第31話 修復者パンピリウス
「オレが運ぶ」
廊下にいたプブリウスがポンポニアを見てパンピリウスに近寄り、有無を言わさず彼女を奪った。そして驚いて立ち尽くすパンピリウスに目もくれずに隣の部屋に向かった。
「は、はい。では宜しくお願いいたします。ポンポニア様の部屋はこちらでございますれば…」
「…おう」
パンピリウスがドアを開け、ポンポニアを運ぶプブリウスが入っていく。燭台の灯りで壁面に描かれた夏の爽やかな風景までが怪しく感じられる。
後から部屋の中まで付いてくるパンピリウスを邪魔そうに見ながら、プブリウスはポンポニアを部屋のベッドに運んで優しく横たえた。その顔はまさしく恋をするもののそれだ。
パンピリウスは薄いタオルケットを用意して彼女に掛けようとしたが、それさえもプブリウスに奪われた。彼は出て行くのかとおもいきや、彼女のベッドに座り込んだ。
(この方はポンポニア様の部屋を知っていて、廊下でうろうろして彼女を探すか一目見ようとしていた、ということだ。やはりプブリウス様はユリア様でなくポンポニア様に恋しているのか…)
「では私は失礼致します」とプブリウスに声をかけると、彼はパンピリウスに初めて気が付いたかのようにびくりとして振り向いてから、
「オレがここにいたのは内密にしてくれ。我がスキピオの名に誓って彼女に無体なことはしないと誓う」と頼んだ。いや、命令した。
「ユリア様が悲しむようなことはなさらないよう、それだけはお願い申し上げます」と言葉を残してパンピリウスは部屋の出口に向かった。返事はない。
ドアを閉めるときにちらりと見ると、プブリウスはまたパンピリウスの存在など忘れ、愛おし気に彼女を見ていた。
ユリアの部屋に戻ると、アガサがユリアの側にいて年下の癖に姉のような表情で寝顔を眺めていた。彼女は久しぶりにゆっくりと元主人の顔を見ながら、この1年であった多くの出来事を思い出していた。
そして、自分は料理人の恋人とうまくいっているのに、なぜユリアと今主人であるルシウスがうまくいかないかを考えていた。
同じ獣化した人間として主人ルシウスを思いやる気持ちがある。しかし、獣頭のせいでただえさえ鈍いアガサには新しい主人の気持ちが読み取れないのだ。もうちょっとユリアの熱烈な気持ちに言葉や行動で応えて欲しいと思ってしまう。
「お可哀想なユリア様…こんなにお綺麗ですのに…」と髪を触ると、細い金糸のように燭台のたゆたう光を浴びて美しく見える。主人のルシウスに見せてあげたい、などと考えていると、
「さあ、私たちも参りましょうか」とパンピリウスが小さく声をかけた。アガサはユリアを起こさないよう振り向いて無言でうなずいた。
廊下に出てからパンピリウスはアガサに質問した。
「あの、アガサ様なら知っているかと思いますが、ユリア様は心からルシウス様の事が好きでいらっしゃるのですか?私は身代金の恩だけであのように尽くしているのではないかと
パンピリウスが真剣に質問したのでアガサが飛び上がった。
「やだ、パンピリウス様ったら!ユリア様が懸命にご主人様の心を掴もうと頑張ってるのがわかりませんか?…ふふふ、やっぱり若いのですね。お嬢様は以前と違って恋する乙女なのですよ。でも肝心のご主人様の気持ちがわかりにくいですわよね…私の恋人はスキピオ家で料理人をしているのですが、彼はご主人さまがユリア様を大好きだと申しております。しかし私にはどうもわかりかねるのです。きっとユリア様もそうでしょう」
(ふうん、アガサがこう言うってことはユリア様はやはりルシウス様の気持ちを疑っているようだな。うーん、アガサは単純だからユリア様の言う事を丸呑みしてそうな気がする…)
「すいません」と思ってもいないことを愁傷に謝るパンピリウスに、アガサは気を良くして言った。
「いいですよ。女性の気持ちがわからないのは殿方の特権ですもの、仕方ないですわ。ああ、でもティトゥス様などはとてもお詳しそうですケド」と唇にひとさし指を当てた。なぜだろう、アガサは可愛いのだが、パンピリウスは彼女には全く女性を感じないのだ。
(そうか、彼は確かにこのクエストのキーマンだ…明日はティトゥス様を探ってみよう…)
パンピリウスは明日までに結果を出してまとめると決意した。が、そう簡単にはいかなかった。
「俺は用事が出来たので戻ろうと思う」
朝食の席での突然のルシウスの言葉に場が静まり返った。用事など言い訳だと誰もが知っている。
ユリアは真っ青になったがなんとか持ち直して、
「そうですか、残念ですがご用事なら仕方ないですわね…」と答えた。
(やっぱりあの
ユリアは無理やり笑顔を作った。彼の前では最高のいい顔でいたい。初めて婚約するほど好きになった人なのだ。
「では、お気をつけてお帰り下さいませ」という気丈なユリアの声にすぐに続いたのはティトゥスだった。
「ルシウス様、帰るって本気っスか?まだ来たばかりっスよ…」
ティトゥスが驚いてユリアとルシウスを交互に見たが、彼の決意は変わらなかった。
「帰るのは決定だ。マルクス、昼前に出発するので準備をしておくように」
彼の突然の命令にマルクスも驚きを隠せなかった。なんせこのような場所は皆が夢のようだと昨夜使用人だけの宴会で話していたところだ。
「えぇー、マジっスか…」
