第23話 百戦錬磨の父
闘志みなぎる黒豹の仮面の男を恐れて彼の前にぽっかりと混みあった会場に道ができた。
彼はその真ん中を堂々と歩き、白狐のお面の上からでもわかるほど嬉しそうなユリアとニヤニヤするガイウスの前を通って中央の闘技場に入った。
「おい、そこのおまえ…おまえなんかが一生かかっても稼げない大金をやる。だからそっちの男を倒してから俺に敗けろ。俺は本当はローマの将軍なのだ、万に一つも勝てっこないぞ」
プブリウスには勝てないとわかっている羽根のお面を着けたデキムスは、体格のいいルシウスに相談を持ち掛ける。もちろんルシウスは無視した。3人が対峙するが、その間もずっとデキムスはルシウスとプブリウスにまでぶつぶつと交渉をもちかけていた。
猛々しいトラの面を着けたプブリウスは兄の登場に全く驚いていなかった。いや、こうなるだろうと予測していた。
ガイウス同様プブリウスも柱の影から放たれるただならぬ殺気にトーナメント当初から気が付いていたので、わざとユリアに絡んで剣闘試合に参加するよう挑発していたのだ。ユリアの目前で自分のほうが上だと証明したかった。
(オレは兄を超える。そしてユリアと彼女にまつわるすべてを手にする!そうすればオレは…)
プブリウスはゆるく掴んでいた愛用の
「始めっ」というガイウスの合図とともに、ルシウスの剣がへっぴり腰のデキムスの目の前ぎりぎりを横切ってプブリウスに振りかかった。それをプブリウスは軽く受け流してそのまま返す刃でルシウスを真っ二つにする勢いで振り下ろす。
「ひゃっ!」と尻もちをついたデキムスの襟をガイウスが掴み、闘技場の外に放り出した。あまりの不甲斐なさに観客から大ブーイングがおこる。しかしすぐに皆の目はルシウスとプブリウスの激しい
剣がぶつかる激しい音や空を切る音が出るたびに皆の口から「おおう!」「きゃっ!」と声が思わず漏れた。本物の闘技場で見るよりずいぶん近いので迫力があり、今にも巻き添えで死んでもおかしくない勢いだ。
戦っている彼らはパーティー用の衣装を身にまとっている。もし刃が当たれば間違いなく深手を負うのも皆が目を離せない理由だった。
ユリアはルシウスを信じ切っているが、やはり緊張で両手を胸の前で祈るように強く組んだ。
どちらも胆力があり決定打がないまま打ち合いをしていたが、痩せて戦場からずいぶん長い間離れていたルシウスが一打ミスをすると、一気に形勢が逆転した。
プブリウスの剣先がルシウスの衣装と腹の皮を真横一文字に切り裂いた。が、ルシウスは一言も声を上げずに戦いを続けようとしている。
「…っ!」
血が闘技場に飛び散るのを見て蒼白になったユリアがとっさに闘技場に乱入し、会場が一気に凍り付いた。彼女はルシウスをかばうようにプブリウスの前に飛び込んでいた。
焦るルシウスとプブリウスの怒号が飛ぶ。
「このバカ者っ!」「ユリア、どけっ!」
あまりの想定外な出来事に流れは止められず、プブリウスの剣がルシウスの前のユリアに落ちる瞬間、ルシウスは剣を棄てて雷のような速さで彼女を抱き寄せ、かばうようにプブリウスに無防備な背をぐるりと向けた。
「ルシウス様っ!」
観客は思わず目をつぶり、ルシウスの背中に剣が深々と刺さっていると想像しながら恐る恐る目を開けた。
「そこまでっ」
ガイウスが電光石火の速さで動き、自分の慣れ親しんだ腰の
「黒豹の勝ちとする!異存があるものは前に出よ!!」
ガイウスは満面の笑みでルシウスの手を握って上にあげた。太い二本の手が並ぶと、めったに見られぬ素晴らしい試合に観客から大きすぎる歓声が沸き上がった。
「ルシウス様っ…大丈夫ですかっ?わたくし夢中で…申し訳ございませんっ」
ユリアはルシウスが血だらけにも構わず抱き付きながら叫んだ。ユリアは心配と喜びで頬が上気して真っ赤だが、ルシウスは反対に真っ青だった。彼女が頭から真っ二つになっていたかと思うと正気を保つのが精いっぱいだ。
「この…大バカ者めっ…戦いの間に入るなど言語道断だ!二度と許さんっ。肝が底まで冷えたぞ…」とルシウスはユリアの頭などを触りどこにもケガがないか確かめた。
プブリウスは負けの判定を受けて肩を落として二人を見ていた。
(くそっ…今度こそ本当に兄を超えられると思ったのだが、やはり無理だった…)
そんな失意の弟に気が付いたルシウスは彼の背中に手を置き、初めて兄らしい優しく言葉をかけた。
「プブリウス…強くなったな。あのまま試合をしていたらおまえの勝ちだった。しかしユリアだけは渡せぬ。いくら尊敬する弟であってもだ」
兄に思わぬ言葉をかけられてプブリウスは目をまん丸にした。兄に褒められたのだ。
しかし弟の口から出てきたのは素直でない言葉だった。
「嘘だ…いつもオレを見下していたくせに…」
口を尖らせて言う弟を見て、ルシウスはふっと笑った。
「それは違う。俺は小心者だからな、おまえにいつ追い抜かされるかと恐れていたのだ。今ならわかる、おまえがスピキオ家を継ぐのにふさわしい」
「兄さん…くそっ…オレはどうしてもユリアが欲しかった…」
ユリアはそっとルシウスから離れ、プブリウスの頬に手を添えた。
「プブリウス様…貴方様はわたくしにはもったいのうございます。ローマにはもっと素敵な女性がたくさんいますれば、きっとお望み以上のお相手が見つかるでしょう。…それに」
