第24話 困った二人

 カエサル家で催された剣闘は数週間ローマの話題の中心となった。新しいことが好きなローマっ子は新しい娯楽をいつも求めているのだ。

 しかしその催し物以上に、カルタゴとの戦争で武勇を上げた有名な将軍が獣人となってトーナメントで勝ち抜き、元老院議員の貴族の娘を獲得し婚約したというドラマチックな話は巷を賑わせた。

 さすがガイウス将軍だと賞賛する声もあれば、わざわざ獣人と婚約させるなどバカものだというあざけりや否定的な意見も多かった。しかし獣化した人間を勇気付ける行為でもあった。



 しかしその当の二人は、周りに認められて指輪の交換や婚約契約書にサインする婚約式までして大変幸せな状態にも関わらず、深く困惑していた。


 ルキウスは場の勢いでプロポーズしたものの、この先自分が獣人であるせいでユリアや生まれてくる子供を危険にさらすかもしれないと後悔していた。

 それに律儀なユリアのことだ、父親の身代金を払ってくれた自分への恩義でプロポーズを受けたのではないかとも思っていた。まさか奴隷以下の獣人の自分などをえり好んで好きになるわけがない、という気持ちが常に心の底辺にあるのだ。


 ユリアといえば、彼がトーナメントで戦った後にプロポーズをしてくれ、自分がはしたなくも若干食い気味に受けたにも関わらず、いつまでたってもルキウスが他人行儀なことに不安を感じていた。

 やはり年齢も年齢だしトーナメントで好きでもない男性と結婚させられそうな自分に同情したのかも、と疑っていた。




 ユリアのたっての希望で海辺の別荘に一緒に帰った二人は、以前の恒例だった夜の散歩はもちろん、毎食後にも散歩するようになった。

 二人が少しよそよそしいながらも一緒にいる様は別荘の住人たちを心からホッとさせた。特にやせ細った老執事のマルクスはホッとし過ぎて熱が出た。

 ユリアを追い出した後のルシウスは機能不全ポンコツとなり、仕事も生活もめちゃめちゃになっていたのだ。

 ティトゥスはせっかく軌道に乗ってきた商売が暗礁に乗り上げずに済んでほっとしていたし、使用人は主人の健康が戻ってきたのでほっとした。


 そしてアガサはユリアがルシウスと両片思いだったことに全く気が付かず、ふたりの婚約を聞いて飛び上がった。彼女は元女主人ユリアと同じく至極単純、ユリアが言うことは頭から真っ直ぐに信じていたので、お互いに愛などなく身代金の対価としての完全なる主従奴隷関係だと思い込んでいた。

 料理人の恋人は笑って「本当にアガサは鈍い」と呆れて笑った。厨房では早い段階から二人の恋の行方が話題になっていたからだ。


 ユリアは海辺の別荘に戻ってすぐに母親の形見の水晶のネックレスと5か月分の給金を渡した。アガサにはローマのカエサル家で3ヶ月も無給で働いてもらったのでお礼のつもりだったのだが、笑って突き返された。

 照れからふたつの赤いお下げ髪をぎゅっと掴んでいる。


「もう、ユリア様ったら!これはお母さまの形見ですし謹んでお返し致します。お気持ちは嬉しいですが、このネックレスを私が受け取ったらせっかく探し出してくれたご主人ルシウス様に悪いじゃないですかぁ。きっとユリア様の為に必死でローマ中の宝石屋をひっくり返したんですよ?私はお嬢様についてここに来たおかげで恋人に出会えました。結婚もユリア様たちの後にするつもりなんですから、ネックレスよりも早く結婚して下さいよぅ」


 アガサは照れているのか両手で自分の赤毛のおさげをぐいぐい引っ張りながらにかっと笑った。


「アガサはやっぱり名前通り善良な人ね…ありがとう。これからもずっと側にいてね」



 ユリアがルシウスを助けるために市場で譲ったネックレスだが、ルシウスが探し出して別荘に戻ってきた日にユリアの手に渡された。それを返すと自分がローマの市場にいた獣人だとばれてしまうので返せなかったのだとルシウスに言われ、ユリアは泣いた。亡き母親が自分とルシウスを繋いでくれたように思えたのだ。


「泣くな。おまえが泣くと俺も泣きたくなるではないか…あの市場でおまえが俺を苦界から救った。おかげで俺は生まれ変わっておまえや俺を大事に思ってくれる人たちの側にいたいと、そう思えるようになったのだ…」

「ルシウス様…わたくしはあの時のルシウス様のお言葉で生まれて初めて自分の内に潜む傲慢さに気が付きました。あの時の試練は神からおごっていた自分への罰だったのです。わたくしこそ、ありがとうございます。水晶を取り戻して頂き、本当にうれしゅうございます」


