第29話 間違い探し

「ひゃあ、とても綺麗っスね!絵のようです」


 地中海周辺を飛び回るティトゥスが美々しい風景に声を上げるのは珍しかった。



 カエサル家の所有するバイアエの別荘は、ナポリ湾を望む山の斜面一面という広大な敷地の高台にあった。

 景勝地に相応しいぐるりと湾を取り囲む山に海、高い空。海辺には街と砂浜があり、正面にはソルファターラ火山、そのまた遠くにはベスピア火山がふたすじの不吉な白い煙をあげている。夕陽を浴びて海も空も真っ赤に染まっており、まるで山が噴火しているようだ。

 それぞれが心にかかることを忘れて馬車から降り、景色に感嘆の声をあげた。

 実際この温泉で有名な保養地バイアエは、ユリアたちの生きた500年後の4世紀に大地震に見舞われ、街の約半分が海へ沈んだ。その未来が予感されるほどの壮絶な美しさだった。



 カエサル家の元奴隷の執事見習いであるパンピリウスとルシウスの執事マルクスがテキパキと協力して采配し、部屋に荷物を運びこんだ。パンピリウスはガイウスに能力の高さを認められて、執事見習いの仕事をするようになっていた。

 ユリアたちが泊まる部屋はローマ市民の家と同じ程度の広さがあり、リビング・寝室・トイレと露天風呂まで備えている長期滞在向けの仕様となっている。もちろん一人一部屋だ。


「まあ、本当に素敵なところ…荷物を置いてから少し庭を散歩致しませんか?ね、ティトゥス様」とポンポニアが黒目勝ちの瞳を輝かせてティトゥスに振ったので彼はびくりとした。間違いなく昨夜の不手際について怒られるのだろうと思ったのだ。


 ユリアはルシウスの事で頭がいっぱいで、いつものポンポニアなら自分を誘うだろうに、などと疑問も持てなかった。

 なぜならルシウスはぼんやりしたり赤くなったり青くなったりしており、全く昨日までの彼とは違っていた。なにより今朝からユリアを一度も見てもくれないのだ。それをユリアは、飲み屋の給仕の女性とののせいではないかとますます疑った。飲み屋の女性はお金を渡せば売春もすることくらい、世間知らずのユリアだって知っているのだ。


「はっ、はい。もちろんお供致しますっス」


 昨日と打って変わってしゅんとした様子のティトゥスをみてポンポニアはため息をついた。


(この様子では間違いなく感づいている)


 しかし、この一行でプブリウスと自分の関係を知っているのはティトゥスだけのはずだった。ユリアは昨夜閉め出されたと言って早朝に帰ってきたので知らないはずだ。ティトゥスはルシウスの腹心なので大丈夫だとは思うが、早いうちに手を打って口止めしておきたかった。


 そんな二人から目が離せずにいたのは不機嫌なプブリウスだった。なぜイライラするのかも、眼にはすでに嫉妬の色がまじっていることにも自分で気が付いていなかった。




「では、絶対に秘密にしてくださいませね、ティトゥス様。昨夜の出来事はまったくの媚薬による事故で、2人の間にはひとかけらも浮気心などないのです。お互いに全くメリットのない噂が立つのは困ります」


 ポンポニアの話を聞いてティトゥスはホッとしていた。自分も悪いとはいえ相手の過失を責めるそぶりもない潔さに感心した。さすがユリアの友人だ、男らしさまで感じる。


「も、もちろんです!ポンポニア様も、絶対にルシウス様にだけは伝わることのないようお願いします、間違いなくぶち殺されちゃいますからっ」

「わかりました。ユリアもので気が付いていないようですし、ティトゥス様が口外しなければ大丈夫です。プブリウス様も自分可愛いさにきっと忘れてくれるでしょう」


 早朝に裸でお見合いした時の彼を思い出してクスリと笑った。ローマの剣と称される将軍の割にはあまりにわたわたしていた彼の反応が可愛かったのだ。


「ふう、やっと安心致しましたわ。しかし、なぜこんなことに…ユリアはあの夜ドアに鍵がかかっていたようで入れず、ルシウス様の部屋に行ったみたいなのです。しかしどうも二人はまだ…みたいですわ」

「うっ…じ、実は私、ルシウス様にこの事件がばれるのが恐ろしくて、近くのバルで朝まで足止めしていたんですよ。部屋に返ってプブリウス様がいないと気が付いた主人が何をするかわからなかったので」

「まあ!そうでしたの?ユリアはずっとベッドで一人待っていたから今朝からがっかりしているのですね、可哀そうに…しかし、私はこの旅行で二人をがっつり結び付けてみせます!」


 決意も新たにポンポニアが宣言してのでティトゥスはその諦めの悪さに呆れた。


「うぇー、まだやるんスか?私はもう凝りましたよぅ…人を呪わば、っていうでしょ?」

「何言ってるの、二人の幸せの為にするのだから呪い返しが来るわけないわ。ティトゥス様は意外と意気地なしですのね!いいですわ、私一人でも…」

「あー、もう、わかりましたっ!お付き合いしますよぅ」


 ティトゥスは乗り掛かった舟だと言わんばかりに嫌々言った。


「わかればいいのです。よろしくお願いいたしますね、ティトゥス様」

「うー、俺得ないじゃないですか!ポンポニア様はルシウス様が怒るところを見たことないから…めっちゃ怖いんですからねっ」

「そうですね、では…」


 ポンポニアはすっとティトゥスのそばに寄り、頬に軽くキスをした。昨夜のプブリウスとの情事のせいで少し開放的になっていた。


「…こんなんじゃだめですわよね、申し訳ございませんわ」と恥ずかし気に言うポンポニアは、夕陽を浴びて真っ赤の髪がますます赤くなっていた。

 当のティトゥスは、人妻とはいえ美女からのキスも貰ったし元気百倍とばかりに満面の笑みを浮かべた。




(な、なんだ、あの女…昨夜アクシデントとはいえオレと寝たくせに、なんでティトゥスなんかと…オレよりずっと格下ではないか!全く気に入らんっ!!)


