第17話 別離

 まだほの暗く肌寒い4月の早朝、ラエリウスとユリアは速度重視の小さな軽い馬車に乗り込んだ。

 荷物はあとでゆっくり運ばせ、とりあえず二人は馬を何度か取り替えて今日暗くなる頃にローマに着く予定で、かなり強行軍だ。


 ローマまで125マイル(約200キロ)もある。ここに来る時と同じようにゆっくりと1泊しながら帰るのだとラエリウスは思っていたら、ルシウスが泊まらずに済むような帰宅方法を勝手に手配していた。

 強行軍のうえ、暗くなると街道は危ないので、食事も馬車内でするようにルシウスからきつく言われていた。『早くガイウス殿に会わせてやりたいからな』などと言っていたが、要するに彼は嫉妬心からラエリウスとユリアを一緒の宿に泊まらせたくないのだ。一緒の馬車に乗せるのさえも嫌そうだった。


(僕をユリアに会わせてくっつけようとしていたくせに…っていうか信用してないんだものな…親友を疑うとは酷いよ!)


 ラエリウスは親友の自分に対する扱いに心中で文句を言いながらも、ユリアを気遣った。


「本当にいいの、ユリアちゃん?ちゃんとルシウスに会って挨拶しようよ」



 ラエリウスは、ユリアが何故に偽名でこのルシウスの海辺の別荘にいて、今追い出されようとしているのかを、昨夜幼馴染から説明を受けて開いた口が塞がらなかった。まさに呆れ切っていた。

 恋愛経験の乏しいラエリウスでも両想いに見えるのだ!

 しかし自分に輪をかけて恋愛経験皆無の幼馴染ルシウスは、今まで見たことがないほど憔悴して辛そうな顔をしている。それほどユリアを深く想っているのだと知った優しいラエリウスは口をつぐんだ。

 なんせ、大金で買ったくせに手も出していないというのだから驚きだ。ラエリウスの知っているルシウスはもっと割り切っていて尊大で冷たい男だった。飛び抜けて優秀な為に周りの人を一つ下に見ているところがあった。


 そして、ユリアはユリアでつい先ほどルシウスに別れの挨拶をドア越しにする始末だ。眼にはいっぱいの涙を貯めていた。酷いクマで美貌に陰鬱さが加わり、妖艶な雰囲気さえ醸し出している。今の彼女の姿を見たら、鋼の意志を持つルシウスであっても手放せなくなっただろう。


「…先日わたくしの顔など見たくない、と言われましたので…」


 ラエリウスはそれを聞いてひっくり返りそうになった。帰す為とはいえあまりに乱暴だ。とりあえず愛しく想う者にかける言葉とは思えなかった。


(嘘を付くにしても気が動転したにしても、なんでそんな酷いことをっ…!?まったくルシウスは!よくわかんないけど、これってすでに両想いだよねっ?!もう大声で『おまえら両想いですよーバカヤロー』って叫びたいっ!!こんな時に限ってティトゥスはいないし…)


 ラエリウスは灰色の瞳に憐れみを宿しながら彼女を慰めた。ルシウスの性格を知っているので今はどうしようもないとわかっていた。


「…そうか、可哀そうに。…ねえ、なんとなくだけどユリアちゃんはルシウスの頭を見たんでしょ?」


 ユリアはびくっとして、おずおずと悪いことをしたかのように小さく「はい」と答えた。


 先日の朝の海賊との戦闘でルシウスが邪魔なフードを外したため、頭部があらわになっていた。

 ユリアは彼とどこかで会ったことがあるのではと声と雰囲気でずっと思ってはいたが、やっとわかった。以前市場で出会った獣人だった。

 彼は獅子のお面を付けているかのように凛々しく、神話の世界の生き物のように神々しかった。戦っているルシウスはマース神を思わせる程強く逞しくて、そんな彼に抱きしめられたのを思い出すと動悸が止まらないユリアだった。

