第18話 買いかぶり
ローマをぐるりと囲む城壁は蛮族の侵入を防ぐために長い年月をかけて作られた。ブロックに成形された自然石を積んだ城壁は、場所によっては高さ10メートルもある。
カルタゴとの戦争(※第二次ポエニ戦争)で敵将ハンニバルは象を引き連れアルプスを越えてイタリアに侵入し、当初はローマ軍を次々と打ち破って進撃したのだが、この城壁を見て退却の判断をした。それ程堅古な城壁なのだ。
しかしすでにその内側の面積が足らなくなる予感を醸し出していた。首都ローマは紀元前130年の時点で37万5千人もの人口を抱えた。
新たな闘志を燃やすユリアと呆れ顔で彼女を眺めるラエリウスを乗せたラティーナ街道をつっ走る馬車は、うす暗い夕方には城壁の16の大門のうちの一つ、カペーナ門をくぐり、石畳で鉄の車輪をガタガタと音を立てながら市内に入った。
ごちゃごちゃした狭い道に詰まる馬車の列、道路際まで押し寄せる
以前は日常だった風景にユリアは長旅で疲れていながらも目を奪われていた。まぎれもない生まれ故郷・首都ローマだった。
「こちらに帰ってこられるなんて思ってもおりませんでした…」とユリアは懐かしそうに青い目を揺らした。
御者はもう安全とばかりに夕暮れのローマをのんびり二人に見せながらユリアの自宅に向かった。とにかく道が混んでいるのでそんな速度でしか走れないのだが。
古くからあるカエサル家は格式が高く、所有する土地も広い。200年もの間、先祖代々質実剛健、質素倹約を家訓として廃れることなく続いてきたのだ。今時の成り上がり
ユリアの父ガイウスは、たまたま訪れていたライン川の近くのゲルマン人の部族長から一夜のお供として差し出された金髪碧眼の娘を妻とした。
初めて出会った日の夜、ガイウスは
とても美しい娘だったので正直心動いたが、将来のトラブルになると困るし寝首をかかれる心配もある。なんせ寝ている時は戦士といえども無防備になるものだ。
しかしその実直なガイウスに娘が恋をしてしまった。彼女は同部族の婚約者をあっさり捨て、強く優しいローマ人と結ばれた。
普通であれば貴族と辺境の部族長の娘の結婚など到底認められないものであったが、ガイウスは三男で小さな頃は病気がちだった為、家長である父親も母親も彼に激甘だった。生まれた子供の半分は10歳まで育たずに死ぬ時代だ。
それに、彼が連れてきたゲルマンの娘は質素で気立てがよく素直だったので、文句を言うどころか両親も酷く気に入ってしまった。質実剛健な家風に合ったのが良かったのだろう。
その後、長引くカルタゴや周辺国との戦争でガイウスの父も兄二人も戦死し、結果三男のガイウスが家督を継いだ。父や兄たちが率いていた軍を動かしているうちに認められていつの間にか将軍になった。
だからユリアの髪はローマでは珍しい母譲りの本物の金髪で、他の女性のように金髪のかつらを被ったり脱色して赤く色を入れたりする必要がなかった。また、母の部族が住む辺境はローマに売られてくる多くの奴隷の出生地でもあるので、奴隷の扱いには注意を払っていた。
「さあ、ラエリウス様!せっかくなのでお父様にお会いになって下さいませ」とユリアはラエリウスを家に招待した。彼は大事なルシウスとの繋がりだったので、是非とも親睦を深めておきたいユリアだった。
ラエリウスは、望みを放してなるものかという彼女の圧にビビったのもあるが、しかし金で娘を買った卑怯者と父親に思われているかもしれず、二人は及び腰ですでに暗くなった彼女の家の前で立ち往生していた。
世に名高いカエサル家の当主ガイウスは年齢もあって今は『ローマの盾』と言われるが、以前は前に出て我先に戦う血気盛んで勇猛な将軍で知られ、下手をしたら顔の形が変わるくらいの
「いや、僕はいいよ…もう暗いし、また次の機会にご挨拶に…」「いえいえ、大変ご迷惑をおかけ致しましたし、少しだけでも…」と車寄せで馬車から降りて二人でもめていたら、
「ユリア!帰ってきたのか、ユリア、私の
その後からは懐かしい使用人の面々が燭台を手に歓喜の表情で出迎えた。ラエリウスが一足先に手紙で知らせておいたので、皆で待っていたのだ。
「お父様、よくご無事で!嬉しゅうございます…もう二度とお会いできないかと…」と言いながら、彼女は幼い子供のように父に抱き着いた。ガイウスはその金色の髪を愛おしそうにガシガシと撫でるので、髪は乱れてもしゃもしゃになった。
「おまえのおかげだ。炎上するカルタゴがくすぶる瓦礫だけになる前に帰ってこられた、礼を言うぞ。もう少し遅かったら命はなかったろう。
おまえのことはパンピリウスから聞いた。私の身代金の為に果敢にも奴隷市場に乗り込んだとな!さすが私の娘だ、肝が据わっている。それに比べて私はなんと情けなかっただろうか…
しかしこのような素晴らしい
ガイウスがラエリウスを見て心底がっかりした様子で言った。
「あいつ、とは…もしやご主人様のことでしょうか?…彼はおりません。代わりに彼の親友のラエリウス様がわたくしをここまで届けて下さいました。お父様、お願いがございます。ラエリウス様を通して彼にわたくしの代金を返しては頂けませんか?ご主人様はただ大金を払ってわたくしを大切に保護して下さっただけで、対価を一切受け取っておられません。わたくしは彼のための忠実な奴隷になるはずだったのですが、彼はそれを許しませんでしたので…」
ユリアの決意に触れてガイウスは胸が詰まった。
