っ赤に染めた髪を揺らして任せとけと言わんばかりに豪語した。

 ローマに多い褐色の肌、大柄でがっちりとした体格と豪放な性格はユリアにはないものだ。

 彼女は14歳で地方都市の裕福な貴族の家にお嫁に行ったのだが、相手が二回りも年上のせいか子供が出来ず、ローマに頻繁に遊びに来ては自分の実家でなくユリアの家に泊まっていた。ユリアの金髪とポンポニアの赤髪が並んで揺れるのをカエサル家の者たちは微笑ましく見ていた。


 来年から彼女に甘えて土地家屋を月契約で貸すが、ガイウスの身代金を用意できなかったら最悪購入してもらうことになるだろう。カエサル家は古い家柄の為、ローマの一等地に他家に類を見ない広さの土地家屋を所有しているのだ。

 平時のカエサル家ならばたいしたことのない金額なのだが、いかんせん執事に財産を持ち逃げされてしまい手持ちがない。

 ユリアは捕虜である父の命は今年いっぱい、つまり3か月がリミットだと冷静にみていた。


「なんとかなるといいのですが…あの、何度も言いますがお金をお貸ししてもいいのですよ?」

「そ、それはダメです!借金など父が許しませんから!!」


 ポンポニアは頑固なユリアに深いため息をついた。


「あのガイウス様ならきっと許してくれると思うけど…」


 彼女はユリアに激甘の父親の顔を思い浮かべた。


「ダメです!万が一何かあって返せなかったら貴女に迷惑をかけるでしょ?それは絶対に嫌なのです…」


 ポンポニアは眉をひそめ、頑固な友人の髪を撫でた。ローマ北方のエトルリアよりもっと北の部族に多いという美しい金髪と青い目、白い肌がユリアの美しさを倍増させている。ローマの誰もがうらやむ容姿をしているのに彼女はどこまでも謙虚で頑固だった。


「わかったわ…でも絶対に無理はダメよ?ね、お願い…」

「貴女のわたくしを想う気持ちはありがたいのです。ポンポニアがいると思うと心強いわ」


 彼女は、愛しい友人の頬にそっとキスし「大好きよ、私の女神」と耳元で囁いた。ユリアはこそぐったくて、「もう、ポンポニアったら!」と言いながら赤い顔を両手で隠した。


(なんて愛らしいのだろう…私が代わりに身代金を払ってあげた時の彼女の喜ぶ顔を想像するとくらくらとめまいがするわ。正直言って旦那も旦那の家族もどうでもいい。ただ、父の政治と自分の毎日の生活を保つために必要な場なのはわかっている。お金には不自由しない贅沢な生活。でも…)


 美しいユリアに見とれながら、ぼんやりとポンポニアは考える。


(自分が男だったらユリアを守る為にいくらでも払うわ。彼女と毎晩一緒に寝られるなんて…ときめきしかないっ!)


 彼女は想像で顔を赤くした。

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