 以前出会った時の彼の瞳には強い憤りと恨みのようなものがあったが、その影はもう見ることが出来なかった。代わりに深い悲しみと強い光が宿っていた。

 しかし、市場での男性がルシウスだったことに言及して欲しくないのだろうと察して黙っていたのだ。


「やっぱり病気が怖い?」と灰色の瞳のラエリウスはカマをかけた。それならばお互いの為にユリアはここにいないほうがいいだろう。

 しかしユリアは驚いたように目を見開き、彼へ溜まりにたまった想いが零れ落ちるように勢いよく語り始めた。


「ち、違います!あまりにルシウス様が凛々しく神々しかったのて、助けて頂いた分際ぶんざいで彼によこしまな気持ちを持った自分が情けなく恥ずかしいのです。そんなわたくしを見抜いたのでしょう、ルシウス様に嫌われてしまい、顔も見たくないとまで言わせてしまいました。彼のそばに居られて浮かれていたわたくしがバカだったのです。本当はご恩も返せぬまま、全く気に入って頂けないままでローマに帰るなど、納得できません。しかし…」


「なあに?」とラエリウスは二人の気持ちのすれ違い加減の酷さに驚きながら聞いた。


(…1か月見てきたけど、どう見てもルシウスが嫌ってるわけないのに、わかんないんだ…。ユリアちゃんはやつに心底嫌われたと思い込んでるし、ルシウスは自分が好かれると思い込んでいる…いや、むしろ獣人とバレたから厭われていると思ってるだろう。困ったなあ…)


 ユリアは胸のペンダントの水晶を無意識に探しながら答えた。


「わたくしはこの屋敷でお荷物の役立たずでしたし、せめてルシウス様のおっしゃることにすべて従うと決めたのです。出て行けと言われたら黙って出て行くしか…」


 ユリアの話をあんぐりと口を開けて聞いていたラエリウスはガクンと脱力して首を前に倒した。

 もしユリアが本当の気持ちを吐露していたならば、彼女にすでに夢中なルシウスは折れていたかもしれない。反対にルシウスがそばにいてくれと言ったらユリアは『喜んで残らせてもらいますっ!』と言うに違いないのだ。

 ティトゥスならば面白がってユリアをけしかけるところだが、ラエリウスは至って真面目だった。なんせ、ルシウスは結婚している身だ。くっつくにも順序がある。


「はぁ…まあ、とりあえずローマに早く帰ろうか。連絡を受けた父上が首を長くして待ってる」


 そう、彼女の父が元老院議員であり、『ローマの盾』である将軍ガイウスなのも驚きだった。下手にけしかけたりは出来ないではないか。


「…はい」


 ラエリウスが手をあげて御者に合図すると、当たり前だが無情にも馬車は動き出した。

 ユリアは青い目にいっぱいの涙を貯め、ルシウスがいるであろう建物を見つめてから、ルシウスを惑わす邪魔者がいなくなる嬉しさを隠す老執事マルクスと、残念そうな庭師の2人、そしてボロボロと泣くアガサと彼女を慰めようと背中をさする料理人の男性に手を振った。ティトゥスは商隊に出ており不在だ。


 ルシウスは見送りに出てこなかったが、廊下の窓から彼女の姿をせめて一目でも見ようとしていた。しかし、見えるたびに刺すような痛みが胸を貫いて立っていられず、しゃがみこんではまた見て、を繰り返していた。すでに体内には後悔と不安しかない。


「アガサ、手紙を書きますね!恋人様と仲良くして下さいませ」

「うえーん、お嬢様ぁ!私、手紙待ってますからっ」


 アガサは毎日やたらキラキラして楽しそうでいると思ったら、なんとあの素晴らしい料理を作る料理人の男性と恋仲になっていた。

 ユリアはそれならばと残るように勧めた。彼女の足の獣化も知った上で恋人になった彼がいる上、ここの方が給料も条件もいいし、ユリアにとってはルシウスの息災を知る事も出来るので一石二鳥だった。

 段々小さくなる建物とアガサたち見送りを落ち着いてじっと見つめているうちに、ユリアは闘志が湧いてきて決意を新たにした。急に青い瞳に強い光が灯ったのがラエリウスにもわかり、その迫力に彼は思わずごくりと息を飲んだ。


「わたくしにはまだラエリウス様とアガサという糸が残っています、泣いてなどいられるものですかっ!ご恩返しもせぬままのうのうと生きていくなどカエサル家の恥!!絶対に認めませんわ、必ずやルシウス様にお金を使って良かったと思わせてみせます!」


「…すでにルシウスは良かったって思ってるってば…困った二人だね、やれやれ」とラエリウスはため息とともにつぶやいた。

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