第26話 バイアエへ
「ルシウス様のお名前に傷がつくといけませんのでギザのピラミッドを今回は諦めましたが、け、けっ、
ユリアはすでにルシウスを尻に敷く
しかし!しかしだ。他の女性が妻として彼の隣にいるなど、考えたくもなかった。正式に別れた今がチャンスなのだ。
(この旅行でルシウス様との距離をぐいっとゼロまで縮め、既成事実を作ってみせます!今回はポンポニアがいるので百人力ですわ!!ルシウス様、お覚悟して下さいませね…ふふふ)
そんなユリアの魂胆も知らず、ルシウスは真面目に答えた。
「わかった。シチリア島近くのリパリ島などどうだ?美しくて静かな場所だ、きっとおまえも気に入るだろう。七不思議のロドス島の巨像もいいぞ」とルシウスはなるべく近場に誘導しつつクールに答えた。
しかし心の中ではまんざらでもないどころか、ユリアとの結婚後の旅行計画に嬉しみが止まらなかった。彼は戦争で色々な地域を訪れているが、そこでユリアと観光できるなんて幸せ過ぎて神々の鉄槌が
彼女が自分との将来の計画を立てて楽しみにしてくれている、というだけで身体が喜び震えてしまうのがわかる。もし行けなくなっても、彼女の自分と行きたいという今の気持ちだけで幸せだった。
「いいな、オレも一緒に連れてけよ」とユリアの反対隣に座るプブリウスが口を挟んだ。「まあ、それはいい考えですわね!」とユリアが言おうとしたら、ルシウスは間髪を入れずに、
「おまえは早く結婚して自分の嫁と行け!今回は
(おおぅ…ユリアとプブリウスをひっつけるどころか、これでは逆効果ではないか…!なんと未熟な俺だ、感情でものを言うなど、これでは獣同然ではないか…)
そんな悩める獣人の心も知らず、「冷たいな、兄のくせに」「そうです、酷いですわ!お兄様ですのに」とプブリウスがわざとしかめつらをしてユリアに言っている。それを見てポンポニアはくすくす笑っている。
ユリアはスキピオ兄弟が以前に比べると格段に仲が良くなっているのを感じて嬉しかった。
「そうですわね、ルシウス様ったら冷たいですわよねぇ」とにやにやしたポンポニアがユリアに意味深に笑いかけた。ユリアは意図がわからずきょとんとして、ルシウスは眉間にしわを寄せた。
ポンポニアはユリアにとって姉のような存在だ。そして、どうもこの人を見通すような眼をした女性がルシウスは苦手だった。
ルシウスが弟に兄らしいことをしてこなかった償いで今回の旅行にプブリウスを連れてきたのだと女性陣は思っていた。そして、何かと弟が兄への嫌がらせでユリアにちょっかいをかけ、そのたびにルシウスはやや機嫌が悪くなるので、ポンポニアは笑ってしまうのだ。
強くて見た目が怖いわりに大層可愛くて鈍いところがある獣人、というのがポンポニアから見たルシウスの印象だった。カエサル家で行われたトーナメントでは人妻のため屋内から大人しく見ていたが、ルシウスの鬼神のごとき強さ、剣を自分の背に受けようとユリアをかばった勇気に酷く感動してユリアに相応しいと認めていた。
(まあまあ、この偉丈夫はあろうことか私の大事なユリアにべた惚れされているくせに、その光栄を疑って信じていないようですわね!この旅行でそのありがたみをじっくり実感させてあげますっ!そして、これ以上ユリアをがっかりさせるようなことをしたらどうなるか思い知らせてやりますわ!!軽いキスなど、お子様じゃあるまいし…ユリアをバカにするにもほどがあります!!全くもって失礼千万ですわ!!!)