 ユリアの言葉を聞いてルシウスは恥ずかしさに顔から火が出る思いだ。彼女にかけた厳しい言葉は、自分に向けるべきものであった。


「ご、傲慢などと俺はおまえに不遜にも言ったのか…すまぬ、許せ!微塵もそのような事を思ってはおらぬ…おまえのような慈悲深い者に会ったことがなかったので戸惑ったのだ…」


 ユリアの首にネックレスをかけるルシウスの手首には、ピンクの貝殻のブレスレットが煌めいていた。




 別荘に二人で帰ってきて一か月経った頃、ルシウスは夕食前にユリアから散歩に誘われた。彼は隣で自分の左腕にぶら下がるようにして歩くユリアを何度も盗み見ながら自分の幸福を本物だと噛みしめて歩いていた。


「ルシウス様、今日も良き日でしたわね…カルタゴとの長期にわたる戦争も終わり、ご主人様の商売も順調とお聞きました。で、ですね…あの、お忙しいとは存じますが、折り入ってお願いがあるのです」


 ユリアのお願いと聞いてルシウスの心臓が密かに跳ねた。彼女の口から何が飛び出すのか全く読めなくて酷く動揺しているのを隠し、なんとか砂浜で足を踏ん張って持ちこたえた。


「そうさな、長い戦争が終わって皆安心して経済活動ができる。市民兵も帰ってきて、荒れてしまった畑を耕すだろう。どうした、お願いとは。心配事か?俺との結婚に不安があるならすぐに言ってくれ。もちろん婚約破棄に伴う罰金や不名誉は全て俺にある。おまえが幸せでないと俺は幸せになれないのだ」


「まあ…」


 ルシウスの口から『おまえが幸せでないと俺も幸せになれない』などと珍しく率直な言葉が出たのでユリアは頬を染めた。わたくしもです、とは恥ずかしくて言えなかったが、ユリアもルシウスの幸せが一番なのは間違いないのだ。


 しかしルシウスは婚約破棄の話でユリアが嬉しそうにしているのだと勘違いし、その場に崩れ落ちて膝を付きそうなくらい傷ついていた。懸命にそれを表に出さないようにして慎重に言葉を選んだ。


「お、俺に遠慮して無理に結婚することはないのだ。…結婚も悩むなら先延ばしにしてもいいのだからな…いや、むしろこの婚約はなかったことにしてもいいのだぞ」とルシウスに投げつけるように言われてユリアは飛び上がった。


(なんでそんな!酷いですっ…優しいルシウス様はすぐにわたしを遠ざけようとなさる。でもそうはいきませんよ!)


「えっ?!だ、駄目ですわ、などとんでもない!わたくしが不安なのは、いつ結婚するか日が決まっていないからなのです。ルシウス様…わたくしはルシウス様がそばにいないと幸せになれません。しかし、わたくしがもし早く死んでしまったらルシウス様が一人になってしまいます。だから貴方と…その……早く家族を作りたいのですっ!!」


 どうしても子供が欲しいとははしたなくて言えなかった。


 ユリアの母は32歳で亡くなった。ユリアが10歳の時だ。

 彼女はとても寂しかったが、兄と父がいたおかげで生きてこれた。それは兄も父も同じだろう。

 もし母と同じように自分が早く死んだら、ルシウスが一人になってしまうと心配で仕方ないのだ。


 しかし彼女の言葉はルシウスには十分と言っていいほど効果的な攻撃だった。


「そっ、そのようなことを言わないでくれ!おまえが死んだら…」


 ルシウスの背が急に低くなったと思ったら、がくりと膝を砂浜についたのでユリアはびっくりした。何が起こったのかと顔を覗き込むと、黒い瞳が不安で揺れておののいているのがわかる。

 ローマの勇猛果敢で知られた「戦場の雷鳴」の異名を持つ将軍がこのようにショックを受けているのを見、ユリアは彼が強くて何を言っても動じない神の化身だと思い込んでいたことに申し訳ない気持ちになった。お詫びにもならないと思いつつも、彼のモフモフの頭をぎゅっと抱きしめ頬ずりする。


「も、申し訳ございません…これほど悲しませてしまうとは思ってもおりませんでした。わがままを申し上げますが、わたくしはルシウス様と早く結婚をしたいだけなのです…」

「わかった…わかったから今はもうおまえはしゃべらないでくれ。おまえが何か言うたびに、俺の身体が内側から喜びや悲しみで千切れそうに痛む。どうにかなりそうなのだ…」


 抱きしめている彼の頭が震え、密かにすすり泣く声がしたが、彼女はぎゅっと抱きしめたままでいた。ローマの男は泣くことは許されずに育つ。どんな理不尽さえも吸収して強さに代え、戦場で戦う。

 そんな彼が泣いている顔を見られるのは嫌だろう。少しでも彼に嫌われたら生きていけないと感じるほどに、ユリアはルシウスを愛しく思うようになっていた。

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