さすがの無鉄砲な娘も奴隷市場では不安でいっぱいだったはずだ。首に出身地や年齢など特徴を書いたプレートを下げた様々な肌色の奴隷の間に入ってセリに参加したユリアを想像するだけで胸がふさがるガイウスだった。
「ユリア…もちろんだ。ラエリウス君だったな、この度はいろいろお世話になった、礼を言う。君の親友にもお会いしてぜひお礼を言い、身代金の銀貨を返したいのだが」
ガイウスの友好的な態度にホッとしたラエリウスは、提案した。
「初めまして、ガイウス様。名前は明かせませんが、我が親友がユリア様の優しい心でどれだけ癒されたかわかりません。彼はきっとお金など受け取ろうとはしませんでしょう。しかし、朴念仁の僕が見ても、この二人がうまくいくにはそのお金が邪魔をしているように思えます」
「うまくいく…?ラエリウス様、何をおっしゃっているの?」
ラエリウスの言葉に戸惑うユリアは青い瞳を曇らせながら首を
「ユリアちゃん、君は身代金を払ってくれたから彼に魅力を感じているのかい?」
「え…?いえ、助けて頂いたのがきっかけですが、ご主人様の魅力はお金だけではありません。普通に出会ったとしても今と同じく深くご尊敬申し上げるでしょう。答えはもちろんノーですわ」
ガイウスは、娘が男性に強い興味を持っているのを初めて見て心底驚いて思わず叫んだ。
「やはりあの男は珍獣だったのだな!これほどユリアが夢中になるとは…」
父の失礼な言葉でユリアは美しい青い目を吊り上げた。ラエリウスがヒヤッとしたくらいの迫力で、空気が2,3度下がった気がした。この娘は普段は心配なくらいのおっとり刀だが、実は奴隷市場に自分を高値で売り込むほどの切れ味を隠し持っているのだと思い出した。
「お父様ってばなんと失礼な!彼は言うなればローマの神獣ですわ。海賊からわたくしを守って戦われた姿は息が止まるかと思うくらい美しかったんですもの…」
「そうかそうか、さすが私の娘、肝が座っている。では、さっそく…」
「いえ、それが、その珍獣はややこしくてですね…ユリア様に自分が
ユリアはラエリウスの言葉が信じられなかった。胸にない水晶のネックレスを探しながらおずおずと異論を挟んだ。
「あの…ラエリウス様、せっかくのお申し出ですが、それは買いかぶりです。ご主人様はわたくしの顔も見たくないとはっきりとおっしゃられました。彼に
「なんと?!大切な娘にそのような事を言ったのか?そやつ許せん!」
娘はルシウスの言葉を思い出してしょんぼりし、父親が激高した。
「あーもう、なんだよ、この直情親子は!?違いますってば、彼はユリアちゃんをとても大事にし過ぎて側に置けないんですよ!獣化した自分といると一緒に差別されるだろうと彼女に嘘をついているのです」とラエリウスは大切な友人の為に熱弁した。
ルシウスは名門軍人貴族に生まれて有名な祖父スキピオ将軍の孫として育てられ、若くして軍で功績をあげるほどの有能な兵士となった。祖父に引けを取らないほど兵を動かすのに
しかし、彼の人生は獣化したことで一転した。
一族、ひいてはローマからはじき出され絶望していた時に、全くの無関係のユリアに救われルシウスは変わった。
マルクスやティトゥス、そしてラエリウスなど自分に変わらず接する存在に感謝するようになり、愛しく感じるユリアの為にどうしたら一番いいのかを考えるようになった。それは間違いなく成長だった。
「騙されたと思って、僕の言うことを一度だけ聞いて頂けませんか?」
ラエリウスが灰色の瞳を熱く輝かせながら自分に頼む姿を見たガイウスは、
「もちろん…恩人の親友の言うことを聞かないでどうしようか。こんないい日が来たのだ、騙されたって全く問題ないぞ。さあ、暗いし中で夕食でも食べながらゆっくり相談しよう。用意は整っている」とすっかり信用した様子だ。
(もう…お父様ったらこうやって今まで騙されてきたのですわね!しかし、ラエリウス様の気持ちは本物でも、彼の言うとおりルシウス様がわたくしを大切に思っているとは到底信じられませんわ。きっと親友なのでいい風に解釈しているのでしょう…)
「お父様…ラエリウス様…」
ユリアだけが、せっかく帰ってきたというのにとても不安そうに二人の相談を聞いていたが、屋敷の前で今か今かとユリアの言葉を待っている者たちの顔を見たらそんな気持ちも吹っ飛んだ。
皆の端っこに立つパンピリウスも満面の笑みで迎えてくれていた。以前より堂々としている上に、お仕着せが立派になっている。奴隷の身分から解放されたようで、ユリアはホッとした。父が約束を守ってくれたのだろう。
「お嬢様っ!お帰りなさいませっ!!」「ご主人様の救出、お疲れ様でございます!!」「さすが俺らの自慢のお嬢様だ!」「私たちはまたカエサル家にお仕え出来て本当に幸せです」
次々と与えられる過分な祝福にユリアは涙がにじんだ。
(わたくしは何もしておらず、ただ、ルシウス様が助けて下さっただけなので…情けないお話ですが)
「皆には大変迷惑をかけてしまったのに、ここに戻ってきてくれたのですね…ありがとうございます!頼りにしておりますよ、これからも宜しくお願いします」
ユリアが皆に向かって涙目で言うと、皆も思わず涙をこぼした。結局皆カエサル家が一番居心地が良いのだった。
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