実際はルシウスが軽いキス以上の事をしたら、恋愛にお子様のユリアは衝撃のあまり倒れてしまうだろう。そしてそこはルシウスも同様なのをポンポニアは知らない。
子供が二人いて離婚経験のあるルシウスだ、
姉御肌の彼女は石畳をゆっくり走る馬車のがたがた揺れる椅子にも慣れた様子で、都市から都市をつなぐ道路と移動時間を示したローマの道路地図を開いた。
古代ローマにはすでに旅行ガイドブックがあり、有名なものでは2世紀後半にパウサニアスが著した『ギリシア案内記』がある。
ギリシア全土を順路にしたがい神殿や公共建築物、お墓などの歴史や見どころを紹介した本だ。つまりそこを訪れる旅行者にとってのガイドブックになっている。パピルスに書かれていて重いので必要な部分だけ持参した。
「今はここらへんね。景勝地で有名なバイアエはどのようなところでしょう?私初めてなの!とても気分転換になりそうね」とポンポニアは地図を手に話を振った。
「まあ、そうですの?わたしくは亡くなった母と小さい頃よく訪れました。母は旅行が好きでしたから…以前はとても
ユリアが胸の水晶を無意識に触りながら母との思い出をぽつぽつ話し始めると、ルシウスとポンポニアは小さな可愛らしいユリアを想像してそれだけで泣きそうになった。10歳で母を亡くしたとは、小さな胸にどれほどの痛みだっただろうかと想像しただけで身体が万力で締め付けられるような気持ちに二人はなるのだ。
その向かいでティトゥスはあんぐり口をあけ、呆れてボスを見ていた。どうも獣頭で皆はわかっていないようだが、軍隊時代からの長年の付き合いのある彼にはルシウスの考えていることなどお見通しだった。
(十中八九ユリア様の小さな頃を想像してるッスね…これほどお好きなくせに、まだ彼女の愛情を信用できずに怖がって遠ざけようとあがくとは、この人は困ったものっス!どうせユリア様とくっつけようとしてプブリウス様を連れてきたのでしょう。しかしそうはさせませんよ、今こそ万年副官の腕の見せどころっス!もう二度とルシウス様を抜け殻にするわけにはいかないっスから!!)
プブリウスはというと、バイエアの昔話をするユリアの顔を見ながらぼんやり『恋』というものについて考えていた。
今までに彼は自分が『幸せ』になる為なら何でもしてきた。いつも兄を追い抜いてローマで、つまりは父に認められること。それだけが彼の願いであり『幸せ』への手掛かりだったのだ。
プブリウスにとってルシウスは万能だが冷たい存在だった。ルシウスの父の養子となってからも頼れる兄だが、兄から頼られたことなどなかったので悔しくて頼らないですむように努力した。しかし全く追い抜ける気がしなかった。
『戦場の雷鳴』という二つ名で敵に恐れられた兄はローマ軍の中でも頭一つ抜きんでていたし、プブリウスが見渡しても兄以上の人材はいなかった。忍耐力・洞察力があり、高いところからいつも状況を判断して被害を最小限にする冷静な鷹の目を持って戦略を練った。しかしいざ戦闘となると大将である自分が一番前にでて敵を蹴散らさん勢いの為、味方の士気もうなぎ上りだった。誰もが彼の為に戦おうという気になった。プブリウスでさえもだ。
雷鳴と称されるほどの極速の行軍も先頭を行く彼の背中を見てこそのものだった。
しかし獣化が発病してすぐに戦場から退き、ローマの家でこもりきりになった。プブリウスは戦場にいたので知らないが、家では誰も何も言えない状態が続き、とうとう兄嫁が家を代表して『出ていけ』と言ったそうだ。きっと父か母に言わされたのだろう、可哀想な女は今は違う男の妻となっている。
家から追い出されてカンパーニア地方の別荘に逃げ込んで引きこもっているのかと思ったら、兄は『恋』という不思議な現象に襲われるや否やあっさりスキピオ家を放り出してユリアの為に生きようとしていた。
別荘を訪れたプブリウスは衝撃を受けた。
あの冷静で人を人とも思わぬ傲岸不遜な兄の必死な顔!そして彼がユリアを見る目には一度も見たことがない優しさが溢れていた。慈悲でなく、相手の事を対等に思いやる兄なぞ見たことがなかった。
(兄がこんなだとローマ帝国もスキピオ家も大した価値がない気がしてくる…これではオレは自分が幸せなのだと自信を持って認められないではないか!どう見てもオレより兄の方が幸せそうに見える…昔よりずっと幸せそうだ…なぜだ…もう地位も名誉も失った獣人だというのに…)
この旅の誘いに乗ったのは、初めての気になる女性であるユリアの側にいたいのはもちろんだが、兄の事を知りたいと思ったからだ。
兄の後釜とはいえ華々しい戦果をローマに持ち帰り、今や誰もが小スキピオと呼んで軍神のように敬うプブリウスは、獣人になったことで家督もローマの将軍の地位も無くしたルシウスが以前よりも幸せそうに生きているのが不思議だった。もし自分が獣人になったなら、きっとカルタゴの廃墟に埋もれて死んでしまいたいと思っただろう。
要するに、プブリウスは以前は全てを持っている兄が羨ましかった。そして今は全てを失って、しかしユリアを得て幸せそうな兄が羨ましかった。
(そうか、オレは兄になりたいんだ…)
ユリアをこっそり見てはほうとため息をつく兄をユリア越しに見て、プブリウスはやっと思い至った。
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