「なんだ、ユリア…」
プブリウスは頬に添えられた白い手に優しく自分のを重ねた。兄がそれを見て嫉妬で頬をひくつかせたのがプブリウスにはわかったが、彼女に触れるのを止められなかった。
(この小さな掌が愛おしいと思っていたのに…もうすぐにでも自分のものになると…)
「プブリウス様はルシウス様をとてもお好きだから、対抗しているだけのように見受けられますわ。わたくしの心がルシウス様の所有物であるからこそ欲しくなったのではないですか?」
「…っ」
そう言われるとそうかもしれない、とプブリウスは痛いところを突かれて何も言えず黙り込んだ。
何をやっても兄には勝てないから、せめて兄と好きあっている女性を自分のものにしてやると…兄への意趣返しからユリアを求めていたのは本当だった。実際兄の思いが自分のより強いのは先ほど剣を交えて十分にわかってしまった。
3人のやり取りを聞いて観客はざわめき始めた。
「ルシウス…?プブリウスだと?」「まさか!スキピオ家の二人の将軍なわけないよな…」「いや、あの身体を見てみろ、間違いなく普通の兵士じゃねえぞ…」
会場がざわめくと、ルシウスは黒豹の仮面を外して獣化した頭をさらした。プブリウスもため息をついて仮面を外した。
「我が名はルシウス・コルネリウス・スキピオ。ハンニバルを倒したローマ救国の英雄、スキピオ・アフリカヌスの孫であり、カルタゴと戦った誇り高いローマの兵士だ。そして、ここに居るのはカルタゴを滅ぼして我がローマに富と平和をもたらした英雄、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスだ!」
最後は弟に言い聞かせるように宣言すると、会場が大きく沸いた。ガイウスは満足そうに『ローマの剣』とまで称される男たちをみた。
「ルシウス様はやはりあのスキピオ将軍…なのですか?お父様は知っていらっしゃったの?」
「もちろん。ともに長くカルタゴで戦った仲間だからな、どんなになろうとカルタゴで会った時にすぐにわかったさ。なあ、ルシウスよ。私の可愛いお転婆娘を貰ってくれるか?こいつはおまえでないと結婚しないとわがままをぬかすのだ。おまえの為なら
ユリアが真っ赤になって父親を握り拳で叩いた。もちろんびくともしないが、それを父親は手に取り、ルシウスに手渡した。
ルシウスはアドレナリンの勢いで自分がしでかしたことに気が付いて今更おどおどとしながらも、大切なものを扱うように彼女の手を取った。今しかとてもじゃないけど言えなさそうだった。
「ユリア…おまえの為にこの美しい手を放そうとしたのだが、この気持ちはどうしようもない。俺はおめおめとローマまでおまえを一目見に来てしまった。獣人の分際でおまえを愛しく思っているのだ。おまえが嫌でなければ俺とともに生きてくれぬか?もう離婚は済ませた。スキピオの家督はこの弟が継ぐので俺は家を出る。戦場にももう行かぬ。俺はなにも持っておらず、その上こんな頭だがずっとそばにいさせて欲しいのだ…」
思わぬルシウスの言葉にユリアは青い目を輝かせた。
好きでもない人と成り行きで結婚させられそうで困っている自分を助けに来てくれたのかもと疑っていたが、まさか彼の口から『愛しく思う』などという言葉が出てくるとは思っていなかった。
「ルシウス様…そのお言葉、なにより嬉しゅうございます!わたくしにはルシウス様のお顔はどの方よりも気高く勇敢に輝いて見えております。しかし、わたくしの顔など見たくない、とおっしゃったのは、わたくしの顔が気に入らないからずっとこのように仮面をかぶっていろ、ということでしょうか?もちろん、ルシウス様がそうおっしゃるならば一生そのように致しますわ」
ユリアが意地悪で白狐の仮面を触りながらそう言うと、ルキウスは彼女をひょいと片手で持ち上げ、同じ目の高さにした。彼女の白狐の仮面を優しく取り、
「柔らかい…そなたの顔も、優しさも、話し方も、歩き方も、書く字も、真っ直ぐでお転婆なところも意外と
「ふふふ、仕方ありませんわね。これで許して差し上げます…」
彼女はたおやかな両手でルシウスの毛だらけの顔を包み、ゆっくりと唇を合わせた。初めて男性と唇を合わせたが、毛で顔がこそぐったいわ、とユリアは熱で浮かれた様にぼんやり考えていた。
ルシウスは驚きのあまりひっくり返りそうだったが、皆の前でユリアを抱き上げている手前そんな無様な姿を見せられぬと、一気に熱くなった頭でなんとか時が過ぎるのを待った。
「こらこら、大衆の面前でそういうことをするんじゃない!父親である私の前でなぞもってのほかだ!
自分の亡き妻も愛情表現が豊かだったことを思い出し、笑い泣きしながら言うガイウスの声と、ラエリウスが気を利かせて始めさせた音楽を聴きながら、二人はぎゅっとお互いを抱きしめた。
ふとルシウスは、老練なガイウスの謀略に乗せられたことに気が付いた。まさか親友ラエリウスと忠実な部下ティトゥスがその後ろにいるとは微塵も疑っていない。
「ユリアの父上はさすが百戦錬磨の知恵者だな。これから先ずっと頭が上がらぬだろう」
ユリアは言わずもがなとばかりに艶然と笑った。その様は白い花が咲きこぼれるようで、ルシウスは思わず見惚れるのだった。
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