 気になって仕方ないので散歩の振りをして二人をつけて話をこっそり聞いていたプブリウスだった。

 ティトゥスが彼女に「お付き合いしますよ」と言って、「よろしくお願いいたします」と彼女が嬉しそうに答えるのが聴こえた。そして、付き合いたての恋人のように慣れない様子でほおに口づけするのを見、今にも大声を出して彼らの前に飛び出しそうなプブリウスはそこを離れた。


(これ以上ここにいたらなにするかわからん…っていうか、オレは何してるんだ…なんとも情けない。これでは兄を笑えないではないか。二人がこの旅で恋人になろうとオレには関係ない…そうだ、関係ない…はずだ…)


 悶々もんもんとしながらプブリウスは部屋に戻っていった。




 ユリアと婚約者たちが来るというので別荘のもてなしの準備は万端だった。なんせ10年ぶりの滞在である、現地の管理人が気合を入れたのがよくわかるくらいどこも整っている。

 凝った作りになっている部屋は各自テーマがあり、一番豪華なユリアの部屋は春を表していた。ポンポニアの部屋は夏だ。


「わあ、素敵!ねえ、パンピリウス、素敵ね!!小さな頃に来たのですがあまり覚えていないものね」


 執事見習いのパンピリウスにユリアがわざと明るく尋ねると、彼は荷物を部屋に置いてユリアの少し後ろに立ちナポリ湾を眺めた。


「そうでございますね、とても美しゅうございます。…あの、お嬢様、ずっと申し上げたかったことがございます。お疲れのところ申し訳ありませんが少しお時間宜しいですか?」

「はい、なにかしら?」


 ユリアはきょとんとしてから背筋を伸ばしてパンピリウスに向き合った。同じく青い瞳がパンピリウスを真っ直ぐとらえた。


「わたくしを奴隷から解放して頂きありがとうございます。今は過分なお給金まで貰える身分となりました。お嬢様からのお願いだとガイウス様からお聞きしまして…すぐに御礼を申し上げたかったのですが、2人きりになることもなく今の今まで…申し訳ございません。他の使用人はきっちり購入時の金額を返しているのに、わたくしは…なので皆の前ではお礼を申し上げにくかったのでございます」


 うなだれるパンピリウスの顔をユリアは持ち上げて自分の方を向かせた。褐色の肌に金髪碧眼、短髪のくせ毛がうねる。若くて整った綺麗な顔立ちだ。今はもう奴隷だったころの少し卑屈な面影が薄くなっていた。


「いえ、わたくしがとても困っている時に貴方とアガサが奮闘して下さった御礼です。わたくし二人がいてくれてどれほど心強かったことか…!おかげでルシウス様にもお会い出来ましたし…何をしても足りないくらいですわ」


 ユリアの頬が少し赤くなるのを見て、ぴくっとパンピリウスの指が無意識に反応する。


(うっ…屋敷の使用人の間でも話題になっているが、お嬢様は本当にあの恐ろしい獣人をお好きなのだろうか…?身代金と引き換えの挺身ではないか。もしそうであれば、私はお止めして差し上げたい…大切なユリア様にはお好きな方と一緒になってもらいたいのだ…)


「パンピリウス、どうかしましたか?立派な執事を目指してカエサル家を盛り立てて下さいませ。なんとも頼りないお父様です、なにとぞ宜しくお願いいたしますね」


 急に考え込んだパンピリウスをユリアは気遣いつつ、自分がいなくなった後の父の事を頼んだ。父が変な輩を信用して屋敷に入れて身ぐるみはがされかねない人物なのは周知の通りだ。


「い、いえ、もったいないお言葉…あの、滞在中何か気になることがございましたら何でもお言いつけ下さいませ。お力になります」


 パンピリウスは今朝から様子のおかしな5人と、その中でも昨夜宿で明らかにお嬢様に変なものを飲ませようとしたティトゥスを思い出し、この滞在中は気を付けねばと気を引き締めた。


 そう、彼はティトゥスがユリアとルシウスに飲ませようとしたワイングラスを、庭でのパフォーマンスで人気ひとけのない間にテーブルを片付ける振りをしてティトゥスとポンポニアの席のものとすり替えた。

 しかし酒好きのプブリウスがティトゥスのワインをこっそり飲み干してしまい、あのようなことになってしまった。


(まあポンポニア様は共犯のようだから仕方ないですが、プブリウス様にはとばっちりで申し訳ないことをしました。しかし薬を盛るなど言語道断、ユリア様に降りかかる火の粉を放っておけません。なんとかこの暗い雰囲気を挽回してユリア様が楽しく過ごせるよう心を砕かなくては!それにはまず、お嬢様があの獣人と一緒になって本当に幸せなのかを探らなくては…)

 

 パンピリウスは海を見つめるユリアの悩まし気な後姿を見ながら眉間にしわを寄せて部屋を後にした。

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