ティトゥスは今後の仕事の展開において嫌な予感しかせず、ぐるりとテーブルを見渡して誰かに助けを求めたが、ルシウスの迫力に抗えるものはいなかった。ポンポニアさえ彼の有無を言わさぬ圧に恐れ入っている。
唯一対抗できるプブリウスは、ぼんやりとポンポニアの横顔を盗み見ている。今の彼は兄がどこに行こうと興味がないのだ。ただ、自分が彼女と一緒の空間に居られることと、邪魔者のティトゥスが兄と一緒にいなくなることをひそかに喜んでいた。
食事の後、ユリアは自分と同じく砂浜に沈みそうなくらいに落ち込んだティトゥスと、ポンポニア、プブリウスの4人で海まで散歩していた。砂浜には急遽帰る前に海に入ろうと遊びに来たスキピオ家の使用人がはしゃいでいる。
恋人といたアガサがユリアを見つけて駆け寄ってきたので、いい機会だとユリアはティトゥスとアガサを並べた。
「ティトゥス様、仕方がありませんわ。急で大変でしょうが、ルシウス様を宜しくお願いいたしますね。アガサ、またお会いできたら嬉しいです。恋人とケンカなどしないように、仲良くするのですよ」
今生の別れのような事を言うユリアに二人は飛び上がった。彼女はもうルシウスの前から消える覚悟なのだとわかってしまった。
「い、嫌ですっ!そんな、もう二度と会えないような寂しい挨拶なんてユリア様らしくないですよぅ!いつものよくわからない恋のパワーはどうしたのですか?」
「そうっスよ、ユリア様。貴女がルシウス様から離れたら、また以前に逆戻りっス。朝の使用人たちの困った顔を見たでしょう?みなユリア様を必要としているっス」
ユリアはそれを聞いてどうしていいのかわからず、ボロボロと朝食の席から我慢していた涙をこぼしてしまった。幸せになろうとしている彼にわがままを言って嫌われたくない、それくらいなら我慢する方がましだと思うのだ。
ポンポニアとプブリウスの二人はずいぶん先まで歩いて行ってしまっていた。彼らはお互いが気になり過ぎてルシウス達が帰ることなど眼中にないように見える。
「う…そんな、わたくしなどルシウス様にとってはハズレくじみたいな女です。彼を愉しませて癒すことのできる女性と出会えたのでしょう。いいのです、わたくしはルシウス様が幸せなら!邪魔などして彼に嫌われたくはありませんっ…」
「うっ…で、ですから、ルシウス様の幸せは…ユリア様なのですって!」
ティトゥスがとうとう大声で怒鳴ると、ユリアはびくっと俯いて砂浜を見た。ボタボタと大粒の涙が砂に沁みては消えていく。その姿は『そんなわけないです、慰めはいりません』と語っていた。
「ティトゥス様っ、お嬢様をいじめないで下さいませ。ルシウス様がユリア様を突き放したのです、どうしようもないではないですか?お嬢様、さ、涙をお拭きになって下さいませ」
アガサはいっぱしの女性らしくポーチからハンカチを出してユリアの涙を優しく拭いた。
(ぐっ…そうっス、始まりは私がワインをすり替えたことから始まった事。こうなったら本当の事をルシウス様に話すしか…いや、まだ死にたくないっス、どうしたら…しかし…尊敬する女性を泣かせてまで自分の身の安全を守るのはローマの益荒男として不甲斐なさ過ぎるっス!よし、覚悟を決めたっ!)
「申し訳ないっス、ユリア様っ。私めは今からルシウス様を説得に参ります。なので泣かないで下さいっ!ではっ」
ティトゥスはユリアの返答も聞かず、砂浜から別荘に向けて見たことのない勢いで走った。
彼は走って走って、何も考えられないように思い切り走った。ルシウスからどのようなお叱りを受けるかを考えたら足がすくんで止まってしまいそうだ。
「ふっ、ふー、着いたっス。よし、ルシウス様に話すぞ…部屋っスか…?」
ティトゥスが緊張からごくりと唾をのみ込んで建物に入ろうとすると、パンピリウスに声をかけられた。
「ティトゥス様、どうなさいましたか?大層困っている様子、良かったらご相談に乗らせて頂きます」
初めて話しかけてきたカエサル家の執事代理の若い男性をティトゥスはまじまじと見た。利発さがうかがえる話し方、物腰柔らかな立ち居振る舞いに知性を感じる。ギリシア系の出身だと人を見る目があるティトゥスは当てを付けた。
ティトゥスは元奴隷のパンピリウスから声をかけられたことはない。それでも声をかけたという事は、よほどの事なのだろう。しかしティトゥスには時間がなかった。
「な、なんでもないっス。今は急いでいるので…」
急いでルシウスを探そうと彼のもとを去ろうとした背中にパンピリウスは大声を浴びせた。
「わ…私はっ!敬愛するユリア様に幸せになって欲しいのです。奴隷から解放してくれたお嬢様に、どうしても幸せになって欲しくて…なので、今の状況をどうにかしたいのです。ここで別れたらお二人はもう二度と会えなくなるかもしれません。優しいけど頑固な方たちです。でも、結びつけばこれほど強い二人は他にはいませんでしょう。お願いです、教えて頂けませんか?もちろん他言は致しません。私もマルクス様と同じ執事なのですから秘密厳守には慣れております」
ティトゥスは思わぬ援軍に口をほころばせた。
「卵のくせに、生意気っスね。ではささっと説明するっス」
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